騎士たちが単純に前方にある、と言っていた湖は、それからさらに数日を経て辿り着くことができるほどの距離だった。 道とも言えない踏み分け道が途絶え、湖が姿を現す。確かに広大だった。そしてその中央に島の影。光の加減だろうか、ふっと廃墟が見え隠れしている。壮麗だった。廃墟、と言うにはあまりにも往時の姿を残している。と、それはすぐに崩れた残骸に形を変えた。そして見る間にまた美しい建物へと戻る。それを繰り返していた。 湖は、ただそれを映している。静かに、廃墟と往時の姿とを。水面に映る影は波に揺れ消えては現れ、現れては消え。サイファはじっと、それに見惚れていた。 「へぇ、海ってこんな感じなのかしら?」 アレクが感嘆の声を上げる。魔物がいるかもしれない、と慮って一行はまだ湖には近づいていなかった。 「見たことはないのか」 「あら、アンタはあるの?」 「あぁ。以前」 アレクの答えにサイファは驚く。冒険をしているなどと言うのだからあちらこちらと旅をしているものと思い込んでいた。当然、海も見たことがあるとばかり。 「お師匠様と?」 ウルフが尋ねる。その声音に何かがあるのだが、サイファには見当がつかなかった。剣から伝わってくるのもいつもどおりの感情だけで特別変わったこともない。 「そうだ」 あれは何百年前のことだろう。師と共に旅をしてまわった。色々なところを見た。美しいところもあった。二度と訪れたくない場所もあった。海には、もう一度行きたいと思っている。 ずっと思っているのに、いまだ行けずにいる。師は海の側に住んだ。サイファも共に。すでに師の塔は毀たれ、今は何もないだろう。師の墓すらも。 「サイファ?」 「なんでもない」 「お師匠様、懐かしい?」 「懐かしいというほど、昔の思い出でもない」 サイファにとっては。人間ほど簡単に薄れるものではない。永遠を生きる半エルフの記憶は。 「僕らにとっては伝説ですけどね」 シリルか沈みかけた会話を救うよう、口を挟んだ。サイファはいぶかしく思う。薄れることのない記憶とは言え、普段から頻繁に思い出すものでもない。いまも鮮明に思い出すことができる師の姿ではあるけれど、この旅に出るまではそう思い返すこともなかったのだ。 いや、ごく最近まではだ、とサイファは思い直す。このところどうしてこうも師のことを思い出すのかわからなかった。 「さて、行きましょうかねー」 嬉々としたアレクの声。魔物がいると言うのも気にはなっていないらしい。アレクが言うところの自称騎士たちが苦戦した魔物であろうとも、いまの一行ならば退けることができる、と信じているのだろう。 「行くか」 誰にともなくサイファは言い、そして全員がうなずく。 「行こう」 わざと、だろう。明るく言ったウルフの声に押されるよう、一行は道から踏み出した。 湖のほとりに近づく。淡い色の砂に水が寄せては返している。深呼吸をしたくなるような景色だった。 「見て」 アレクの囁き声に一行は彼が指差す方向を見た。そこには散乱する白い物。 「骨、かな」 「そうみたいね」 「魔物にやられたんだろうか……」 「じゃないの?」 兄弟が囁きかわす。シリルがうなずき、神官の習性だろう、祈りを捧げようと白骨に近づいた。 「シリル!」 彼が止まるのと、アレクの警戒の叫びと、どちらが先だったろうか。叫びと共に一行はシリルに走り寄っていた。 「気をつけて」 アレクが言うまでもない、戦士たちはすでに剣を抜いている。サイファも高速詠唱でアレクの小剣に魔法をかけた。彼の小剣が仄かな光を帯びる。 白骨は立ち上がっていた。こつりこつりと、組み上がりすでに人体を形作っている。手に持つ剣も盾も骨でできているらしい。それが一行に向かって突進してきた。 「ウルフ!」 シリルの制止は間に合わなかった。ウルフは咄嗟に切りつけていた。無論、骨に対して有効であるはずもない。 「ちっ」 舌打ちをひとつ。ウルフは刃を返し、剣の腹で骨の戦士を叩きつける。がつり、嫌な音がして骨が折れた。生命のない白骨はひるむことなく向かって来る。 「猛き戦の神よ。命なき哀れな戦士を受け取りたまえ」 シリルの朗々とした祈り。サイファはほっと息をついた。死体に仮の生命を魔法的に与えられた魔物に対して、神官の祈りほど効果のあるものはない。 「そんな!」 が、白骨の戦士は一体も土に還りはしなかった。シリルの悲鳴じみた声が響き渡る。その間にも白骨は一行に骨の剣を振るい続けた。 「しっかりしてよ!」 呆然としかけたシリルに向かう白骨に、アレクが小剣を叩きつける。肩の骨が折れた。だらりとしたそれをかまうことなく白骨はアレクを蹴りつけ彼は紙一重で避けた。 「ごめん」 短い言葉で謝罪して、青ざめたままシリルもまた剣を振るう。左手の短剣で受け流しながら一つ一つとシリルは白骨を破壊していく。それにしてはいつまで経っても数が減らなかった。 「サイファ、見て!」 ウルフの声にサイファは振り向く。サイファとて黙って観戦しているわけではない。衝撃を与える魔法で少しづつ潰してはいるのだ。 またひとつ魔法を放った動作のまま振り返る。そこでは信じたくないようなことが起きていた。壊れた骨が集まっていた。そして折れた骨を除いて新たな白骨の戦士が組み上がっている。 「どうりで数が減らないわけだ」 サイファは自嘲の笑いを漏らした。シリルの神聖魔法で片がつく、と思い込みすぎていた。気づけばじりじりと押されている。このままでは湖に入って戦わなければならなくなる。不確かな足場での戦闘は言うまでもなく不利だった。 「シリル!」 「はい」 「竜牙兵だ。破壊しろ」 「了解しました」 たったそれだけでシリルは理解したのだろう。ウルフやアレクにも骨をひとつずつ折るよう指示を出していた。 竜牙兵はその名のとおり竜の牙から作られる。高い能力を持った魔術師かそれに類するものが行使することのできる魔法だった。サイファにも不可能ではない。ただし、竜の牙が必要だが。 死体に仮の生命を与えた物と違い、竜牙兵は完全な魔法生物だ。神官の祈りが効果を発揮しないのは擬似生命体であるためだった。これを竜の牙に戻す方法はただひとつ。ひとつずつ骨を折り砕くより他にない。単純にして実に面倒な方法だった。 「サイファ、後ろ!」 言いながら飛び出してきたウルフがサイファの背後をかばう。骨の砕ける音がしたのは、ウルフが剣で竜牙兵の骨の剣を受け止めたからだろう。 サイファは振り返りもせず魔法を放ち、また一体を完全に砕いた。 「きりがないわよ!」 アレクのわめき声にシリルが答え、剣を振る。まだ、押されていた。いつの間にか一行は湖に入りかけている。 「なんとか、ならないの!」 さすがにアレクの息が切れ始めた。竜牙兵をかわす体に切れがなくなっている。あわや、と言うところで避けた竜牙兵は湖に入りかけ、そしてよろよろと後退した。 「アレク、来い!」 はっと心づいたサイファが呼ぶ。兄弟が走り寄ってきた。それを見たウルフもまた、サイファの側に戻った。 一行が固まったのを見て、竜牙兵が特攻をかけてくる。サイファは精神を集中させる。結界は作らなかった。あれがもしも思うとおりの物ならば。 仲間を体の側に寄せたまま、サイファは湖に入る。竜牙兵が止まった。骨を掲げたまま、動かない。サイファはさらに足を進める。水が足首を洗った。 「なに、これ……」 アレクの声がした。けれどサイファの耳には届かない。集中を解くことなく、体の向きを変える。湖の中心へと。仲間たちもまた、竜牙兵を気にしつつもサイファに従う。竜牙兵は襲ってこなかった。 その時だった。辺りを圧する音。とてつもない水の音だった。 「嘘、なに……!」 目の辺りをかばったアレクが呆然と足を止めかけるのをシリルが制した。そのまま進めと無言で背を押す。 湖は割れていた。サイファの進む方向へと、一直線の水底が見えている。わずかに濡れた固い土。歩き難くはなかった。ぐったりと横たわる水草がある。それが確かにここが水の底だったことを語っていた。 「すごい……」 ウルフが声を上げた。両脇を見上げていた。水が壁になり、立ち上がっている。もう、ここは深い水の底であった場所なのだろう。立ち上がる水の壁は優に身長の三倍以上はある。そして前を見ればまだ、深くなっていくようだった。 淡々とした水の壁の中、魚が泳いでいる。彼らはなにが起こったのかも知らないのだろう。見れば土の上には一匹の魚も落ちてはいなかった。 「大丈夫そうだな」 ほっとし、けれど集中は解かずサイファは振り返り、そして息をつく。竜牙兵はサイファの視線に押されるよう、がらがらと骨に戻った。またいつか、この湖に侵入する何者かが現れるまで、竜牙兵は束の間の眠りにつくのだ。それを眠り、と言えるものならば。 |