まだ、ウルフの手の感触が残っているような気がする。わずかに触れた頬にあるぬくもりの余韻。それにサイファはたじろいだ。
 他者が髪や頬に触れたことがないわけでもない。何度も愛しげに髪を梳いた指を、包み込むよう触れてきた掌を、いまも思い出すことができる。だからサイファは思う。思い出すのがつらいことを、思い出してしまったから、だからたじろいだのだ、と。違うと知っているにもかかわらず。
「なにをする」
「別に。鬱陶しいだろうな、と思っただけ」
「本当か」
「うん」
 どうにも信用しがたい言葉なのだが本人がそう言う以上、追及もしがたい。渋々納得したサイファの目に映るのは顔を見合わせて笑う兄弟。
 言い返す言葉もなくサイファは立ち上がる。つられたよう、仲間たちが立っては体についた草を払った。
「行きますか」
 シリルが首をかしげて問うてくる。
「ちょっと待って」
 うなずいたサイファを遮ってウルフが口を挟んだ。兄弟も、サイファもウルフを見る。と、なにを思ったのかウルフが手を伸ばしてきた。
「離せ!」
 いったい何をするつもりなのだろうか。突然、このような形で抱きすくめられてサイファは咄嗟に突き飛ばすことも出来なかった。
「サイファ」
「離せ、と言っている」
「あのね」
「いいから離せ!」
 どこかおかしかった。そして気づいた。また、やっている。喉の奥でサイファは笑う。ウルフが不安定な石の上に立っている。少しでも自分より高い位置にいようと。
 この人間の若造の、その幼さがわずかばかり微笑ましくもある。が、だからと言っておとなしく抱かれている気は毛頭なかった。
「サイファ、大好きだよ」
 耳許で、普段とは違う位置から聞こえる囁き声。ぞくりとした。背中を殴りつけようとしていた手が止まる。
「サイファが人間、嫌いなのはわかってるけど、俺はあんたが好きだからね」
 止まってしまった手を、握りこんだ。ウルフはわかっている。本能的とも言える鋭さで、サイファがどれほどいま嫌な気持ちでいるか、わかっている。
「世界中が半エルフを嫌っても、俺だけはサイファの味方だから」
 真剣な声に蘇る遥かな過去。違う口が囁いた同じ言葉。誰よりも何よりも大切だった彼が言った言葉をいまこの若造が言う。兄弟に聞こえることはないだろう。サイファにだけ見せる、あの大人びた顔をしているに違いない。知らず肩口に額を預けた。
「サイファ」
 髪を撫でる手。抱きしめる腕。腹が立った。どれほど何を言おうと、死すべき定めの人の子のくせに。彼と同じく、この若造もいつか死ぬくせに。
「信用できんな」
「サイファ!」
 無理に体を離した。いつもと違う位置からウルフを見上げる。憤った顔をしていた。サイファはかすかに笑う。定命の子のまっすぐな怒りに。そのまま背中に回した腕に力を入れる。一歩下がった。ウルフがよろめいて石から引きずり降ろされる。
「こういう卑怯なことをする人間を信じられるものか」
 いつもの位置。自分より下にある赤毛を乱暴にかき回した。
「だって……いいじゃん」
 唇を尖らせてわけのわからないことを言いながらウルフがサイファの手を払う。
「サイファより、大きくなりたいんだもん」
「どうせすぐ伸びるだろうが」
「待ってらんない」
「私も待つ気はさらさらないがな」
「え、じゃあ!」
「なにを期待しているのか知らないし知りたくもないが、お前の背が伸びたころにはこの旅も終わっている、と期待している」
「俺はそのあともサイファと一緒にいる気だけどね」
「ごめんだな」
「逃げれば? 俺はあんた追いかけてどこまでも行くから」
 ふっと笑ってウルフはまた手を伸ばしてくる。今度は払い落とした。この人間の不可解な執念深さは侮れないかもしれない、サイファは思う。
 逃げてしまおうか。半エルフがいつか旅立つと言うどこかへ。そう薄く思ったものの本気にはなれなかった。
「勝手にしろ」
「するよ」
「……撤回する。ついてくるな」
「嫌だ」
「どうしてだ」
 言って不覚を悟る。言われることはわかっている。慌ててウルフの口を押さえにかかるも遅かった。
「あんたが好きだから」
 にやり、笑ってウルフは口を覆いかけていたサイファの手を取り、いたずらに軽く噛んだ。無論、サイファとて黙ってはいない。その手はそのままに、反対の手で思い切りウルフの頬を張り倒したのだった。
「えーと。そろそろいいでしょうか」
 シリルが笑いをこらえるのを失敗した声で言う。サイファは不機嫌に、ウルフはさらに不機嫌にうなずいた。それを見てはアレクが華やかに笑い声を上げるのだった。
 一行はもう一度、騎士たちが去ったのを確認し足を進め始めた。陽は中天をだいぶ過ぎている。夕暮れ間近の風が、フードを取り去ったサイファの髪をなびかせる。ウルフとのやり取りを忘れるほど快かった。
「ねぇ、アレク」
 いつもどおりの隊列で歩いている。歩き始めて機嫌の悪さを忘れることにしたのだろうか。ウルフの声は元に戻っている。あるいは殴られたのが痛かっただけで、さほど機嫌は悪くなかったのかもしれない。
 サイファは呆れて横目でウルフを見た。この、理解できないまでもの精神の回復力はどこから来るのだろう、と。これほど人間を嫌っていると、わかっているのにウルフは平然と自分を好きだと言う。それは特殊な意味ではないにしろ、友情としてであっても不可解だ。
 自分だけは特別だとでも、思っているのだろうか。ある意味では、当たっていないとも言えないとサイファは認めざるを得ない。ここまで積極的に自分に関わろうとした人間は、そしてそれを自分が受け入れている人間は師とこの若造と二人だけなのだから。長い年月にたった二人。
 それを思えば胸が痛くなる。いまもまざまざと思い出すことができる師の姿。死の床でこの手を握った強い力。知らず、師から授けられた指輪をいじる。なんの魔力もない指輪。けれどずっと肌身離さずつけてきた。指輪にはまった瑠璃石に目を落とす。出逢ったばかりの頃から最期まで少しも変わらなかった彼の目の色に似ていた。老いて後、体は衰えてしまったけれどそれだけは変わらなかった深い青。そんな思いに囚われていたサイファは、その姿をウルフがちらりと見たことには気づかなかった。
「さっきの、ほんと?」
 なにも見なかったような顔をしてウルフが言うのに前を向いたままのアレクが答える。
「なにがよ」
「乙女の祈り亭ってさ」
「あぁ……」
 言って振り返ったアレクが笑う。あまり人のいい笑いとは言い難かった。物思いから帰ってきたサイファは思わず顔を伏せて笑う。やはりそうだったか、と。
「嘘に決まってるじゃない」
「え! そうなの」
「乙女の祈り亭があるのはほんとよ。でも通いつめてたわけじゃないわ」
「へぇ、そうなんだ」
「だから、あいつらだって騎士がどうかわかったもんじゃないわ」
「なんで?」
「だってそうでしょ。あそこでアタシが飲み潰れてるの見たって言ってるのよ」
「アレクが乙女の祈り亭で飲み潰れたことはないからね」
「シリル! それじゃ、ほかで飲み潰れたみたいじゃないのよ」
「……違うとでも?」
 さも不思議そうに言ったシリルにアレクが笑って掴みかかる。その手をあっさりとシリルは払い落とし逆に手を掴んだ。
「まぁ、だからね。あいつらが適当に話をあわせたかもしれないことを考えると、騎士ってのも自称かもなと思うわけ」
 アレクが珍しく頬を赤らめている。思えばシリルとは思いを通じ合わせてそれほど時間が経っているわけでもない。このようにして手を取られることなど、少し照れくさくもあるのだろう。
 それがサイファには微笑ましい。いつもこれくらいにおとなしければよいものを、と思わざるをえない。そうすれば自分たちに介入してくることもなかろうと。
「シリル、手。離して」
 ふい、と顔をそむけてアレクが言う。それにシリルが素直に従ったのが不満だったのか、アレクはわずかにシリルを睨んだ。
 また歩調を元に戻した一行だった。ウルフが兄弟を見ては忍び笑いを漏らしている。ウルフから見ても今の兄弟はぎこちない恋人同士に見えるのだろう。
「サイファ」
 ウルフが背伸びをして囁く。問い返す間もない。手を取られた。振り払おうとしたけれど果たせず指が絡まる。
「離せ」
「やだ」
 ぎゅっと握られる手。妙なところで兄弟に感化されるのはやめて欲しいものだ、とサイファは溜息をつく。
「危険だろう」
 半ば本気で睨みつければ、ようやくここがどこだか思い出したよう、離した。
「サイファ」
「なんだ」
「これ、大事にしてるんだね」
 言ってウルフが指に触れる。指に、ではなかった。あの指輪に。
「……我が師から、頂いた物だからな」
「ふうん?」
 どこか含みのある声にサイファは戸惑う。ウルフが何を言いたいのか、わからなかった。




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