寝不足、と言うほどではないが、いまだ軽い頭痛が残っているような気がする。そもそも半エルフは人間ほど睡眠を必要とはしない体をしているのだから、この程度で寝不足になるはずもなかった。
 昨夜の面倒をサイファは思い出す。結界で囲ったのはよかったが、兄弟を壁で遮ってからが問題だった。
 ウルフがうるさいのだ。側に来ると言っては騒ぎ、蹴りつけて結界の端と端に横になったもののうとうとすると気づけば側にいる。また蹴り飛ばし、今度はサイファが逆の端に行く。そんなことを何度繰り返したか。
 荒地の外れからシャルマークの王宮を目指し奥地へと進む道をとりながらサイファは溜息をつく。
 結局、サイファは起き直り懇々と説教をする羽目になった。いったいなんのために一日余分にここに留まっているのか、戦士たちの疲れを取るためではないのか。戦士とは誰のことを指しているのか、と。
 それで一旦は聞いたものの、最後にはサイファが諦めることになった。おかげで寝不足だ、サイファは内心でぼやく。
 もっとも、眠りが足りないなどと言うことはない。どれほど熟睡したのかは自分だけがよく知っていることだった。だからこそ、サイファは認めまいと不機嫌なのだから。
「サイファ」
 前を歩くシリルが声をかけてくる。何か見つけでもしたのだろう。
「やはり、水辺が近いようですよ」
 言って草地を指し示した。
「そのようだな」
 シリルが示す草は確かに水が潤沢にある地に多く見られる種類だった。多少、雨が多いと言う程度では生えない。
「おもしろいね」
 ウルフが草を見ている。この子供にとっては、世界はいつも驚異に満ちているらしい。そんなことを皮肉に思う。サイファはかがんで柔らかい草の葉を一枚ちぎった。
「おい」
「なに?」
「食え」
 言い様、ウルフの口の中に草を突っ込む。アレクが驚いた顔をし、シリルはにやにやと笑っている。
「あ……」
 ウルフが目を見張り、次いで嬉しそうな顔をした。
「坊や、どうしたのよ?」
 軽い非難。無論、サイファに向けたものだ。いくらなんでも草を食わせるのは酷い、と紫の目が言っている。サイファは薄く笑って答えない。
「甘いよ、これ」
「なによ、それ」
「すごい甘いの」
「へぇ」
 うなずき、アレクが物言いたげな目を向けてくる。
「別にお前でもよかったんだがな」
「ふぅん、そぉ?」
「なにか、言いたいことでも?」
「べつにぃ」
 目をそらし、努力はしたのだろう。が、アレクは耐え切れずに笑い出す。
「アレク、どうしたの?」
「なっなんでもないの、いいの、気にしない……で!」
「変なの」
 呟いて、ウルフは草を噛む。噛み続けているとじんわり甘みが広がるのだろう、まるで子供の顔をして喜んでいた。
「さ、行くよ」
 相も変らぬシリルの声に、一行は止めていた足を元に戻す。シリルがアレクの肩を抱くようにして進めているのが目に止まる。
 以前には見られなかった光景だった。互いのわだかまりが解けるとこうも人間の間は親密になるのか、と不思議な思いだった。
「サイファ」
「なんだ」
「これ、なんていうの?」
「飴蓬」
「ふうん、聞いたことないな」
「人間がどう呼ぶのかは知らん。もっとも飴蓬と言うのも我々の言葉を人間風に翻訳したものではあるがな」
「じゃ、半エルフの呼び方?」
「子供の半エルフが菓子代わりにする」
「へぇ……」
「なんだ」
「サイファもだったのかな、と思って」
「……私にも子供時代はあったからな」
 あまり言いたいことではない。不機嫌にそれだけを言ったのだがウルフは意に介した様子もなくへらへらと笑っている。
「サイファの子供の頃って、絶対……」
 独り言だったのだろう。口にしていたと気づいたウルフが言葉を止める。じろり、睨んで先を続けさせた。どうせ言うに決まっている。ならばさっさと言わせてしまえばいいのだ。
「可愛かっただろうな、と思って」
 なぜそこでお前が照れる、とサイファは殴りつけたい衝動に駆られた。恥ずかしいのは聞いているこちらなのだ、とわめき散らしたらどれほどすっきりすることか。言っても無駄を知っているサイファは盛大に溜息をつくにとどめるのだが。
「あら、坊や」
 アレクが口を出す。いつものこと、とサイファは無視することに努める。また挑発にかかっているのだろう。だがウルフである。それが効果を見せるのはいつのことやら、と。
「坊やはいまのサイファだって可愛いんでしょ?」
「もちろん」
「坊やって、意外と強者よね」
「どこが?」
 言うだけ言って笑いに声もないアレクをきょとんとウルフは見ている。シリルが苦笑しながら続けた。
「よくサイファ相手に可愛いって形容詞が使えるね、とアレクは言いたいみたいだよ」
「だって可愛いじゃん」
「……どこが?」
「全部」
 ついにシリルも絶句した。それをどう取ったのだろう、ウルフが事細かにひとつずつ上げては可愛いを連発し始める。
「痛っ」
 ウルフが悲鳴を上げた。それでサイファは正気に返る。いつの間にか気が遠くなっていたらしい。知らず振り上げた拳をウルフの頭上、落としていた。
「痛いなぁ、サイファ」
「いつまでも馬鹿なことを言っているからだ」
「どこが?」
「全部だ!」
「そういうとこ、可愛いよ」
 からかわれているのだ、絶対に。そうでなければウルフがこんな笑い方をするはずがない。そうに違いない、と思い定めてサイファはもう一度拳を振り上げる。
「坊やが悪いわー」
 と、アレクが口を挟む。振り上げた拳の下ろし場所を失ったサイファは慰めにウルフの肩を小突いた。
「どうしてさ」
「本人の目の前であんな風に言っちゃ……」
「そっか」
「わかったの?」
「サイファ、照れるよね」
 言ってウルフは自分が悪い、何度もうなずいている。アレクが呆れ顔でそれを見ては同情の視線をサイファに向けた。サイファはアレクに「だから口を挟むな、と言っている」そう目顔で言い、アレクが溜息と共にうなずいた。
「サイファ」
「なんだ」
「今度は二人きりのときに言うね」
 兄弟の足が止まる。サイファは言葉もない。思わず頭を抱え、そして思い切り殴りつけようとする。
「はい、そこまでにしてください」
 咄嗟に振り返ったシリルがサイファの腕を止めた。睨みつけてもシリルが腕を離すことはない。唇を噛んでゆっくりと息を吐く。それでようやく離してくれた。
「僕の用事を増やさないでくださいよ、サイファ」
「すまない」
「もっとも、悪いのはウルフですけどね」
「そう言ってくれると多少は慰めになる」
 何度となく溜息をつくサイファをシリルは笑う。
「すみません」
 それから小声で言った。アレクの行為を謝罪しているのだろう。サイファも黙ってうなずく。嫌がらせでしていることではないだけに始末に悪いのだ。
「行こう」
 まだなにが起こったのかわかっていないウルフの腕を引っ張り、サイファは一行を促す。足を進め始めれば、アレクが振り向き様に一度サイファを叩く。顔も見ない。が、アレクなりの謝罪だと理解したサイファはかすかに微笑んだ。
「サイファ」
 問題はこちらだった。まったくなにを言い出すか予測のつかないこの若造をどうしてくれようか、サイファは暗い思いに駆られている。
「ごめん」
 小声で言った。前の兄弟に聞こえないよう、細い声。はっとしてサイファはウルフを見る。
「ちょっと、やりすぎた」
 戸惑いと後悔。それがウルフを大人びた顔にさせている。不意に悟った。わざとやっていたのだ、と。ウルフはウルフなりに、なぜかわからないことでアレクが絡んでくるのが気になっているのだろう。
「いい」
 だから、それしか言えなかった。下手なことを言って問題を大きくすることはない。
「嫌だったでしょ」
「まぁな」
「ちょっと癇に障ったから。ごめん」
 やはりそうだった、とサイファはうなずく。この若造は馬鹿ではない。愚かな子供のふりをしているだけだ。多少、知識に偏りはあるものの、だからと言って劣ることにはならない。
 なぜ、こんなことをしているのかがサイファにもわからなかった。あるいはこれがウルフをして自身を嘘つきだ、と言わせる何かなのかもしれない。
「気にしていない」
 それはウルフに対する答えではなかった。自分の心への返答。ウルフが何者であろうが関係はない。どんな過去を持とうが、いまここにいるウルフがすべてで、何も気にしていない、と。
「ありがと」
 小さな囁き。ウルフはサイファの答えを誤解してそう言う。ふっと心の中に沸き起こるなにか。決して不快ではない物。だから、それはウルフへの答えであり、誤解でもないのかもしれない、そう思うのだった。




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