手加減なしに殴りつけてしまった。ウルフの唇の端が切れている。 「痛いなぁ、もう」 非難の声を上げるも、若造の方が悪い、とばかりサイファは取り合わなかった。それでも多少は悪い、と思っている。 「お前が悪いんだ」 けれど口から出てくるのはそんな言葉で。どうもこの若造相手は調子が狂う。本心ではない言葉など、口にしたことはなかったはずなのに。 「照れるサイファも可愛いけどね」 わずかばかりの反省もそれで消し飛んだ。どう考えても若造が悪い。もう一度殴らなかったことが理性の現れ、と考えるべきだろう。 「あれ、殴らないの?」 「殴られたいのか」 「嫌だけど」 「殴って欲しければ言え」 「……ごめんなさい」 試みに手を上げたサイファに向かい、ウルフは殊勝げに謝って見せる。それでも口許が笑っているだけに効果は薄い。呆れてサイファも唇を緩めてしまった。 「サイファ」 ふっと笑ってウルフが体をかがめる。当然、サイファの上に。両手を顔の横についている。真正面に茶色の目。真剣すぎてそらすこともできない。 「降りろ」 珍しく鼓動が弾んだ。 「重い?」 「あぁ」 「ごめんね」 「謝るくらいなら……」 「少しだけ、こうしてたい」 サイファに聞かせる気があるのかどうか。あまりにも小さな声。 サイファは隠れてほっと息をつく。恋ゆえではない、と悟ったせいだった。迷子の子供がするような仕種。ただそれだけだった。 もしもウルフが恋を知ったとしたならば。自分はどうしただろう、ふと思う。あるいは拒まなかったかもしれない、そう思ってはぞっとした。 香り草の押しひしがれた香りの中。うっとりと包まれているせいだ。甘い、こんな場所は兄弟にこそ相応しい。自分たちなどではなく。 「サイファ、俺さ……」 ウルフが何かを口にしかけたときだった。 「動くな」 サイファは片手でウルフの頭を抱えこむ。自らの胸に抱いて動きを封じた。 「サイファ?」 かすかな歓びと不審。サイファは答えない。魔法を編み上げるのに忙しかった。 突如として甲高い悲鳴めいた声。いったいどんな喉から発せられるのか、そんな鳴き声が聞こえた。この香りの中、似つかわしくない声。 はっと身じろいだウルフを押さえ込み、サイファは魔法を放つ。 「がっ」 サイファは見ていた。頭上、猛禽の爪が襲い掛かる様を。これほど近くにくるまで気づかなかったとは不覚の極み。 「サイファ!」 今度はもうウルフを止めなかった。振り返った彼も見た。 燃え上がる鳥。苦悶の表情。 「なに、あれ……?」 まだ上がる苦鳴にウルフが顔色を変える。 「ハーピーだ」 鳥は人頭を持っていた。燃え上がり、苦しむ女の顔を。魔法の炎を受け、羽はすでに燃え尽きかけている。ぶすぶすと肉の焦げる匂いがした。 「油断したな」 自嘲だった。ウルフにかまけて気づかなかった。それをサイファは知っている。 「とどめ、さす?」 「必要ない」 ウルフを降ろし、サイファは半身を起こす。そして手指をわずかにひらめかせた。 ぱっと炎が燃え上がる。それは青い色をしていた。高温の魔法の炎はあっという間に魔物を焼き尽くし、骨も残さない。 「ごめん、サイファ」 「なにがだ」 「油断して。失格だね」 「そういうこともたまにはある」 「……慰めてくれてる?」 「精進しろ、と言っているだけだ」 「ん……」 叱ったはずだった。けれどウルフはなぜか嬉しそうに笑う。気にかけたのがそこまで嬉しいか。たったこれだけのことが。 馬鹿馬鹿しい、と思えばよかった。それなのに喜ぶウルフを見ているのが嫌ではなかった。それがこれまでになくサイファを戸惑わせた。 「こい」 立ち上がったウルフをもう一度座らせた。自分も隣に腰を下ろし、サイファは摘んだばかりの薬草を指でもむ。 「なに?」 「……切れてる」 「あぁ。大丈夫なのに」 言ってウルフは笑った。青く鬱血してしまっている唇の端に薬草をあて草の汁を塗りつけた。 ああいう不用意なことをするから、手加減を忘れてしまうのだ、と心の中で文句を言う。不思議とそれを、ウルフに言う気になれない。 意外と、自分もこの状況を楽しんでいるのかもしれない、不意に思った。無論、この、と言うのは殴りつけていることであって、絡まれていることではない。そう思った途端、心が軽くなったサイファはうつむき顔を隠しては笑みを浮かべる。 「ありがと」 単純に喜ぶウルフを見ても動揺はしない。子供のようにじゃれているのが面白いだけ、と思えば落ち着いていられる、と言うものだった。 「あーら、また坊やったら殴られたの?」 がさり、草の音を立てて兄弟が戻ってきた、と思えばアレクの第一声はそれだった。ちらり、魔物の残骸と思しき物に目をやっただけで何も言わなかった。 「またって何さ」 「だっていつも殴られてるじゃない。たまには殴り返したら?」 「俺が? サイファを? 無理無理」 「情けないわねぇ」 「て言うか、サイファを殴るなんてやだもん」 「綺麗だから?」 意地悪いアレクの問い。にんまりと笑っている。 「違うよ。サイファは俺が守るの。だから俺が手を上げちゃだめでしょ」 ウルフはまったく乗らなかった。あるいは挑発されている、と気づいてもいないのかもしれない。サイファはやり取りを見てはひっそりと溜息をつく。 「ねぇ、サイファ」 「なんだ」 今度はこちらに矛先がきた、とサイファは体を硬くする。アレクは相変わらずの笑みを浮かべているのだが、どことなく普段よりも楽しげだった。 「薬草とか香り草とか集めてたのよね?」 「そう、だが」 「ふぅん」 警戒に、思わず後ずさってしまった。アレクが笑みを深くする。 「じゃあ、どうして髪に香り草がついてるのかしら。不思議ねぇ?」 はっと手をやる。指先にちぎれた香り草が触った。払い落とす。まさか、とは思うが見ていたのではないか、と思ってしまう。軽く睨んだ目はあっさり笑みでかわされる。溜息をついてサイファは話を打ち切ることに決めた。なによりウルフが口を滑らしかねない。向こうで赤くなっているのだから。 「なにか収穫はあったのか」 「えぇ、ずいぶんと。水辺が近いかもしれませんよ」 「ほう?」 シリルが言って獲物を掲げて見せるのをサイファは近づいて確かめた。 「鴨か。確かに」 「でしょう? あとは山鳥と兎を」 そういうシリルの手の中にあるのは、すでに羽や皮を剥かれた肉だった。野営地の側で血の臭いをさせるのは好ましくない。とはいえ、面倒をかけてしまった、とサイファは軽く頭を下げた。 「気にしないでください」 シリルが少し背伸びをしてサイファの耳許に囁く。 「アレクと、一緒にいられましたから」 と。それだけ言って離れてシリルは幸福そうに微笑んでいる。 羨ましくなどない、と言えば嘘になる。ずっと一人で過ごしてきた。師と暮らした時間のほかはただ一人。半エルフの常として、母は分別がつく以前に亡くなった。母は人間なのだから。 以来、師に出会うまでサイファは一人だった。彼が亡くなった後も一人だった。特別に一人が寂しい、と思ったことはない。あるいは寂しいということを知らなかっただけかもしれない。彼を失った喪失感だけが今も胸を焼く。 だからいま、この幸福な一対を見ては羨むのだ。半エルフの自分にこんな出会いはない、と。あるいは師と過ごした時間がそうであったのかもしれないとは思う。けれどあれは恋ではない、一対でもない。真っ直ぐ、正面を見たままサイファはなぜか自分の意識が背後に行くのを抑えられない。そちらにはウルフが、いた。 「さあ、用事を済ませてしまいましょう」 シリルの声に救われた。サイファはうなずき、薬草や香り草の処理に手を貸す。アレクに叱られながらウルフが肉の始末をしている。塩をすり込み薄く切って干す。別の物はじっくりと焼く。そうやって糧食を作るのだ。 「お疲れさま」 シリルの声に溜息とも歓声ともわからない声をウルフが上げた。細かいことはとことん苦手なのだろう。いままではシリル一人に任せていたのだから見ているほうが危ぶむほど不器用だった。 「終わり? やった」 言ってウルフは大きく伸びをする。その腕をアレクに小突かれた。 「なによ、坊やはそんなに働いてないでしょ」 「酷いなぁ。頑張ったじゃん」 「そうかしらぁ?」 言葉ほど嘲笑ってはいないらしい。アレクは口許で微笑み、それから手を伸ばしてウルフの赤毛をかき混ぜた。 サイファは目をそらす。黙って香り草の茶を淹れた。ゆっくりと煮出していると、気持ちが落ち着く香りが漂う。アレクの仕種。不愉快だった。そう思う自分がまた、不快だった。 鍋をかき回す匙に力が入ってしまう。それほど強く混ぜてどうしようと言うのか。知らず、苦笑した。 「サイファ。味見」 いつのまに側に来たのだろう。ウルフが隣に腰掛けて笑っている。覗き込む目は楽しげだ。アレクに遊んだもらったからか。沸き起こる疑心に囚われてサイファは口を開けない。黙って匙を渡した。 「意地悪」 唇を尖らせ、ウルフはそのまま匙を返してくる。何事か、と思って見ていると期待するような目。ようやくわかった。いまだけは、甘やかしてやろう。匙で茶をすくい口許まで運んでやる。 「あち」 「当たり前だ」 「吹いて冷ましてくれたっていいじゃん」 「自分でやれ、それくらい!」 怒鳴ってすっきりした。変わらず、ウルフが笑っていたせいかもしれない。自分の心の歪みを察知して側にきたとは思いたくなかった。そうとしか、思えなかったけれど。 この曖昧な状態が、ずっと続けばいい。そう願うのはウルフを信用し始めてしまった証かもしれなかった。 |