温かい物がそこにある。旅に出て以来、こんなに安らかに眠った覚えがない、夢現の内にサイファは思う。目の前のそれに顔を埋め緩く抱いていた腕に力を入れれば、体に乗っていた重たい何かが背中を撫でた。それに夢を覚まされた。飛び起きる。
「……何をしている」
 咄嗟に腕を振り上げる。魔法を放つか殴りつけるかまでは考えていなかった。
「ちょっと、待ってよ!」
 慌てた様子のウルフが下から見上げては腕を掴む。微笑んでいた顔が強張りに変わった。
「離せ!」
「やだ」
「いったい何をしていた!」
「何って……」
「さっさと言えば殴るだけで済ませてやらないでもない」
「サイファ! 俺、なんにもしてないってば」
「嘘をつけ」
「抱きついてきたのはサイファ! 俺じゃないって」
「……ふざけるな」
「ほんと! 寝返り打ったな、と思ったら抱き――」
 ウルフはそれ以上言えなかった。掴まれた腕をもぎ離したサイファに喉許を押さえつけられたせいだった。
「寝返り?」
「そう、だって」
 掠れ声で答える。少し、咳き込んだ。
「だったらお前も寝返りを打て!」
「そんな無茶を言う」
「どこがだ!」
 ウルフは言い返さない。笑うのに忙しいのだ。呆れてサイファは若造を見下ろした。油断したのだ、だから。再び腕を掴まれ、引き摺り下ろされる。ウルフの体の上に。強い腕がサイファの背中を、首を押さえていた。ウルフにすれば抱いているつもりだろうが、いささか力が強すぎた。おかげで息もできない。
「ほんと、サイファって可愛いね」
 鎧を着ていない胸の中、抱き込まれて身動きもできない。腹立たしくて抗った。
「あんまりよく寝てたからさ、起こさなかったんだ」
 口を塞ぎたかった。怒鳴りつけたい。これ以上、戯言を聞きたくなかった。
「まさか俺の腕ん中であんな風に寝てくれるとは思わなかった」
 昨夜のことを後悔してもしたりない。遠くに離れて眠るのだった。いっそ、もうひとつ壁を立ててしまえばよかった。温かさに負けた自分が許せない気持ちだった。
「サイファ……」
 まだ言い募ろうとするウルフに逆襲を試みる。そう言うにはあまりにも情けないやりようではあったが。かろうじて動いた手で、赤毛を思い切り引っ張ったのだった。
「痛いって」
 少し、腕が緩んだ。サイファはその隙を狙ってなんとか胸の中から逃れだす。どんな文句を叩きつけてやろうか、そう思い切り息を吸った。
「少しは加減と言うものを覚えろ!」
 なのに、咄嗟に口から出てきたのはそんな、自分の意思とは関係がないかのような言葉だった。
「あ、ごめん」
「苦しい」
「ごめん、サイファ」
「少しは学習しろ。何度言わせる気だ」
「ん、努力する。だから許して?」
「いやだ」
 いったい自分はなにを言っているのだろうか。どうやら悪夢でも見ているとしか思えない。まぎれもない現実だと言うのはよくわかっていたが。
「離せ」
 まだ緩く抱かれていた。嬉しげに笑っている。剣を外しているウルフからは、いつものように感情は伝わってこない。それでも剣などなくとも明白だった。
「もうちょっと」
 サイファは自由になった手を意味ありげに掲げた。無念そうに手を離すウルフ。仄かにサイファの唇から笑みがこぼれる。
「綺麗だね」
「なんのことだ」
 辺りを見回す。日は高いとは言えないが、早朝とも言えない。多少、寝過ごしたのだろう。朝の光の中で見る荒野の外れは、確かにある種の美がある。
「違うって」
 ウルフがおかしそうに笑った。サイファはなぜか見ていられなくて視線をそらす。
「サイファが綺麗だなって思ったの。もうちょっと笑ってくれたらいいのに」
「絶対に嫌だ」
「そこまで言わなくってもさー」
「お前なんか大嫌いだ」
 どうせ反論はわかっていたが、それでも言わずにはいられない。案の定、ウルフ笑って思ったとおりのことを言う。
「相変わらず嘘が下手だよ、サイファ」
 だからサイファも期待通りウルフの腹を殴りつける。体勢が悪いから、さほど痛みはなかっただろう。わずかなりとも気晴らしをしたサイファは鼻を鳴らしてウルフの体から降りた。
「さっさと鎧をつけろ」
 こんな所を兄弟に見られるか、と思うだけで眩暈がしそうだ。せめて鎧くらいはつけさせておかないと、どんな誤解をされるかわかったものではない。
「ちょっと待って」
 背を向けて、あえて遠くに座ったサイファの後ろにウルフは立つ。と、突然そこに座った。サイファを背後から抱いて。
「いい加減にしないか」
 無造作に肘を後ろに叩き込む。ウルフは器用によけた。
「兄弟を起こす。早くしろ」
「あのね」
「壁を取りたいのだが」
「やれば? 見られて困るのサイファでしょ。俺じゃないもん」
 一瞬、理解出来なかった。ウルフが笑っている。なにを困るものか、取ってやる。思っただけで実行できはしない。ウルフが言っているのは事実だ。
「兄弟、なんて思うかな?」
 開いた口が塞がらなかった。胸を抱いていた腕が頬に伸びる。払い落とした。
「兄弟みたいになっちゃったって、思うかな?」
 喉の奥で笑う声。耳許で聞こえた。昂然とサイファは顔を上げ、ゆっくりと腕に手をかける。魔法を放つ前に、笑ってやろうかと振り返りかけた。
「ま、冗談だけどさ」
 言ってウルフは何もなかったように体を離した。気勢をそがれたサイファは言葉もない。
「じっとしてて。なんにもしないから」
 離れたウルフが言って何かごそごそとやっている。鎧をつけ始めたのだろう、とサイファはようやくに息をついた。
 ほっとしたのも束の間、ウルフが戻る。戻ったと思ったら舌の根も乾かないうちに髪に触れた。
「おい」
「髪、梳かさないと」
「自分でやる」
「いいからさ」
 不器用な手が櫛を持っている。先程のはこれを探しに行ったのか、と思い当たった。機嫌よくウルフが櫛をあてている。
 無駄を悟った。やたらに抵抗するよりも放っておいた方がずっと早そうだった。サイファは努めて何も感じないよう目を閉じる。
 が、それも難しかった。不器用すぎるのだ。手でさばけば梳かしたように絡まないはずの髪が、どうしてこれほど引きつるのか理解に苦しむ。
「ごめん、もうちょっと」
 さすがに悪いと思っているのだろう。声は真剣だった。どれくらい苦しんでいただろうか。取り去った革紐をウルフが再び結んだのは、サイファにはまるで日が落ちた後にも感じるほどだった。
「はい、できた」
 嬉々としてウルフが無意味に髪を撫でている。何を考える間もなくサイファはその手を払う。払ったと思った手はまた伸びてきて、先程のよう体を抱いた。
「サイファの寝顔、可愛かった」
 どうやったものか、見当もつかない。サイファは腕の中を抜け出して、思い切りウルフの頬を張り倒していた。
「痛ってぇ」
 しっかりと赤くなった頬を押さえてウルフが顔を顰めている。
「自業自得と思うのだな」
 心持、顎を上げてサイファは口許を歪めた。なぜかウルフがそれを見ては顔をほころばせる。
「サイファ」
「なんだ」
 不審に堪えない、きっとそんな声だっただろう。
「サイファ、照れてる?」
 どこからどう何を引きずり出したらそんな問いが出てくると言うのか。もう一度掲げた手からウルフは巧みに逃れつつ楽しげだ。
「可愛いね、ほんと」
「まだ言うか!」
 放った蹴りはあっさりかわされた。意外と機敏になったものだ。妙なところで感心してしまい、ついでに若造が自分の首飾りをまだしていることを思い出す。返せ、と言いたいが言葉が出てこない。怒りのせい、と思いたかった。
「さっさと鎧をつけないか!」
「また抱っこして寝ていい?」
「いい加減にしろ」
「大好きだよ、サイファ」
 自分の境遇を、これほど哀れだと思ったことはない。噛みあわない会話を続ける気をなくし、サイファはウルフの胸元に飛び込む。
「サイファ?」
 疑問の声を聞いたかどうか。気の緩んだウルフに向かいサイファは手を振り上げ、最前と寸分変わらぬ場所をもう一度殴りつけた。




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