壁の向こう側、何が起こっているか感じ取ろうとすれば感じることはできる。だがサイファはそうしなかった。そうするまでもない、と言った方が正しい。 「ねぇ、サイファ」 まだぼんやりと器を持ったままのウルフが岩を背に首をかしげている。 「なんだ」 「兄弟、仲良くしてるかな」 「……だろうな」 あまりの言いように頭痛がしてきそうだった。彼らの言動を理解している、と思ったのは間違いだったのだろうか。 「だといいんだけど」 言って、思い出したよう、器を地面に置いた。 「だってさ、シリル。ずっとアレクのこと好きだったじゃん?」 驚いて、サイファはむせそうになった。まさか、そちらを理解しているとは思ってもみなかった。 「どうかした?」 「シリルの方をわかっているとは思っていなかった」 「だって……。変?」 「いや。アレクは比較的分かりやすいと思うが……」 「俺はシリルのほうがわかるな」 「ほう?」 「だって、シリルは命がけだよ」 そうしてウルフはサイファを見る。サイファは目をそらした。 言っている意味はわかる。偽りでも口先でもない。ただ、聞きたくなかった。 「ま、仲良くなるなら俺はなんでもいいや」 今度はウルフのほうから話をそらした。らしくないと言えばらしくない。サイファにとってありがたいことに違いはないが、どことなく釈然としなかった。 「ウルフ」 「なに」 「脱げ」 「サイファ。そんな、急に……!」 しどろもどろになった若造に、サイファは言葉を誤ったことを知った。狼狽が、移ってしまう。知らず片手で顔を覆った。 「サイファが脱げって言うなら……」 「誰が何を言った!」 「サイファが脱げって言った」 「そういう意味ではない!」 言って、他にどんな意味があったのかと、自分で自分を問いただしたくなる。 珍しく慌てた様子のサイファをウルフは笑みを浮かべて見ていた。 それを目にしたサイファは、ウルフがなにも誤解などしていないことを知る。半ば、からかわれたらしい。むっとはするが、兄弟のことに神経質になっている身には嬉しくもあった。 「鎧を脱げ、と言うつもりだった」 いささか脱力してサイファは言う。ウルフが首をかしげながらも鎧を解いていくのを見もせず、黙って旅のマントを地面に敷く。 「脱いだけど?」 「そこに横になれ」 「ん」 わけがわからないまま、ウルフは仰向けになる。サイファはその腹に軽く足を乗せ、微笑う。 「仰向けになって、どうするつもりだ?」 静かな口調で笑むサイファ。下から見上げるウルフはろくでもないことを考えている、とありあり顔に書いてある。これほど脅しつけているにもかかわらず。表情を崩さないまま、サイファは内心で溜息をついた。 「寝ろって言ったじゃん」 「普通、仰向けになるか?」 「なるよ」 呆れたことにあっさり言ってのける。鎧を解いて横になり、いったいこの若造は何をするつもりだったのか。確かに言ったのは自分だが。サイファはまだ同じ顔をしたまま足に力をかける。 「重いよ、サイファ」 「だったらさっさとうつ伏せになれ」 言って蹴転がす。思ったよりずっと簡単にウルフは転がった。ほとんど自分の意思でうつ伏せになったのだ、とわかってしまうのが悔しい。腹いせにひとつ蹴り、サイファは無造作にウルフの体にまたがった。 「サイファ!」 「なんだ」 「な……なにするつもり!」 動揺している。ウルフが。それを見て取ったサイファはウルフに見えないのをいいことに会心の笑みを漏らす。 「黙っていろ」 ウルフはそれ以上、抗議をしなかった。しなかったのではない、出来なかった。 サイファが背中に腕に手を滑らせる。そのたびに体を強張らせた。だから、口も聞けない。忍び笑いをするサイファの下で恨めしげな声が上がる。 「硬くなるな」 「そんなこと、言われたって」 「素直にしてろ」 「……無理」 「できる」 「無理だってば」 まるで懇願の口調。サイファは嬉しくてならない。いつもかき乱されてばかりだった。たまにはこちらが混乱させるのも楽しい。 心底、楽しいんでいるサイファをウルフが目にすることはない。だから、サイファは遊んでいられるのだ。 こんな気分になったのは、いったいいつが最後だったか、そう思いながらもサイファは手を休めない。ゆっくりと滑らせている手をあるところでは止め、力を入れる。そのたびにウルフが軽く仰け反る。 「じっとしていろ」 言っても無理だとわかっていながらサイファは言う。無茶な要求をしている、と思えば楽しさが募る。 「サイファ」 「なんだ」 「なに、してるの」 少し溶けた声。なぜか、ざわめいた。 「体をほぐしている」 「え……?」 筋肉と共に思考まで溶けたかウルフの声は心許ない。うっすらとサイファは微笑い、固い筋に掌を当てた。 「今日はよく働いた。疲れが残る」 短い言葉。理解させる気など少しもない。当てた掌で円を描くよう、ほぐしていく。 「ん……」 聞こえてきた声に、また血がざわめいた。意地の悪いことをしている、と思う。が、いまさら途中でやめては反っておかしい。 「サイファ」 「黙っていろ、と言っている」 「ちょっとだけ」 そう言われては少しばかり悪いような気もする。苛めている、そんな引け目に近いものがサイファを黙らせたのかもしれない。 「ありがと」 「なにがだ」 「褒めてくれた」 「誰が」 「サイファ。今よく働いたって言ってくれたじゃん」 「事実だからな」 「ただの事実でもいいよ。俺は嬉しいからさ。もう黙る。怒らせたくないから」 けれど言葉をなくしたサイファの耳に、しばらくの間ウルフの小さな笑い声が聞こえていた。 不意に、体に血が巡るのを感じてしまった。足の下、ウルフの体がある。鎧もつけない、温かい体。いたぶるつもりが、自分のほうが動揺する羽目になるとは。苦く笑う。 きっと、睦まじい兄弟に、すでに兄弟とは呼べない彼ら恋人同士に感化されたに間違いなかった。触れている手が熱い。熱が伝わってしまいそうで恐ろしくなった。 飛びのくこともできず、サイファは黙ってウルフの体をほぐし続ける。それしか、この瞬間から逃れる方法がなかったから。 「サイファ」 呼ばれても、答えない。迂闊に口を開けばなにを言うかわからなかった。自分がなにを考えているのかわからない。こんなことは初めてで、とてもウルフを笑えたものではない。 「もういいよ。疲れたでしょ」 疲れてなどいなかった。いい、と言われたのだからやめることはできた。 だがサイファはそうしなかった。なぜかはわからない。さっさとウルフの体の上から降りたくてたまらないのに。 広いとはとても言い難い背中。逞しいとはお世辞にも言えない肩。戦士の物にしては頼りない腕。腰だとて、まだ少年の物のように細い。 掌を当てる。けれど、そこに伝わるのは旺盛な生命力。これから伸びていく人間の持つ力なのか、ウルフの生まれ持った物なのかはわからない。 そう思えば、さほど情けない体でもなかった。掌は、きっと自分の熱ではない。ウルフの持つ熱が、自分に伝わったに過ぎない。 誰かがどこかで違うと囁く。サイファは聞こえないふりをする。どれほど遠ざけても、耳を塞げはしないものを。 「ほんとにもう大丈夫だってば」 何度、そう言われただろう。けれどサイファは自らが納得するまでウルフの体をほぐし続けた。あるいはそれが、この体を抱いて走ってくれたことへの自分なりの感謝だったのかもしれない。 そう思ったのはウルフの体から降りたあとのことだった。いたぶってやろうと思ってはじめたことだったのに、とウルフに気取られないよう、サイファは唇を噛む。 「サイファ、ありがとう」 半身を起こしたウルフに礼を言われても、なぜか少しも嬉しくなかった。無言でサイファは背中を向け、横になる。眠ってしまえばこの動揺も去るに違いない。 「……なにをしている」 耳に届くぎりぎりの低い声。揺らめきが、怒りに変わりそうだった。 「寒いんだ。ちょっとだけ」 若造のちょっと、は信用ならないことをサイファはよく知っている。しかし、このぬくもりにはかなわなかった。 背中からゆるく抱かれた。寄り添う温かいウルフ。胸の前に彼の腕。首筋に感じる吐息。正確な鼓動が背中越し、聞こえていた。それが寝息に変わるころ、サイファもまたぬくもりに抱かれたまま眠りに落ちた。 |