シリルが微笑っている。魔法の薄明かりの中、こんなにも凛々しい男だったか、とサイファは目をみはる。アレクはただ、黙っている。
「アレクを誰にも渡したくないから、定めし者に選んだって、わかってる?」
 シリルが言葉を繋ぐ。いままで決して言うことのなかった言葉を。
 アレクの唇が震えた。
「だって……」
「そんなこと想像もしなかった?」
「……うん」
「僕も苛々してたからね」
「なんで!」
「だって、アレクは勝手に母親を僕の恋人かなんかだと思い込んでたし、人の話なんかちっとも聞かないでさ。挙句に髪を伸ばしたかと思ったら女のふりをはじめて」
「だって、だって……」
「そのままのアレクが好きだったのに」
「そんな」
「好きだよ、アレクが」
「兄弟だからでしょ」
「人の話し聞いてる?」
 信じようとしないアレクにシリルは深く溜息をつく。当然だろうな、と話の外のサイファは思う。ウルフが困ったような顔をしていた。
「兄弟だからとかじゃなくて。あぁ、もう! 苛々するなぁ」
「シリル……」
「サイファ」
 振り返ったシリルに呼ばれて驚いてしまった。すっかり聞いていただけにばつが悪い。思わず苦笑いしてアレクを見てしまえばすがるような目に出会った。
「お願いがあるんですが」
「なんだ」
「実力行使でわかってもらいたい、と思いまして」
「……了解した」
 シリルの言い分に、吹き出してしまった。ウルフも顔を伏せたからその意味がわかったのだろう。わかっていないのは、否、わかりたくないのはアレク一人。
 何かを言いかけたアレクを遮り、サイファは手を振る。息を呑む間もなく、結界の兄弟側が暗くなる。以前のよう壁を作ったサイファはアレクのため、笑みを浮かべた。

 真剣な目をしたシリルが目の前にいる。信じがたかった。あるいはこれは、長い幻覚なのだろうか。あのまま、醒めていないのだろうか。
「アレク」
「なによ」
「それ、やめない?」
 苦い声音にアレクは答えもない。こんな女が好きなんだとばかり、思ってた。シリル好みの女を演じることで、ようやく精神の均衡を保ってきた。いまさら。
「アレクが好きだよ」
「……信じられるか」
「どうしてさ」
「いまさら……。だったら、今までのはなんなんだ」
 自分でもわかるほど、声が震えている。見苦しい。知らず顔を伏せた。
 シリルの前では、いい女でありたい。そうでなければだめな兄でいたい。歪みきって、どうしようもない。
「ねぇ、アレク」
 正面に座っていたシリルが立ち上がる。すぐ隣に腰を下ろした。左手に。覗き込む顔。目をそむけた。
「僕は怒ってたんだ」
「なにを」
「アレクが誤解してたこと」
「だって」
「誤解して、勝手に僕好みの女なんかやり始めて。その好みって言うのだってさ、違うんだよ?」
「どこが」
「言ってるでしょ、あれは母親」
「でも、お前はこの顔が好きじゃないか」
「まぁね。でもそれはアレクだからだよ」
 信じられない。信じたい。どれほどの年月、願っていたことか。アレクがいい。アレクだから欲しいと言われたい。叶ったのに、素直に喜ぶことができない。怖い。
「ずっと、嫌がってた」
 どうして自分は拒んでいるのか、わからない。このまま嬉しい、と言ってしまえばいいのに。なのに失うかもしれないことが怖くて、本心ではないのに拒んでいる。
 馬鹿だと思う。たった一瞬。それでいい。体を重ねるときだけ自分のものだったシリル。その彼がもっとたくさんをくれると言っている。
 アレクは立てた膝の間、顔を埋めて言葉もなかった。この顔を見られたくない、ただそればかり。
「だってアレク、自分勝手だったよ」
 ずきり、とした。やはり、期待などしてはいけない。どれほど言葉を尽くしても、シリルが大切に思っているの兄としての自分。
「僕は女の顔をしたアレクが欲しかったんじゃない」
「え……?」
「言ってるでしょ。聞いてる? 僕はアレクがアレクのままで好きなんだってば」
 苛々とした口調。理解など、できるものか。長い長い間。手に負えない兄をしてきた。いまさら、兄以外の自分を求められて、どうしたらいいというのか。
「アレク」
 強い言葉に顔を上げる。さぞ、情けない顔をしていることだろう。この顔を見て落胆すればいい。見放せば、いい。
 アレクは微笑う。強張りきった頬で。泣き出しそうな目で。歪んだ唇で。
 震える顎をシリルの指が捉える。引きかけた体を押さえられた。触れるもの。シリルの唇。
「シリル……」
「なんで驚くかな。前にも僕からしたこと、あるでしょ。好きだから、してる。わかる?」
「わかる。……わかりたくない」
「アレク。もしかして、怖い?」
 不意にシリルの声音が緩んだ。そのせいかもしれない、素直にうなずいたのは。シリルの掌が、鍛錬に荒れた硬い掌が、髪を撫でている。シリル好みの金髪。自分だから好きだったと、言うのか。
 抱き寄せられた。シリルの胸。戦士の、強いそれ。金属の冷たい感触が頬に心地いい。それで自らの頬の熱さを知った。
「好きだよ」
 何度、繰り返されただろう。わからない。体に染み通っていくようだった。乾いた体が、心が欲している。ただ、シリルを。
「好きだよ」
 アレクは笑った。今までと変わらなくていいではないか。すぐに信じるなど、できるものか。わずかだけ。シリルの心が変わる間だけ。
 好きな女ができるまで。そう言っていたころと何の変わりもない。それならば、安心していられる。束の間の夢でいい。失うくらいならばはじめから、欲しくない。
「アレクが好きだよ。だから定めし者なんだよ。アレクを失ったら、生きていけない。アレクのためだから、死ねる」
「……先に死ぬなんて、許さない」
「それでも僕はそう思ってる。アレクが許そうと許すまいと」
「それだけは、嫌だ」
「僕の心構えの問題。それくらい、アレクが好き。なんのためにシャルマークまでついてきたと思ってるの? 僕の知らないところでアレクが死ぬなんて、絶対に許さない」
「シリル……」
「ちょっと、嫌がらせが過ぎたのは反省してる」
「嫌がらせ?」
「アレクが誤解してるのが、嫌だったんだ」
 少し、笑った気がした。少年の日の愚かな振る舞い。自分だけではなく、シリルも。
 シリルを、手に入れたかった。どんな手段であっても。シリルはそれを怒っていたのか。今まで。そんな小細工をする必要などなかった、と。
 信じて、いいのか。思った途端、体が離れた。そう、やはり。唇が歪む。けれどそれはなぜか、笑いの形になった。
「アレク」
 それをどうとったのだろう。シリルは軽くくちづけし、髪を撫でてくれる。微笑んでいた。いつのまにこんなにいい男になったのだろう。あの幼かった日から、ずっと愛しく思っていた弟。真実、弟と思った日など、一日たりとてなかった。
 見るともなしに見ているアレクの前でシリルは鎧を解く。なにをしているのか、わからなかった。不思議に見ているうち、シリルの手が伸びてくる。アレクの鎧も解かれる。
「シリル?」
 首をかしげた。本当に、なにをするつもりなのか、理解できない。ウルフを笑えない、そう思ったら嗤えてきた。
「サイファになに言ったか、覚えてる?」
「何か、言ってたか?」
「実力行使でわかってもらうって、言ったの」
 シリルの顔に浮かぶもの。不敵な笑み。体が震えた。こんなにもシリルが好きだ。不意に思う。いつも思っていたはずなのに。自分は少しもわかってなどいなかった。シリルが好きで好きでどうしようもない。
 押し倒された。自分でもわからないほど素直だった。圧し掛かるシリルの髪に指を差し入れる。こんなにも愛しい茶色の髪。
「アレクが好きだよ」
 耳に蕩けた。薄闇。サイファが残してくれた、魔法の明りがぼんやりと照りかかる。わずかに互いの顔が確認できるほど。もっと見たくて顔を寄せた。
 くちづけ。いつのまにはがされたのだろう、シリルが肌に触れている。ぞくりとした。いつも触れるだけだった。
 だから、触れ合いたい、そう願った。伸ばした手。拒まれない。触れた。シリルもまた、震えた。
「アレク」
 掠れ声。この世に、こんな歓びがあったとは、知りもしなかった。愛しい者が同じ強さで求めてくれる。頭を抱えて唇を貪る。応えてくる舌。今このときに世界が終わってもかまわない。
 いつから肌を触れ合わせていたのかわからない。互いに触れ合いたくて手を伸ばせばシリルもまた手を伸ばす。
「ん……」
 体に乗りかかったまま、シリルが愛撫の手を休めない。己が体にまたがったシリルの顔を存分に見る。唇が、ほころんでいたことだろう。
「シリル」
 呼べば照れたように薄く目を開ける。とろりとした彼の目。求め続けたものは、ここにあった。
「アレクが、欲しい」
 嬲る間もなくシリルが言った。いつもならば、無理やりと言わせていたものを。アレクは微笑う。染み通ってくる歓喜に。
「そのまま」
 言えば、ふっと顔を伏せる。下から眺めたシリルはこんなにも美しい。地味な顔立ち、どこにでもある目。あの女が母親だとは、だから思いもしなかった。
 恥らったまま、シリルがアレク自身を手に握る。仰け反りかけた。あてがわれた。自分の手で、シリルがアレクを招いている。シリルの中へ。
「は……」
 深い吐息。アレクは声などない。彼の腰を抱いたまま、ただ身悶えもならず呻いている。熱さに、悦びに。耐え難かった。
 起き上がる。腰の上、シリルを乗せたまま彼の体を抱きしめた。汗の浮かんだ肌。しっとりと手に馴染む。突き上げた。喘ぎ声。どちらのものだったか。かまわない。絡み合うままに、望むままに。貪りながら与えあう。愛しい者と肌を重ねるとは、こういうことであったかと、はじめて知った。
「アレク……!」
 呼ばれたのか、それとも自分がシリルの名を呼んだのか。腹に脈打つシリルの物。シリルが強張ったのとアレクが彼の中、放ったのとどちらが先だったか。同時だったかもしれない。蕩けるような無我の中、感じるのはただ互いの息遣い、心臓の音。この鼓動が平静に戻っても、もうシリルは弟には戻らない。理性ではない。納得でもない。ただそれよりもずっと深い所でアレクは信じた。




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