熱い湯気を立てるスープをすすり、豆をすくう。体中から疲れが滲んで取れていくようだった。
「けっこうおいしいわ」
 機嫌よくアレクが食べている。これで味が思ったとおりのものでなかったならば何を言われるかわかったものではなかった、とサイファはほっと息をつく。
「生き返った気分だよ、ね?」
「ほんと、シリルも上手だけどサイファのもおいしい」
 嬉々としたウルフが器に顔を突っ込むようにしているのが、まるで子供のようだ。
「自分で思ったより疲れてたんだなぁ」
「なに坊や、そんなこともわからなかったの」
「んー、だってさ。こんな疲れたことなんてないもん」
「そうだよね、ウルフ」
 口を開きかけたアレクを遮ってシリルが言う。きっとアレクはどんな生活をしていたのだ、と聞きかけたのだ。確かに非常に疲れた。が、兄弟にとっては以前にも経験したことのあるものなのだろう。冒険に出よう、と言うのだから経験したことがないほうが不思議、ましてシャルマークなのだ、ここは。
「でしょ?」
 ウルフは無邪気にうなずいている。けれどサイファは見た。ウルフの目にシリルへのかすかな感謝が浮かぶのを。シリルがそれを見て取ったかどうかは知れない。
「ほんと坊やって不思議な子だわ」
「そうかなぁ、普通だと思うけど」
「どこが……って聞いたって無駄よね」
「たぶんね」
 言ってウルフは笑った。サイファはいまさらながらに危うさが気になる。兄弟は無論、自分たちの過去を持っている。仲間に言うことはなかったが、その共通の過去を持っているということが、気安さに繋がる。特にアレクは。
 本人は自分の過去になどたいして気を払っていないのだろう。だからつい、ウルフにも聞きかける。もうずいぶん前のことのように感じるが、以前サイファはシリルに言ってある。ウルフの過去をアレクに探らせるな、と。
 それがどういう意味だったのかは自分でも良くは理解できない。ただ、話したくないものを無理に聞き出す真似はしたくない、とそれだけなのだ。
「サイファ、おかわり」
「自分でやれ」
「冷たいなぁ」
「誰が?」
 言われたとおり、冷たくウルフに言ってサイファはシリルに向かって笑みかける。
「もう少し食べないか?」
 嫌がらせだとわかっているが、どうも機嫌が悪くてかなわない。半ば冗談にウルフが肩を落として見せるが、その大半が本気だと剣が告げている。少しだけ気が晴れた。
「えぇ。ですが、自分でしますよ」
 シリルは笑い、言葉通り自ら鍋の中身をよそう。食欲があるのは安心だった。疲れて物も食べられない、などと言うのは冒険者として、何より戦士として失格だろう。ウルフもまた、旺盛な食欲を見せていた。
「シリル、アタシも」
 戦士だけではなかったか、とサイファは苦笑を漏らす。細身のアレクにしてからこうなのだ。真実、冒険者とは逞しいものだった。
「サイファは?」
「もらう」
 短い言葉のやり取りでアレクが注いでくれたスープ。我ながら味は悪くない。
 変に絡んでくるかと思えばこうやって気遣いも見せる。人間とは不思議、と言うよりアレクとは面白い人間だった。
「そうやってると美人で優しいお姉さんだよね」
「シリル。どういう意味かしら?」
「あ、いや。ただの感想」
 にっこり笑った目許に険。シリルが座ったまま後ろに下がるなど、器用なことをして見せては、アレクが笑う。
「こんな美人をつかまえてシリルって酷いわよね」
「……兄さんじゃなきゃそう思うんだけどね」
「兄さんって言わないでよ!」
「だって兄さんじゃないか」
 からかっているのだろう、シリルは言葉ほど酷い口調ではない。が、少しばかりアレクの紫の目が歪む。シリルは気づいているのだろうか。
「兄でも姉でも美人が側にいていいだろう、と思うのだが」
 思わず、口を挟んでしまった。
「そうだよね」
 ウルフが深く考えもせずうなずいた。
「そうは言いますが、この性格ですよ?」
「確かにとんでもない男だとは思うがな」
「でしょう?」
「が、お前もよい男だとは思っているだろうに」
「……否定はしません」
「だろう?」
 言って視界の端にアレクを映す。わずかばかり、微笑んでいた。誰からも目をそらし、無言で耳飾りをいじっている。いま、明るく話していたはずなのに、まるでこの世に一人きりのような顔をする。それが無性に胸を打った。
「ねぇ、坊や」
「なに?」
「坊やって、どんなのが好みなのよ?」
 だがアレクは憂さを晴らすことに決めたらしい。サイファは内心で深く溜息をつく。餌食はウルフではなくこの自分だと、了解していたからだ。
「どんなって?」
「女でも男でもいいけど。好みってあるでしょ?」
「あぁ、そういうことか」
「そう、どうよ?」
「そりゃあ……」
 言葉を濁してウルフは暗い空を仰ぐ。一瞬、ウルフの目が自分をとらえたのをサイファは見逃さなかった。今度は静かに溜息をついてしまった。
 シリルがそっと笑う。視線が同情しますよ、そう言っていた。
「ま、いいわ」
 しかしアレクは思ったよりあっさりと引き下がる。不審げな目をしていたのだろう、サイファに向かってアレクが微笑む。けれどその目が見ているのは、本当はシリル。
「坊やに内緒話、聞かせてあげるわ」
 案の定、アレクは何かをしでかすつもりだった。ふっと、シリルの肩に緊張が走る。
「シリルってね、アタシみたいな女が好みなのよ」
「女ってとこがかなり、引っかかるんだけど?」
「うるさいわね」
「だって、ねぇ?」
「シリルね、こうやって旅に出る前、自分の部屋にアタシみたいな女の絵を飾ってたのよー? アタシはあれが初恋の女、と見てるわけ」
「へぇ、シリルが?」
 きょとん、としてウルフが彼を見る。シリルは苦々しげに器の豆を潰していた。
「けっこう純情よねー?」
「うんうん」
 もっともらしげな顔をしてウルフがうなずき、そしてこらえられなかったのだろう、笑ってからシリルに謝る。
「あのね、アレク」
 何か苦い葉をうっかり噛んでしまったような声だった。不意にサイファは悟った。シリルが求めていた機会とやらは、いまなのかもしれない、と。
「なぁに?」
 気づきもしないアレクはいっそ楽しげだ。ゆったりと笑みを浮かべて女の顔をした兄を演じている。
「アレクは誤解してるんだよ」
「なにを?」
「確かに絵を飾ってたけどね」
「でしょ?」
「あれ、僕の母親」
「……はい?」
「お母さんなの」
「嘘でしょ」
「どうして嘘つくのさ」
「だって」
 しどろもどろのアレクの側からウルフが離れる。そっと動いてサイファの横に戻ってきた。体を寄せて耳許に囁いた。
「サイファ、知ってた?」
「わけがあるか」
「だよね」
 うなずき、また器の中身に集中する。どう見てもそんなふりをしているだけだった。器の陰から興味津々と兄弟を見ているのだから。
「アレクと僕は母親が違うんですよ」
 不意に振り返ったシリルが苦笑いしながら言っていた。サイファはうなずく。これでさほど似ていないと言うのも理解できる。
「アレク、親父様の趣味は知ってるでしょ」
「あぁ……あれね」
「だからあれは僕の母親。早くに亡くなってからアレクと一緒に暮らすようになったの、覚えていない?」
「……忘れるわけはない」
 シリルのそれよりなお、苦い声。女をやめたアレクの声は深い憂愁を帯びている。わずかにうつむき、耳飾りを触っていた。
 あまり似ていない兄弟を見てサイファは思う。きっと幼いシリルに出会ったその日こそ、アレクの苦悩が始まった日だったのではないだろうか、と。
「だから、アレクの誤解なんだよ」
 ふっとシリルの声が優しくなった。視線を落としていたアレクが驚いて見上げる。その目が驚愕にだろう、開かれた。
 すでに食べるふりも忘れてしまったウルフの腕を掴み、サイファはそっと後ろに下がる。アレクの、兄弟の邪魔をしたくなかった。
「サイファ?」
「いいから」
「ん」
 何がなんだか判らずとも、サイファと一緒ならばそれでいいとばかりにウルフは笑み、共に岩を背に寄りかかる。体を添わせているわけではない。けれど、すぐそこにあるぬくもりが心地いい。サイファは苦笑する。どうも兄弟にあてられている。
「アレク」
 声を落とすこともないシリルの言葉ははっきり聞こえる。ウルフが黙って聞いていた。聞かせたくない、咄嗟に思った。が、いまさらどうすることもできない。
「なによ」
「アレクは誤解して女やってるけど、そんな必要ないんだよ」
「……言ってる意味がわかんないわぁ」
 ことさらめかしてアレクが言う。滲み出す苦悩と期待。期待を裏切られるのが怖いのだろう、唇が青ざめて見えた。
「ねぇ、アレク。好きでもないのに男に、それも兄弟に抱かれると思う?」




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