アレクがまだぶつぶつと言っている。とはいえ、半ば以上はいたずら、だろう。口調に悪意がないのでそれと知れた。ウルフも聞こえているはずなのに気にした風はない。 果てしなく広い、と見えた荒野も歩いてみればさほどでもなかった。反って歩きにくかったがために広く感じたほどだった。 少しずつ、陽が落ちていく。赤みを増してきた夕陽に一面の赤紫の花が照らされるさまは見事と言うより他にない。 けれどウルフにとってはどうだろうか。落日に映える花はいっそう美しい。だが、まるで流されたばかりの血の色のようにも見え。 「さっきの方が綺麗だったわね」 アレクがぽつり、言う。彼らも冒険者としてここまできたのだ。血の色ぐらいのことで気分が悪くなるはずもない。事実、ウルフも魔物の流す血に怯えたりはしない。 「禍々しいほどだものね」 シリルがうなずく。そうか、とサイファは首肯する思いだった。恐ろしいのは血ではない。その背後にある何か。ウルフがぎゅっとサイファの手を握った。 その彼の唇が小さく動いている。大丈夫、そう言い聞かせているように見えた。視界の端でそれを捉えたサイファは何も見なかったふりをする。どういうつもりかは知らないが、サイファの前では見栄を張りたいと言ったウルフの言葉を尊重して。 「暮れていくな」 誰に言うともなくサイファは言い、ウルフの手を気づかれないようそっと握り返す。彼の手からわずかばかり緊張が解けた。 「サイファ」 答えなど、求めていないのだろう。本当は、自分のほうが抱き寄せたいのだろう。サイファよりまだ背の低いウルフは一瞬、足を止めてサイファの肩に額を寄せた。 「大丈夫」 今度は確かに聞こえた。聞かせるつもりがなかったことは明白だ。ウルフの困ったような照れたような気配が伝わってくる。 「ありがと」 なにに対する感謝だろうか。黙ってサイファはうなずくのみ。まだ疲労の残る体でウルフは歩く。サイファにもたれてしまわないよう、気をつけながら。 そのような気遣いには及ばない、言ってやりたかったがサイファの唇は重く開かなかった。だから言葉に代えて少しだけ手を引く。自分のほう、寄りかからせるように。ウルフは何も言わなかった。 「あの辺、どうでしょう。サイファ」 気づけばシリルもまたアレクに寄りかかっている。歩き詰め緊張し詰めで疲れなど取れる暇がないに違いない。 シリルが指したのは荒野から外れた岩の影。大きな屏風岩が立っていた。あれを背後にすれば花が目に入ることもない。そう思ってサイファは舌打ちする。 どうしてそこまで気遣ってやらなければならないのか。放っておけばいい、とも思う。が、気になって仕方ない。それで苛々するくらいならばいっそ徹底してしまった方がまだ楽だ。余計なことを考えずにすむ。 「あぁ、そこがいいだろう」 わずかばかり口調に不機嫌が滲みでもしたのだろうか。アレクがひっそりと笑った。 「では、あそこに決めましょう。ウルフ」 「なに」 「もうちょっとだよ、頑張って」 「俺は大丈夫だよ。シリルだって平気でしょ?」 「あら坊やってば……」 アレクがなにを言いかけたのかはわからない。シリルが手を出して止めてしまったのだ。サイファはほっと息をついた自分に気づき、再度舌打ちをする。 「ねぇ、サイファ」 「私は機嫌が悪い」 「えぇ。なんでかしらぁ、と思って」 たちが悪かった。華やかに笑っているその目が、認めろ、と言っている。サイファは目を閉じる。拒絶した。 「サイファ?」 無言のやり取りにウルフが気づいたかどうか。ただ不安そうな声だけが耳に届いた。 「なんでもない」 それだけでいいのか。惑う。アレクが見ている。気にするのをやめた。 「大丈夫だ、本当に」 言葉を続けた。目を開ければそこに、安堵を浮かべた茶色の目。シリルとは色こそ似ていても違う目だった。ほんの時折、澄みすぎていると、そう思う。 「そっか」 心から納得はしていないだろう。それでもサイファの言葉を信じるとウルフが言外に言っている。 いったい、いつからこんな器用な真似をするようになったのか。それとも以前は気づかなかっただけなのか。 「さ、もう少し頑張ろうね」 半ば無理やりにシリルが兄の手をとって進みはじめる。サイファもウルフも無言で従った。 屏風岩まで、たいした距離ではなかった。が、疲労にもつれがちの足では、あまりにも遠いように見える。 「案外、遠かったわねぇ」 崩れるよう、アレクが岩を背に座り込む。 「ほんと」 シリルが並ぶ。ウルフは疲れが頂点に達しているのか無言だ。やはり同じようにして座ったウルフの横にサイファも腰を下ろす。冷たい岩が疲労に火照った体に心地いい。 「さすがにちょっと」 「火を熾すのは面倒ね」 「だよね」 「熾すか?」 「いいですよ、サイファ。もう少し休んでからにしましょう」 「それでいいならば」 言ってサイファは手を上げる。それを見咎めたシリルが軽く腕に手をかけた。 「なんだ?」 「あなたも疲れているでしょう?」 「確かに」 「だったら交代で見張りを立てればいいことですから」 こんなときにも他者を気遣うシリルと言う人間が好ましい。サイファはそっと微笑った。 「そのほうが危険だ」 「ですが」 「たいした手間でもない。夜番がうっかり眠ってしまわないか気にしながら寝るより、この方が気が休まる」 「サイファ」 呻くような声。ウルフが見ていた。 「なんだ」 「大丈夫なの」 「無理ならば無理と言う。問題はまったくない」 言えば軽くうなずいた。座った途端に身動きもできないほど疲労が浮かび上がってしまったのだろう。 「では、サイファにお願いします」 そう言うシリルの顔もよくよく見れば青ざめている。洞窟と言う心理的な疲労の大きい場所で、しかも道もわからないままに崩落する中を駆け抜けたのだ。無理もない。 サイファは再び手を上げ、屏風岩の周囲に魔法を施していく。美しい玻璃のような光が一瞬、浮かんだがシリル以外に見えた者はいないだろう。 それがどことなく、残念だった。誰を念頭に置いたものでもないはずなのに、思いにつられてサイファはウルフを見た。 「サイファ」 弱い声が呼んでいる。差し伸べた手をとれば促すよう力が入る。抗う必要もないことと、黙ってされるままに指を絡ませた。 「……おい」 ふと気づいた。どうして抗う必要がないのだ、と。思い切り拒んでいいはずだ。今は体調を考慮する程度の必要性は認める。だから、殴りはしないがされるままになっていることはないのではないか。 「ちぇ。気づいちゃったか」 「殴られたかったか」 「そういうわけじゃないけどさ」 「では、どういうつもりだったのかは、今は聞かないでやろう」 かすかにウルフが笑った。そして笑いながらも手を離そうとはしない。 もう、日は暮れていた。辺りはぼんやりとも物が見えない。今夜は新月だろうか。それとも月の出が遅いだけだろうか。夕暮れから、突然に真夜中の闇となってしまったようだった。 それなのに、サイファにはウルフがそこにいると確信を持って言える。それは半エルフの目だから、と言うわけではない。半エルフだとて闇が深ければ何かを見ることは適わない。 手をとられているから、でもない。繋いだ手が誰のものなのかなど、どうして確信が持てるのか。だがこれはウルフの手。すっかり自分の手に馴染んでしまった若造の手。 そのことにサイファは動揺を隠せない。震えた唇に、闇でよかったと思う。何事か、兄弟が密やかに言葉をかわしている。 「サイファ」 「なんだ」 「別に」 「なにが言いたい」 「ちょっと……」 言いさしたウルフが言葉を濁した。苛々とサイファは手を引いて続きを促す。このまま黙られたら気持ちが悪くてたまらない。 ウルフはそんなサイファになにを思ったのか、かすかに声を立てて笑った。 「さっさと言え」 なぜか、兄弟に聞かれることを憚って小声になってしまう。そのことがまた、サイファを腹立たしくさせる。 「怒るよ、きっと」 「言わなければもっと怒る」 「サイファって時々理不尽」 「どこがだ」 「だって言っても怒るもん」 確かにその通りかもしれない。思わず言葉をなくしたサイファにウルフが体を寄せる。思わず引きかけたはずが、背後は岩だった。逃げもできず、サイファは体を硬くする。 「ちょっと、呼んでみたかっただけ」 耳許で、小声で。兄弟には決して聞こえないよう、囁いた。 「馬鹿か」 「うん」 囁き返したサイファに満足そう、ウルフはうなずいた。それから何もなかったよう、体が離れていく。ほんの少しだけ感じたウルフの重み。それを払うよう、腹立ちまぎれ、サイファは明りを灯した。 |