ウルフがまだへらへらと笑っている。サイファはこの上なく不機嫌だ。あの蹴りをアレクに見られたのがいけなかった。
「アンタが蹴っ飛ばしたんだから、ちゃんと面倒みなさいよね、自分で」
 シリルが手を貸そうとするのにアレクはそう厳命し、さっさと歩いていってしまったのだ。そうなるとシリルもそれ以上、手を出そうとはしない。苦笑して兄のあとを追った。
 仕方なくサイファは、ウルフの手をとっている。それ以前にも同じようにして歩いていたのだからそうこだわることもあるまい、と理性は自らをなだめるのだが、どうも釈然としない。だから余計、ウルフの笑い顔が癇に障るのだ。
 赤い渓谷がどこまでも続くような気がする。狭いだけに、距離感が狂うのだ。遠くかすかに空が見える。高い壁に遮られ日は射し込まないが、暗くはなかった。それだけがあの洞窟と違うことだった。
「これ、どこまで続いてんだろうね」
 ウルフが同じように壁を見上げ、前を見晴るかして言う。半エルフならざる人間の目には、サイファよりずっと距離を失って見えていることだろう。
「そろそろ終わると思いたい」
「だよね、ちょっと飽きてきた」
「そういう問題か?」
「じゃ、なんか他にあるの?」
「……ないか」
「ないよ」
 あっけらかんと言われてはそう返事するよりない。サイファの目を持ってしても渓谷の終わりが見えているわけではない。わずかながら曲がりくねっているせいで見通しが利かないのだ。
「ちょっと気をつけたほうがいいと思うけどさ」
 ウルフが言い足す。その程度のことか、と思わず見つめてしまった。戦士たちはいまだ回復半ばで戦力にはならない。アレクとサイファでは、洞窟内で分断されたときよりもなお、戦力的に大きな問題がある。
「わかってるってば。俺だって気をつけてはいるよ」
 ウルフが少し照れて微笑った。無造作なふりをしてはいるが、実戦を繰り返してきただけあって、勘は鋭くなっている。何も見ていないように見えて、その実ウルフは周囲に気を配っているのだろう。
 溜息をつきかけたサイファは、黙ってうなずくにとどめた。時折、不安になる。ウルフがこうやって自分にだけ自身をさらして見せる、そのことに。兄弟の前では決してウルフはこんなことを言いはしない。アレクが言うところの「お馬鹿」に甘んじている。けれどサイファにだけ聞こえる所で、サイファの目の前でだけ、ウルフは大人の顔をするようになった。
 それがたまらない。どうしていいかなど、少しもわからない自分なのに、なにかを求めたりして欲しくない。否。ウルフにそのようなつもりはまったくないのだろう。ただ「大好きなサイファ」の前で無様をさらしたくない、それだけ。それがわかってしまうからより、サイファは身動きが取れなかった。
「サイファ、来て!」
 物思いに耽りかけたサイファをアレクの声が呼び戻す。前方で立ち止まったアレクが手招いている。サイファはウルフの手をとったままそこへと急いだ。
 渓谷は突然そこで終わっていた。赤い岩も高い壁も突如として消えた。最後だけは鋭く曲がっている。そこを抜けた途端、景色が一変したのだ。
「見て、サイファ。すごいわ」
 振り返った顔に浮かぶ満面の笑み。今までの不機嫌などどこにもない。手招く彼に導かれたサイファが見た物。
「これはすごいな」
「でしょ」
 まるで彼が作り上げたかのように誇る。
 それは一面の赤紫だった。荒野に咲く誰が見るわけでもない野生の野の花。幻のように甘く不吉なまでに美しい。そして降りかかる青い黄昏。
「怖いくらいだわ」
 言ってアレクはシリルに寄り添う。サイファの横にはウルフがいる。いつの間にか離していたはずの手をとられた。このうっとりと青ざめていく荒野の前、サイファは振り払うこともせず、そればかりか握り返しさえした。あまりにも美しすぎたから。
「でも、綺麗だ」
「そうね、本当に」
「シャルマークに、こんな美しい場所があるなんて知らなかったよ」
「アタシのこと追いかけてきて、よかったでしょ?」
「……とも言えないことが多いような気がするけどなぁ」
 シリルの茶化したような苦笑いにアレクは軽く拳をみまう。
「憎まれ口をきいてればいいわ」
 けれどサイファのよう、本気ではない。兄弟の遊びとも言えるじゃれあい。単に見れば微笑ましく、アレクの気持ちを考えれば痛々しい。
「ねぇ、そろそろ野営の準備もしなきゃならないけど、どうする。ここでしちゃわない?」
「僕はかまわないよ、サイファ。どうでしょう」
 うなずきかけたとき、腕が引かれた。眼前の景色にひたと視線をあてたまま、顔色を失ったウルフ。
「俺。ここ、嫌だ」
 小さく呟く。繋いだ手が、震えていた。
「ごめん、我が儘だね」
 うつむいた唇がわなないた。後悔か、それとも他のなにかかと兄弟は思ったことだろう。サイファには知れた。剣が伝えてくるもの。それは恐怖。原始的とも言える感情に揺さぶられている。血への恐怖かもしれない、ふとサイファは思った。
「移動しよう」
 珍しくサイファはきっぱりと言い、ウルフに目を向けることなく前を見る。どこを通れば安全か、確かめるように。
「では、そうしましょうか」
 アレクに有無を言わせずシリルが同意した。サイファはかすかに微笑む。仲間、というのも悪くない、と。
「ごめん」
 小さな声で謝ったのが、兄弟に聞こえただろうか。少なくとも彼らは聞こえないふりをした。話す気がないならば聞かない。それは過去を持たない冒険者の礼儀と言うものかもしれない。
「行くぞ」
 サイファもまた、何もなかったように足を進める。繋いだ手につられてウルフも足を踏み出した。
 荒野に咲く赤い花。それは一面の血の海にも似ている。それがウルフを恐怖に叩き落した。あの幻覚で見た光景。自分のせいで死んでいく幾多の人間。ウルフはそれを口にすることが出来ない。だからいっそう、怖いのかもしれない。無論、仲間たちが知る由もないことであったけれど。
 刺々しい花だった。細い枝の下部によく見れば黒味を帯びた貧相な葉がついている。枝の先は小さな花がみっしりと覆っているのだ。道なき荒野へ歩く一行の服にも腕にもその荒地花は敵意を持っているよう触れていく、かといって切れることも突き刺さることもないのだ。
 サイファの、およそ腰の辺りまである潅木の中を抜けていくのは容易ではない。歩きにくいこと甚だしい。触れるたびに花が落ちるのも、あまりよい気持ちがしなかった。
「近くで見ると、花だね」
 まだ震える声でウルフが言う。
「そうだな」
 サイファも何も聞かなかった。冒険者の礼儀、と言うよりサイファには剣がある。その分ウルフの内面を好むと好まざるとに関わらず知ってしまうと言う引け目があった。
 なにかを怖がっているのはわかっている。この場所そのものに恐怖しているのではないことも、わかっている。
 だから余計、聞くに聞けないのだ。ほぼ間違いなく、ウルフの過去に関わることであることは想像に難くないのだから。
「馬鹿みたいだね、俺」
 自嘲の声。苦いものが剣に混じった。
「……そうだな」
「ありがと」
「なにがだ」
「馬鹿にしてないでくれて」
 言葉面ではないサイファの内心を読み取ったようなことを言う。ちらり、見た。まだ青い顔で笑っていた。
「嫌なものは、色々あるからな」
 不意に遠くに目を移し、サイファは言う。
「……わかってるくせに」
「なにがだ」
「俺がなんで嫌がったのか、見当ついてるでしょ?」
「さて」
「いいよ、とぼけなくって」
 うつむいたのだろう、赤毛が揺れた。青い黄昏は暮れ初めて、赤い残照がウルフの髪を照らしている。空も大地もウルフの髪も、それぞれが異なりながら赤かった。
「あの幻覚でさ……」
「聞きたくないからな」
 最後まで言わせるつもりはなかった。過去になどまるで興味がないと、何度言ったらわかるのだろうか、この若造は。
「サイファ……」
 見上げた目が、ふっと曇った。何もわかっていない。溜息より、怒りが先に来るのをぐっとこらえる。
「お前がどんな過去を持とうが知ったことではない。ここにいるお前ですべてだ。それで充分と、すでに何度か言ったと記憶しているが」
 言ってサイファは首をかしげる。我ながら、そのようなことをきちんと口に出したかどうかあやふやだ。そもそもなぜ、そんなことを若造に言ってやらねばならないのか。どことなく淫靡な言葉だった気がするのを、強いてサイファは無視することに努める。
「サイファ、す――」
 上がったり下がったり、まこと忙しいことこの上ない。苦かった剣がいまはもう、甘い。
「また蹴られたいのでなければ、黙れ」
 じろり見た視線の先で、ウルフが妙に胸騒ぐほど大人びた顔をして微笑んでいた。




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