その腕が、引かれた。顔をめぐらせれば、そこにウルフが黙ったまま、立っている。そっと腕に手をかけているだけ。力など入っていない。なのに、動かなかった。 「ちょっとアンタ。なぶり殺しは良くないわよ」 「お前もこれを生かしておくつもりはないはずだが」 「まぁ、ね。でも、なぶり殺しはだめ」 アレクの言葉に同意するよう、ウルフがかすかにうなずいている。サイファは大きく息を吸う。握り締めた掌の中、砂が痛い。 「そうそう、いたぶるのは良くないよ、ね? 殺さないで。いいこと教えてあげるから」 巨石に半ば押しつぶされた多眼の球魔が言う。すでに多眼、とは言えなかった。その謂れとなった触手をすべて失い、大きな一つ目だけが血に塗れている。 「あぁ……」 サイファは目を閉じる。諦めた、と見たのだろう。魔物が耳障りな笑い声を上げた。 「なぶり殺しはだめ、か」 サイファが呟く。小さな声だった。けれどその声に魔物の笑いが止まる。サイファは目と、そして掌を開く。ゆっくりと砂をこぼした。視線の先にシリル。彼もまた、サイファを目で止めていた。 「シリル」 「はい」 「こい」 短い言葉で呼び寄せる。サイファの周り、仲間が集まった。辺りを見回す。焼け焦げた壁に残る炎の臭い。くすぶりの中、花の香りを借りた精神操作を思い出し、幻覚の記憶が蘇る。体をかがめた。手の中に、石。 「やめて、やめて……」 魔物の声も耳に入らない。許さない、ただその感情ばかりに圧倒される。これ見よがしに手を上げた。シリルが呪文を詠唱する声が届く。サイファの口許に浮かぶ仄かなもの。あるいはそれは笑みであったかもしれない。 サイファの口に、呪文以外の言葉はなかった。広げた掌の中から石が消えた。同時に一行の周囲、障壁が展開する。 爆音、などと言うものではなかった。アレクが耳を押さえる。音の圧力は、そのまま体を震わせるほどの力となって一行を襲う。シリルの障壁がなければ薙ぎ倒されていたかもしれない。 「が……」 声にもならないなにかを魔物は上げ、そして潰れた。尖った岩に刺し貫かれるように。びくり、巨眼が蠢く。まだ、生きていた。痙攣を繰り返すそれが舞い上がる物にかき消されていく。 舞い上がるのは岩。埃、ではない。巨大な岩が舞い上がり舞い散り、そして床に激突しては石となって降り注ぐ。それがまた躍り上がって小石と砕け、そして埃になるまでどれほどの時間がかかることか。 「しまった」 不意にサイファが顔を上げた。壁の崩落が、予定より早い。 「サイファ!」 ウルフが腕を取る。彼もまた、崩れ落ちる壁の向こう、天井が落ちたのを見たのだろう。 「走れ!」 サイファの声に、一行は一斉に走り出す。入ってきたのとは逆の方向へ。そこしか行き場所はない。走り抜ける。壁が崩れた。大量の岩と屑石が降りかかる。 「……っ」 横を走っていたウルフが息を呑む。左腕。血が滲んでいた。ちらりサイファは見やって、けれど何も言えない。自分の側の腕を傷つけた。ウルフが庇ってくれた、岩から。とりもなおさずその事実は、彼がいなければサイファ自身が、おそらくはウルフよりも大きな傷を負ったということ。視界の端、サイファの目に気づいたウルフが、大丈夫、と言うよう笑った。 「サイファ、駆け抜けますよ!」 シリルが振り返りもせず言う。ついてきているのを確かめているのだろう。 「サイファ」 ウルフの一声。腕を取られる。引きずられるよう、走った。背後から音。振り返りたい衝動に駆られながらもサイファは走り続ける。崩壊が進んでいる。後ろから追うよう聞こえているのは、間違いなく洞窟そのものが崩れる音。 うねる道をただ走る。その先に光が見えることを願って。それしかできることはない。道をたがえればあるのはただ圧死のみ。 はじめに気づいたのは大量の埃だった。洞窟の中から爆風に押されて飛び出て行く埃。シリルがそれを追っている。少なくとも、その先には開口部があるはずだ、と。 「出た!」 ウルフがシリルの声に反応する。勢いよく振っていた右手が剣にかかる。そして離れた。視線の先、光。 「サイファ、走って!」 アレクの声に走っている、答えようとして声が出なかった。人間の魔術師よりは体力に優れているとは言え、所詮は魔術師である。戦士たちに比べれば体力的には劣る。アレクだとてシリルに半ば体を抱えられるよう、走っていた。気づけばサイファもその体重のほとんどをウルフに預けてしまっている。 転がり出た。そう言った方が正しいだろう。駆け抜けは出来なかった。足がもつれる。息ができない。光はあった。が、埃もあった。 「サイファ、ごめん」 ウルフがなぜか謝った。と、抱え上げられた。まだ、走るのか。傷ついた左腕で肩に抱えられた。痛いだろうに、ぼんやりとそんなことを思う。少しでもウルフが楽なよう、ゆるく腕を首に回した。閉じてしまいたい衝動に駆られる目を必死の思いで開ける。洞窟の開口部がそこにあった。サイファの目の前でそれが崩れていく。口からはもうもうと埃が吹き出し、腹に響く音と共に上を見上げれば山頂の岩が見えなくなっていく。下に落ちているのだ、と気づいた。洞窟の中、爆発の中心は埋まってしまったことだろう。いかな多眼の球魔といえども、生きてはいまい。それだけがわずかばかりの慰めになった。 ふ、と体の振動が止まった。ウルフが足を止めていた。静かに下ろされればそこにあるのは少し照れた顔。なぜか目をそらしてしまった。 「少し、息を、入れましょう」 シリルが肩で息をしている。途中からはアレクも抱えて運ばれたに違いない。サイファ同様、疲れてはいたが戦士たちの疲労には及ばないようだった。 シリルが洞窟を見やっては苦く笑う。そして追うものなどありはしないことを確認したのだろう、その場で仰向けに大地に倒れた。シリルの傍らに膝をついたアレクが彼の口に水袋をあてがっている。 「休め」 無愛想な言葉しか出てこない。感謝くらいしても良かろうに、と自分でも思うのだが、どうにもウルフ相手だと調子が狂うのだ。これがアレクならば素直に、ありがとうくらいは言えたものを。 ウルフもやはり肩を上下させている。言葉も返さずその場で横になった。まるでアレクのよう、側に座った。居心地が悪い。水袋を口許に当てる。ウルフが少しずつ飲んでいる。喉が動いているのを見ていた。 「ありがと」 細い声が微笑う。たったこれだけのこと。アレクのように愛情からしたことではない。仲間への義務感にも似た何か。それなのにウルフは喜ぶのか。たった、これだけのことに。 「黙っていろ」 目が、うなずく。水袋から漏れた水に濡れた唇をぬぐいかけた手が止まる。けれど、そのまま指でぬぐった。そらした視線をウルフが笑っているような、気がした。 軽く呼吸を繰り返し、息を整える。ウルフの左腕に触れた。自分の体を通してウルフの傷を治す。かつてこの行為をこれほどまでに淫靡だと思ったことはなかった。自分の生命が、ウルフの生命にまじりあう。ウルフの中、血となり肉となる。震えるほど、恥ずかしかった。 「サイファ?」 治癒の終わった左腕でウルフが触れてくる。まだ、息が苦しいのだろう。ウルフは名を呼ぶだけ。合わせた視線に宿るのは感謝と懸念。サイファもまた、黙ってうなずく。何に対してそうしたのか、自身でもわからないながらに。 「ウルフ、どう?」 体を起こしたのはシリルが先だった。喉元に手を入れて呼吸を楽にしようと言うのだろう、あまり果たせてはいないようだった。 「ん……」 返事をしつつ体を起こす。天を仰いだのは深い呼吸か。 「まだきついようだったら」 「大丈夫。移動した方がいいと思うし」 「そうだね、そうしようか」 ゆっくりと立ち上がる。アレクがシリルの体を支えるのを彼は笑って拒絶している。 「大丈夫だよ、僕は」 「だって、まだ苦しいでしょ」 「うん、だからアレクは自分で歩いて」 「わかってる、でも」 さらに言い募るアレクの肩をそっと叩いた。叩く、と言うよりもそれは抱き寄せると言ったほうが近いほどの仕種で。かすかにアレクの頬に血の色が差す。 ウルフがそれを見ては口許で微笑んでいる。なにを、考えているのだろうか。楽しんでいないことだけは確かだった。 黙って、手を差し伸べた。ウルフは答えず、首を振る。これが彼の言う見栄、と言うやつか。サイファは心の中で溜息をつく。 「私がつらいんだ。支えて歩け」 いったい自分はなにを言っているのだろうか。仰いだ空は青かった。 「了解」 疲労に震える手がサイファの手の中、這入り込む。それでは支えることにならないではないか、と視線で言えばウルフの微笑う気配。 「嘘の下手なサイファって、やっぱり可愛いな」 耳許で掠れ声。疲労ゆえだと信じたい。疲れているからの妄想だ。そうに違いない。だから、いまだけは咎めないでやる。あからさまにそっぽを向いたサイファにウルフは笑い、そして手の中の指がサイファのそれに絡みついてきたのだった。 |