かつり、足が止まった。狭い、岩と岩の間の隙間としか見えない場所を潜り抜けた先は開けていた。広大な、岩の広間。天井はどこまでも高く、視線をさえぎるものとてない。薄く、明りさえ射していた。 「なにこれ」 アレクが辺りを見回す。 「光苔、かな」 不安そうなシリルの声。サイファはアレクに誘われたよう、周りを見渡す。洞窟は光苔に覆われていた。淡い緑の光ではあったが、これほどまでに密生すると周囲を見るのに充分な光量となる。 「なんか、いい匂いがする」 「あら、ほんと。坊やったらいい鼻してるわ」 「気づかないアレクが変なんだって」 「なんですって? 聞こえなかったわぁ」 「……なんでもないです」 ウルフの言葉にシリルが吹き出す。ずいぶんと慣らされたものだと、サイファは密かに溜息をつく。 洞窟の足元は黄色で覆われていた。まるで敷き詰めたように一分の隙もなく黄色い花が咲いていた。 「こんな所で花が?」 シリルが呟く。アレクとウルフのはしゃぎぶりにも不安は消えないのだろう、どころかより強まったのかも知れない。 「確かに強い光の下では生育しない植物もあるが」 「ですが、おかしいです」 「どこが、だ」 「それがわかれば……違和感がある、としか言いようがなくって」 「同感だ」 「あなたもですか」 「あぁ」 二人、足元の花を同時に見やった。香りが這い登ってくるようだった。まるでそこに生き物の影を認めたように香りが強まっている。 「シリル」 危険、と言う概念をアレクまでもが忘れ果てたのか。彼は花の中に立ち、弟を呼ぶ。かつての寝顔のように柔らかな顔をして。 「どうしたの」 シリルが足を踏み出す。一歩、遅かった。止めようと伸ばした手はシリルをすり抜け届かない。サイファとて確実にどこがおかしいと言えるわけではなかった。が、明らかにアレクの警戒心のなさは不自然だった。 「サイファ!」 そちらに気をとられたのがいけなかったのだろう、ウルフに手をとられた。咄嗟に反応することもできず、サイファまでもが花の中に引きずり込まれた。 「なにを……」 最後まで言えなかった。取られた手を払い落とし頬のひとつも張り飛ばしてやろうとしたはずの手は宙を切る。その体が抱きすくめられていた。 「サイファ」 自分より少し低い位置から聞こえる呼び声。どこから出るのか理解不能な甘い声。いまだかつてウルフのこんな声を聞いた覚えはない。 「離せ」 聞こえてなどいないのだろう、ウルフは委細かまわずサイファの背を抱く。その手にこもる愛撫の手つきに背筋が冷える。 サイファは目で兄弟を探した。見られたくない、とその思いで探したものではあった。が、視線は別のものを捉えている。 驚きに目を見張った。ある意味、どこかで予想していたことでもあった。兄弟はサイファが見る限り、それがあるべき姿なのだろう。仲睦まじく抱き合っている。このような場所で、このような状況で。ありえるはずもない。 「若造、離せ!」 自由にならない腕でウルフの背を殴りつけた。まるで効かない。正気であったならばウルフは苦情のひとつも冗談まじりに言うだろう。それをしないと言うことは何者かに外部から操られていると見ていい。あからさますぎて溜息も出ない。 「サイファ」 見上げてくる目が濁っていた。サイファは心からこの何者かを殺そう、と思った。ウルフに、本人の自覚もなしに欲情されて気分の宜しかろうはずもない。無意識の裡でウルフはサイファを求めている。それはいい。今はともかく棚上げにできる問題だ。だが恋に落ちたと知りもしない本人に強姦されるなどまったく許せない。無論、この状態を作り出した相手も。 「サイファ」 サイファにはすでその声は聞こえていない。ゆっくりと背を這い上ってくる手が不快なだけだ。一瞬、どの呪文を叩きつけるか躊躇した。制御に緩みが出ればウルフが本当に消し飛んでしまう。 「ねぇ、いいでしょ」 ウルフの手が首筋にかかった。以前のよう、絞め殺すつもりではなく丹念に撫でている。覚束ない愛撫の手。向こうから、兄弟のものだろう甘い溜息が聞こえた。 判断も何もなかった。ウルフの体に接触しているのをいいことにサイファが叩き込んだのは単音節の魔法。 「ネ」 それは否定語の一言。本来、否定語は何事かすでにあるものを逆転させる言葉だ。火を消す、と言った場合の消す、に相当する言葉と言っていい。それを単独で使用するなど未熟な者が成し得ることではない。だが術者は魔術師リィ・サイファであった。 「くは……」 ウルフは仰け反り、喉許をかきむしる。膝をつく手前でサイファは抱きとめた。その体が痙攣している。外部から施された魔法とサイファの否定がウルフの体の中で拮抗している。 考えてしたことではなかった。爆炎を洞窟の壁に向かって叩きつけた。舞い上がる炎に光苔も花も焼き尽くされる。サイファはちりちりと肌が焦げそうになるまで待ち結界を二人の周囲に展開させ、兄弟のほうも同じように囲う。 「なに、サイファ……」 結界の向こう、すべてが焼かれている。どこにこれほどの物があったのか、そう思うほど火勢は強い。 「おとなしくしていろ」 ウルフの声に宿る欲情が消えたのを聞き取り、サイファは安堵する。判断は間違っていなかったようだ、と。 「あの花、かな」 腕の中、ウルフが力ない声で尋ねてくる。勘はいい、とサイファはうなずき赤毛を撫でた。先程のウルフの手つきのようではなく、ただ褒めるためだけに。 「動くぞ」 答えを待たずサイファはウルフを抱えたまま移動する。すでに正気に戻った兄弟がばつの悪い顔をして二人を迎えた。結界が接触し、そのまま溶け合う。兄弟が珍しい物でも見たように首をかしげてそれを見守る。おかしな所でよく似た顔をする兄弟だった。 「不覚だったわね」 一番に口を開いたのはアレク。自分の本心を見透かされまい、と嘯いている。それがサイファには痛々しく見えるのだが、シリルは気づいた様子もなかった。 「これ、どれくらいで消えるの」 「さて」 「……ってアンタ、このまま蒸し焼きなんて冗談じゃないわよ!」 アレクは飛び掛ってサイファの喉許を締め上げる。もちろん遊びでしていることなので本気ではない。かすかに目が笑っていた。このような控えめな感謝をされるようになってずいぶんになる、そんな気がした。 「とりあえず結界の中にいれば蒸し焼きはないと思うが」 「思うってなによ」 「確実なことは」 「……どーいう意味かしら?」 「この世の中に絶対はない、と言うことだ」 アレクにつき合ってやろう、と思ったわけではなかった。軽口に乗せられてしまっただけ、と言うのが正しい。頭を抱えるアレクの側、シリルが寄り添って慰める。それをウルフが神妙な顔をして見ているのがおかしかった。知らず口許が笑ってしまう。 「まぁ、どっちにしても……」 アレクが言いかけた途端、一瞬にして炎が晴れた。はっとして全員が一点を見つめる。そこに影があった。何者かがいる。あの炎の中、生きていた。そして炎を消して見せた。 「心したほうがいいね」 静かにシリルがアレクに言っている。ウルフの背をサイファが軽く叩く。 「無茶はしないよ」 前を向いたまま、ウルフが小さく呟いた。サイファへの、答えであることは自明だった。サイファは答えない。それでいいと言わんばかりにウルフがうなずいている。不快では、なかった。 丸いものがぞろり、動いた。自ら光を作っているのだろう、焼け焦げた洞窟を背景に次第に姿が明らかになる。球体だった。巨大な眼球が宙に浮いている。それは半ばから裂け、その裂け目に鋭い牙が生えていた。 「多眼の球魔……なんてことだ……」 シリルが声を失った。眼球には触手がある。その先にも眼球が生えていた。先端に生えたそれまでもが見て取れる位置に来た。うねる触手はその数、十本。周囲すべてを向いている目から逃れられるものはありそうにない。およそこの世の生き物とは思えない姿だった。 「へぇ、キミたちがね」 魔物が口を開いた。そう形容していいものか。が、確かに声は聞こえた。相手が優位を誇示するつもりなのは明白だった。結界を解くその一瞬が惜しい。サイファは手を振り薄い魔法の壁を取り去る。 「そのままにして置けばよかったのに」 どこから出るのか知れないが、姿に反して愛らしい声が言う。 「ほら、キミたちどっかで馬鹿な魔法使いを殺しただろう? あれボクの自称配下でねぇ。死ぬ前にキミたちの姿を送ってきたよ」 ふわり、漂い寄ってくる。戦士たちもアレクも剣を抜いている。サイファは魔法を編み上げ、そしてアレクにかけた。 「うん、賢明賢明。ボクに魔法が効かないってキミは知ってるんだね」 器用に、触手二本を打ち鳴らして見せたのは拍手のつもりか。 「別にどうでもいいんだけどさ、吸血草の罠まで壊されちゃったから殺せって言われてね。面倒くさいなぁ、幻覚で死んでくれればよかったのに」 ぎりり、音がした。誰のものとも言えない。一行すべての歯を食いしばる音。 「やだやだ、暑苦しいよ、キミたち」 見下すよう、魔物は少しばかり上を向き、視線を一行に落とす。ひらひらと振った触手に、アレクが切りかかった。 |