ウルフが、へらへらと笑いながら歩いている。緊張感のないこと甚だしい。サイファは横を見ないよう、不機嫌だ。
 あの時、アレクの言うことなど、聞くのではなかった。思い切り殴りつけたのはよいものの、ウルフがまた暗い顔をしたのだった。ほんの一瞬。それなのにサイファのみならずアレクまでもが見逃さなかった。
「ちょっと酷いわよ?」
 言ってアレクが放り投げてきたのは傷薬。どこから見ても切れてなどいない、と言うのに。サイファは内心の溜息を抑え、薬を取っては無言でウルフの唇に塗りつけた。
 おかげで出発してからだいぶ経つのにウルフはいまだ上機嫌だ。あれはアレクなりの感謝の介入なのだろう、とは思う。シリルとの喧嘩を仲裁したのは、アレクへの友情めいたものもあるにはあったが、単にいつまでも騒がれては煩わしいからだ。
 そう思いはしたものの、我ながら嘘だとは感じている。あのようなアレクを見てしまったら口を挟まずにはいられなかった。旅のはじめで最も普通だと思ったのはシリルだったはずなのだが、信用したのはアレクだった。これだから人間は面白い、サイファは思う。
「こっちもはずれだったね」
 シリルが溜息をついてアレクに言っている。アレクは肩をすくめて答えない。もっとも、喧嘩は収まり機嫌も悪くはないようだ。洞窟が面倒になってきた、それだけだろう。
 地図も何もない洞窟を進むのは大変だった。アレクが持つ松明の明りとサイファの魔法の明かりと、洞窟に踏み入れたときのままに進んではいるのだが、何分どこを進めばいいのかがわからない。
 足元の不安はなくとも、暗さと未知が緊張感を誘う。疲労もそれに伴って空の下を歩くときよりずっと早く蓄積した。度々足を止めては出られない、と感じてはいてもいざと言うときに戦えなくては仕方ない。
「そろそろ剣を砥がないとね、ウルフ」
「うん、刃毀れしてるかも」
「もうちょっと肩の力を抜いた方がいい」
「そうなの?」
「君は腕はいいし、剣も魔力をまとってるからね。力任せに振ることはないよ」
「そっか。ありがと」
 前後で戦士たちが話をしている。合流して以来、たいした魔物にはあっていないものの数だけは呆れるほど多い。のんびり立ち止まってもいられない戦士たちの剣は血に汚れ、刃が傷み始めていた。
「まったく、たいしたもの持ってないしつまんないわ」
「まぁ、そう言わずに、ね」
 アレクをシリルがなだめている。雑魚だけに収入になるような物も美しい細工物も持っていない。金貨でさえ稀だった。
「さ、次に行こう」
 一行はいま来た道を戻り、別の穴へと足を進める。面倒でもこうやって虱潰しにして行くより他にない。明らかに罠、とわかる場所に足を踏み入れることはなかったが、それだとてシリルが地図に書き込んでいる。踏破した挙句に出られないのならば、そこを行くよりないからだった。
「ねぇ、サイファ」
 不意にウルフが体を寄せてくる。何事か、と見れば兄弟を憚って声を落とした。
「疲れない? 大丈夫?」
「問題はないが。なんだ、急に」
「ん……ほら、明りはつけ続けだし、それに」
 言葉を切ってウルフは剣の柄に手をかける。薄暗がりの中、顔を伏せればサイファに顔色を読まれないと思ったのだろうか。残念なことに、半エルフのサイファにはよく見えてしまった。殴りつけてもいないのに赤い頬が。
「あぁ……」
 知らず、そういうことか、と声を上げてしまう。サイファが悟ったとわかったのだろう、決然と言っていい顔をしてウルフがサイファに向き直り唇を尖らせる。
「剣、サイファと繋がってるんでしょ?」
 開き直って言うところなぞ、まるで子供でいっそ可愛らしい。人間には見えないのをいいことにサイファは微笑む。
「あぁ、そうだ。そのときに言ったことをお前が覚えているならば、疲れはしないとも言ったはずだが」
「でもずっとだからさ」
「大丈夫だ」
 サイファの答えをどう聞いたのだろう。ウルフはあまり満足とは言いがたい顔をして前を向く。はぐらかされた、と思ったのかもしれない。
「本当だ」
「わかってるよ」
 どこまでわかっているのだか、知れたものではない。ここはウルフ風に知らせるよりないのかもしれない。そう、意識したのと手が動くのとどちらが先だったか。
「サイファ」
 少し弾んだ声。それに己のしたことを知った。いぶかしくてならない。確かに自分の手が動いたはずなのに、どうして手の中にウルフの手があるのだろうか。こちらからしただけに振り払うわけにもいかず、サイファは黙るよりない。人間には見えなくて心底幸いだった。
「手、あったかいね。安心した」
 このままでは収まりもつかないのだから仕方ない、とサイファは一度ウルフの手を握りさりげなく離す。少しウルフが笑った気がした。
「なにがだ」
「さっきね、サイファの手、冷たかったから」
「いつの話だ」
「兄弟と合流する前」
「……なるほど」
 珍しい婉曲な言い方。ウルフなりに気を使っているのだろう。我ながらあれほど取り乱すとは思ってもみなかった。幻覚そのものよりも、あれを見せた、自分を罠にはめた相手への敵意の方がずっと大きい。
「絶対、殺す」
 言葉にしたとは意識せずサイファは呟いていた。
「なに物騒なこと言ってんのよ?」
 振り向いたアレクが笑っている。いつもどおりだった。これがアレクのいいところだとサイファは思う。真正面から「友」と呼んだにもかかわらずアレクは変わらない。急に馴れ馴れしくもならなかったし、身構えることもない。それがサイファにとってどれほどありがたいことかアレクは言わずともどこかで知っているようだった。
「幻覚の使い手。殺さないと気がすまない」
「あぁ、同感だわ」
「アレク、止めようね。形だけでもいいから」
「なんでよー。いいでしょ、すごい嫌だったのよ?」
「アレクが止めなかったら誰がサイファを止めるの」
 呆れ声のシリルが言う。が、本心でそう思っているのかどうか。サイファを挟んで遊んでいるだけなのだろう。
「坊やが止めるでしょ」
「絶対無理」
 答えたのはウルフ。そもそも無理だとわかっていて言っているのだからアレクも始末に悪い。シリルがうつむいて吹き出していた。
「あーら、また行き止まりだわ」
 困ったわね、と口調は軽い。けれどいい加減に疲れているのだろう、口元に刻んだ笑みが冴えなかった。
 どうやら引き返して進んだ先もまた行き止まりらしい。さらに戻って先を行くことを考えるだけで疲れてしまう。
 それが油断、となった。
「アレク!」
 シリルが彼を突き飛ばす。はっと心づいたアレクが見た先にはまるで動く岩が。
「ケイブトロル、気をつけて」
 シリルが誰ともなしに叫ぶ。すでに剣を抜いていた。ごとり、どこから見ても岩だった。それが起き上がる、侵入者に反応して。
「どうやらこいつらの巣に入り込んじゃったみたいね」
 アレクもまた小剣を抜き放ち、眼前で構える。戦士たちが一匹のトロルに切りつける。が、硬い皮膚に邪魔されて致命傷を負わせることが出来なかった。
 これでは危うい、と下がったアレクをサイファが援護する。魔力で包みそしてトロルには魔法を叩き込む。
「サイファ、援護してください!」
 それを見て何か気づいたのだろう、シリルが叫ぶ。サイファはすぐに反応した。言われるまで思いつかなかったとは魔術師の恥とでも言わんばかりに。
「目、気をつけて!」
 その声に、アレクが目をかばう。言われたことの理解できないウルフの動作が遅れた。咄嗟に手を伸ばし、首を掴んでは引きずり寄せる。そのまま胸の中に抱き込んだ。
 それがぎりぎりで間に合った。大きな、岩の軋みにも似た声が辺りに反響する。トロルの絶叫だった。
「サイファ」
「黙ってろ」
 閉ざした瞼の向こう側、光の洪水が辺りを圧している。強い太陽の光。神聖魔法のひとつがトロルをただの岩に変えていく。
「もういいよ」
 弾む息をしたシリルの声に一行は目を開ける。シリルはまだ手の中に小さな太陽を持っていた。
「それ、どうするのよ」
「ここに残しておかないと。僕らが背中向けた途端に襲われたくないからね」
 そうシリルは笑った。
 トロルと言う生き物は太陽に弱い。特にケイブトロル、洞窟にすむ種族はそうだった。日の光さえ浴びせておけば岩と変わらない。が、一旦光がなくなるとその体は解け、トロルに戻って襲い掛かるだろう。
「いい加減に離れろ」
 ぼそり。サイファが言った。自ら招いたこととは言え、気持ち良さそうに背中に腕を回しているウルフを見ると、どうしてあのままにしておかなかったかと悔やまれてならない。この若造が視力を失おうと知ったことではない、と嘯きたくるもなる。
「もうちょっと」
「また殴られたいか」
「ん……」
 やっと離れてくれて心からサイファはほっとした。また、アレクが何か言いやしないかと落ち着かなかったのだ。幸いアレクは他のことに気をとられている。何かと見れば宝箱だった。すでに罠も鍵も解除を終えたのだろう。
「いいものみつけ」
 そう機嫌よく金属製の何かを手にとっている。おかげで見られることなくからかわれることもなかったのだからこんなに都合のいいこともなかった。
「よかったね、アレク」
 なにがあったの、そう言いながら離れていく体温が、少し寂しかった。そして慌てて首を振る。そんなサイファをどこか面白そうにシリルが見ていた。




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