見つめてくる目が、すぐそこにある。今までと同じようでいて、どこか違う目。それは何事かを知った目であるのかもしれない。見つめられるのに耐えかねてサイファは自然に見えるよう心を砕いて目をそらす。
「アレク、痴話喧嘩は済んだのか」
 声にからかいを滲ませてサイファは言った。少し前から兄弟の声が途切れていたのに、今になってようやく気づいたのだった。
「痴話喧嘩だ? 兄弟喧嘩と言え!」
 だが、返ってきたのはアレクらしくもない罵声。これにはむっつりと黙っていたシリルまでもが目を見開いた。
「アレク、そういう言い方は……」
「黙ってろ」
 シリルには一瞥も与えず、アレクはサイファに向き直る。挑みかかる紫の目が燃えながら濡れている。魔法的に繋がっているわけでもないのに、流れ込んでくる感情。つらくてならなかった。
 シリルにとっては機会のひとつ、であったのだろう。だが、それがどれほどアレクに衝撃を与えるかまではわからなかったようだ。まだ若い二人だ、と内心でサイファは微笑する。
 嬉しいはずだった。シリルに嫉妬されて、これ以上ないほど嬉しいはずだった。けれどそれは同じ強さでアレクを苛んでいる。それがサイファにはよくわかる。ふと、腕を引かれて目をやればウルフが心配そうに見上げている。
「ウルフ」
「なに」
「少しシリルの相手をしてろ。話を聞いてやれ」
「僕なら、大丈夫です。アレクともう少し……」
「アレク、こい。愚痴のひとつくらい聞いてやる」
 シリルの言葉を最後まで聞きもせず、サイファはアレクに手を差し伸べる。少し、微笑った。なぜこれほど哀しい目ができるのか。そのまま物も言わずにサイファの手を取る。冷たい手をしていた。
「アレク……!」
 シリルの呼び声に、アレクは振り向かない。背を向けた肩が震えていた。このままシリルに見られているのはつらかろうとサイファは手を一振りして姿を隠す。隠れきる寸前まで残された彼らは呆然と二人を見ていた。
 どれほど時間が経っただろうか。長かったようでも短かったようでもある。はじめは言葉少なだったシリルも、促されるままにいろいろな話をしていたところだった。アレクの話はしない。ウルフはそれでいいと思っている。ただ、思いつくままにぽつりぽつりと。
「そのときにね――」
 驚いて言葉を切ったシリルの視線の先。アレクとサイファがいた。明らかに泣いた目をしたアレク。仄かに笑って目をそらす。けれど、それは弟を拒絶する目ではなかった。
「アレク……」
 まだ呼び声には答えない。濡れた洞窟の床を視線はさまよっていた。
「シリル」
「はい」
 答えたシリルの頬が強張っている。無理もない、そう思う。いままでは兄弟仲良く、とでも言おうか、核心を避けながら過ごしてきたのだろう。お互いだけを頼りとして。それなのにアレクは愛する弟ではなくサイファを頼った。シリルにはおそらく想像絶する衝撃だったことと思う。
「あまり手酷くからかうな。いちいち介入してはやらんぞ」
「アレクを、あなたに盗られてしまいそうですね」
 震えるぎりぎり一歩前の声。そらしていた目をアレクは上げた。声の代わりに震える唇が微笑っている。踏み出しかけた足を、けれどアレクは止めてしまった。
「……ややこしいことを言うな」
 大げさな溜息をサイファはついて見せ、シリルに笑いかける。ふっと、シリルの強張りが解けた。あるいはそれはウルフが顔を引き攣らせたせいかもしれない。よくぞこれほど次から次へと面倒が、と心の奥底で溜息をつきながらもサイファは笑みを崩さない。
「どうしてアレクを心配するんです、あなたは」
「さてな。似たもの同士だからかもしれない」
「どこがです?」
「子供には内緒の話だな」
 言ってにやりと笑って見せた。シリルに、ではあったが聞かせる相手は違う。どう違うのかはサイファ自身わからなかったが。
 それでも功を奏したのだろう、シリルが声を上げて笑い、ウルフも口許を緩めた。隣でアレクの緊張が解けていくのがわかる。
「アレクと内緒話ですか」
「そおよー。サイファってば実はアタシのこと好きなんじゃないかと思うの」
 ね、と見上げてくる。まったくアレクらしかった。茶化して話をそらして、そして立ち直ろうとしている。意図はわかるが巻き込まないで欲しいものだと切に願うがもう遅い。諦め半分、頭を小突いた。
「本当にアレクとはうまく行っているんですね」
 そんなアレクを見て、シリルも常態に戻ったのだろう、いつもの顔をして彼は言う。特別の意味はない、それだけの言葉。
 不意に悟った。これがアレクを悩ませている言葉遣いなのだ、と。言葉の向こう側にあるものを探りたい、知りたい。そう思えどもシリルの言葉に裏の意味も隠された意味もない。単純な、それだけの言葉は恋する身にどれほどつらいことか。
「アレクは、友と呼ぶに値する人間だからな」
 だからせめて友情を。なにかの慰めになればいい、そう思う。似たもの同士、と冗談で言ったのではない。だがシリルには、いまのところ理解はできないだろう。アレクと自分と。傷口を舐めあうにはちょうどいい。それだけのことだった。
 久しぶりに口にした友と言う言葉。それがサイファの胸をぬくもりで満たす。だから、気づかなかった。ウルフの目が苦悩に曇ったことを。
「ウルフ、もういい。戻ってこい」
 そうサイファが声をかけたときにはすでにウルフは普通の顔をしている。何事もなかったように、珍しい兄弟喧嘩に巻き込まれて少し困った、そんな顔。
「サイファ」
 アレクの背を、シリルに向かって押しやった。振り向きざま、照れて笑う。言葉はない。それで充分。仲間、と呼ぶようになってしまった人間の中で、もっとも信頼してしまった。サイファはどこが苦笑を隠せずにいる。入れ替わりに戻ってきたウルフがこれほどまで深く恋心を捧げていると言うのに、最初に深く信じたのはアレクだった。その皮肉。
「なんだ」
 そんな思いを悟らせないよう、サイファは常のとおりの口調、抑揚で答える。
「俺、サイファの役に立った?」
 何度そう尋ねられたことだろう。そのたびに回りくどく、あるいは直接に答えていると言うのに。不思議なものだった。何度も何度も。繰り返す。束の間の安心が欲しいのだろうか。
「立った。私だけでなく兄弟の役にも」
「そっか。良かった……。へまやったら嫌われるかと思った。怖かった」
 顔を伏せたウルフの、唇だけが見えている。安堵にわななくそれに目を惹きつけられた。ほっと胸を押さえる仕種。鮮やかな赤毛が、そこにある。ふと思った。アレクよりもまだ、小さいのだな、と。言えばきっと怒るに決まっているが、何かそれが妙に新鮮だった。
「そのくらいで……」
 言いかけた言葉を止める。一瞬、自分がなにを言おうとしたのか知っては惑った。息を呑み、泳ぎそうになる目をこらえてサイファは続ける。
「……見放さない程度には、信頼している」
 言いよどんだ言葉が、伝わったしまっただろうか。不安になって目を向ければ、はにかんだ目に出会う。理解ではないなりに何かを悟ってしまったらしい。旅に出てからと言うもの、まるで糸が緩んででもいるようだった。不用意な言葉、不必要な態度。おかげで若造に付きまとわれる羽目になる。そして決して嫌ではないと思っている自分にめぐりあってしまった不思議。
「サイファ」
 兄弟に背を向けたウルフが、大人びた顔をする。意図してやっていることだとサイファにはわかってしまう。わかりたくなどないのに。兄弟にはただの子供の顔しか見せないつもりらしい。
 特別。ウルフにとっての特別。意味も何も自覚していないのに。ずきり、どこかが痛んで、アレクを笑えない。
 視線をそらして兄弟を追う。どうやあちらはうまくまとまったらしい。いまさらながらに初々しいと言いたくなるほど不器用に手を取っている。
「なんだ」
 黙っているのもおかしいか、と遅れて返事をするサイファをウルフはかすかに笑った。
「ちょっとだけ目、閉じて」
「なぜだ」
「いいから」
「なにをするつもりだ」
 言った途端、ウルフが吹き出す。そこまで警戒心も露だっただろうか、とサイファはむっつりと目を閉じる。
「おかしなことをするつもりはないって」
 声は少し、上から聞こえた。また岩の上に乗ったのだろう。そう思えばどことなく微笑ましくも、ある。
「俺、あんたに会えてよかったと思う。サイファと知り合えて、すごく嬉しいよ」
「なにを、突然」
 伸びてきた腕が肩を抱く。胸の中、抱き取られる。慣れてしまったから、抵抗しても無駄だから、言い争うのが面倒だから。幾つもの言い訳が浮かんでは消え、また浮かぶ。
「別に。言ってなかったな、と思って」
 急に、苦しくなった。腕の力は変わっていないのに。柔らかく、抱いているだけ。頬に当たる金属の感触も変わらない。それなのに。
「……な」
「ん? なんか言った?」
「無茶を、するな」
「心配してくれるんだ?」
 かすかな笑いの気配がする。自分ではまったく理解していないのに。嫌と言うほどサイファにはそれがわかってしまう。剣から伝わってくるウルフの感情。本人が口にしている言葉。その差の激しさが。
「シリルの面倒を増やすな、と言っているんだ!」
 突きのけて、顔をそむけた。腕の中、いつまでもいては呼吸ができなくなりそうだった。
「サイファ」
 ほんの少し上にある目が微笑った。
「嘘が下手だって、いつになったら覚えるの?」
 兄弟が振り返る。次いで呆れ顔で首を振る。ウルフは赤くなった頬を押さえていた。その傍ら、肩で息するサイファを、兄弟は処置なしとばかりに笑うのだった。




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