ウルフが視線をそむけた先。なにがあるのかと目で追った。何もありはしない。当然だった。 「おい……」 素直に名を呼ぶことができない。息苦しさに知らず喉元を手で押さえた。 「サイファが俺をただの馬鹿なガキだと思ってることはよくわかってる」 どこか遠くを向いたまま、ウルフはそんなことを言う。まったくわかっていない。殴ってやろうかと思った。この若造は、まぎれもなく馬鹿な子供ではある。だが、ただそれだけではないことはサイファも理解はしている。ただの馬鹿であったならば、これほどまで心乱れたりするものか。 吐き出しかねる言葉に、息が詰まっていたのだと、知った。 「わかっていない」 「どこが?」 「説明を要する辺りが、だ」 「そんなんじゃわかんない」 わざとわからないように言ったのだと、彼が理解する日は来るのだろうか。来たころには、自分はいないだろう。彼の側には、別の誰かがいる。 「サイファ」 残りの意思を振り絞りでもしたよう、ウルフが顔を向けてくる。伸ばした手を、自ら握りこんだ。サイファに触れたくて仕方ないのに、堪えた。やはり、馬鹿かもしれない。流されてやってもいいのに、ふとそんなことを思っては今だけだ、と改める。 「サイファが、俺に興味なくってもいい」 心にもないことを、サイファは内心で笑む。ウルフの唇が、震えていた。自分でもそれがわかるのだろう、悔しげに、彼は目を伏せる。 「でも、アレクと仲良くしてるの見るのは、嫌だ」 ここで盛大な溜息をついても、きっと誰も怒らなかったはずだ。が、サイファは控えた。だから馬鹿だ子供だというのだ、そんなことを言ってもきっと通じない。 軽く視線をそらし、それとわからぬよう洞窟の天井を仰ぐのみ。もう少し大人になってくれたならばあしらいようもあるのに。これでは仲良しの友達を取られた子供と大差ない。 「僕も、実の所かなり不愉快です」 なにをどうしたものか、と頭痛の起こり出したサイファに、止めを刺したのは意外にもシリル。向こうで傍観しているだけだと思っていたものが、妙なところで口を挟んだ。 「なにがだ」 問いかけて、やめた。シリルは顔こそこちらに向けていたけれど、本当に言っている相手はその兄だったから。 「シリル?」 不思議そうな目をしてアレクが覗き込んでいる。つ、とシリルが目をそらした。半エルフには見えた、そのシリルの表情が。わけがわからない、と問いただそうとするウルフをそっと手で制し、黙っていろと目で言った。不承不承にウルフがうなずく。まだ怒っている、と如実に顔で言いながら。 「僕が不愉快に思わないとでも、思ってた?」 「だから、なにがよ」 変なところで鈍いものだ、とサイファは笑いたくなった。あとの災難を考えて黙って見守りはしたが。 以前、シリルがサイファに言ったように、シリルはシリルなりにアレクを大切にしている。それはアレクも知っているはずだった。 だが、よもや嫉妬するとは思っていなかったのだ。サイファを抱き寄せたのは、ただの冗談だった。アレクはそう思っているし、サイファも理解している。おそらくシリルだとてわかってはいるのだ。 「アレクが、わざと『遊んで』たのはわかってるよ」 案の定、だった。けれど、わかった上でも不愉快だと思うのはある意味では当然かもしれない。 さすがにシリルはサイファを使ってウルフで遊んでいたとは言わなかった。本人の前であろうとも、アレクだったら言いかねない。それで憂さを晴らす、そんなところが彼にはある。 「でもかなり気分悪いんだよ、ああいうのはね」 誠実な、茶色の目が珍しく熱に歪んでいた。アレクにとっては珍しい、残る二人にしてみれば初めてのもの。なにか不思議な物でも見るようにシリルを見ていた。 「シリル、焼きもち?」 そんな彼がアレクは嬉しくてならないらしい。思いの叶わぬ弟が嫉妬してくれる。それはアレクにとっては至福、なのかもしれない。 不意にサイファは理解した。あれはウルフを挑発するためだけではなく、間違いなくシリルをも巻き込むためだったのだ、と。 「悪い?」 シリルも、わかっていて乗ったのだ。あの時サイファに言ったよう、いい機会だと思っているのかもしれない。少し離れたところからシリルの顔を覗き、そして違うとサイファは思う。 シリルにとっての機会はまだ訪れてはいないらしい。今は機会を手繰り寄せるための布石、と言うところか。 「悪くは……ないけど……」 怒られているのか喜んでいいのか戸惑う、そんな顔をアレクはしていた。無意識にだろう、上がった手が唇を押さえている。きっとそれは、喜びに笑みを作ってしまったそれを隠している。 そして生真面目な顔を取り繕っては手を離し、そのまま指先で耳飾りに触れた。それを目の端に映しながらサイファは、あれは彼の癖なのだろうか、といまさらながらに疑問に思う。 「ねぇ、アレク」 シリルが一歩踏み出した。その顔に浮かぶのはアレクとよく似た笑顔。アレクが、他人をからかうときにする顔。いつもは真面目なシリルだけに、ぞっとするほど凄みがあった。 「なによ」 下がりかけた足にアレクは舌打ちする。漸うにして、シリルがかなり本気で怒っている、嫉妬していると気づいたらしい。 「突っ込んで出したいだけだったら、サイファを口説いてみたら? 確実に殺されるだろうけど、敵討ちはしないよ」 「シリル!」 「なに」 「なにって、そんなことをいうような子に育てた覚えはないぞ……」 アレクは呆然としていた。あの小さかったシリルが。寝床の中、猥語を叩き込むたび身をよじって嫌がるシリルが。こんな直截な言葉を言うとは信じがたい。眩暈でもするよう、額に手を当てていた。 「育てられた覚えだったら充分あるんだけど」 「……反抗期か?」 アレクはサイファと同じ過ちを犯した。咄嗟に振り上げた手が防御する。シリルに殴られては顔の形が変わってしまう、と。 「ガキ扱いしない!」 またひと悶着、起こりそうだった。サイファは笑いをこらえかねて背を向ける。ウルフが黙ってサイファの目を覗いていた。 「ねぇ、サイファ」 「なんだ」 「あれって……あの兄弟って……」 「気づいていたのではないのか」 「なんとなくは、ね」 「まったくどこから見ても立派な痴話喧嘩だな」 「痴話、喧嘩……」 「だろう? 仲が良くていいことだ」 自分で思ったよりも、皮肉な口調だったかもしれない。ウルフの目に、険が混じる。 「サイファ、俺どうしたらいい?」 無論、それは兄弟に対してではなかった。いつもは澄んでいる目が鈍く揺れている。戸惑うならば、正確に戸惑えばいいものを。無自覚の袋小路に入り込み、そこでいつまでもうろうろしているからこういうことになるのだ。 「頑張ってるけど、そんなすぐには大人になれない……」 「ならなくていい」 「でも!」 「なぜ、そんなに急ぐ」 「そりゃ、急ぐよ。サイファにちょっとでも好きって言って欲しい。すぐにでも」 こちらを向いた彼の目が、胸を衝かれるほど真摯で惑った。だから、真正面に向き直る。そう遠くのことではないはずなのに。いまはまだ自分より小さな背が、伸びるのは。なぜ、それほど生き急ぐか。 「お前はお前のままでいい」 「だから、サイファ。俺の話し聞いてる?」 「聞いてる。どうしてそんなにすぐ大人になりたがる。大急ぎで大人になって、その後に来るのはなんだ?」 「あと……」 サイファは言わなかった。ウルフも答えなかった。はじめて無言のうちに理解が通ったような気がする。こんなことで。 サイファは目をそむけたくなった。だが、させないものがウルフの目にある。じっと見た。 「サイファ」 「なんだ」 「俺が死……俺と別れるの、ちょっとでも寂しいと思ってくれてる?」 言い直すくらいだったらそのまま言ってしまえばいい。噛みそうになった唇で強いてサイファは笑みを作る。 「全然、思っていない」 ウルフがうつむく。そしてそのまま笑った。まだそれは普段の彼からはあまりにもかけ離れた暗い声だったけれども。 「サイファ。嘘下手だって、言ってるじゃんか」 くつくつと、笑った。嘘だと、わかっているならばそれでいい。できることならばそれを口に出して欲しくはない、と思うのだが、そこまで望むのは無理と言うもの。 「勝手に思っているがいい」 「サイファ」 踵を返しかけたサイファの手を取る。ごく、自然に。喧嘩などしなかったように。 「大好きだから」 どこまで理解して言っているのだろうか。その目を見てサイファは思う。手を取られるままにした。ウルフが微笑う。それから自分の頬にそっと押し当てた。ウルフの頬は、熱かった。 |