片膝をついたサイファの向かいでアレクがくつくつと喉を鳴らして笑っている。当のサイファは不機嫌に声もない。
「座ったら?」
 まだ収まらない笑い声のままアレクが言うのに従ってサイファは彼の横に腰を下ろす。向こう側では罵り声を上げるウルフをシリルがなだめていた。
「ほんとに坊主は楽しいなぁ」
 自然ではあったが男の声のまま言うアレクにサイファは呻き声を上げる。
「どうした?」
「それ、やめてくれ」
「ん?」
「不気味だ」
 にやり、アレクが笑った。
「こっちの方が普通のはずなんだがな」
「慣れと言うものは恐ろしい」
 実際そのとおりなのだ。男のアレクが女の演技をやめただけなのに、かえって慣れないあまりに気味が悪いというのはおかしいのだ。
 どこから見ても美しい女である、と言うのが問題なのかもしれない。だがサイファにははじめから彼が男であるのはわかっていた。この不思議な違和感をどう説明したものだろうか。
 そもそも弟に恋をして、弟好みの女の演技をし、かつその弟を抱いているというのは屈折するにもほどがあると言うもの。人間とは不思議な生き物だった。
「まったくだ!」
 密やかな笑いが華々しい声に変わる。その明るさに驚いたのかシリルとウルフがこちらを向いた。アレクは笑いながらなんでもない、と手を振っている。その唇がわずかに歪んだ。嫌な予感がするサイファだった。
「サイファ」
 どれほど無視しよう、と思ったことだろう。が、律儀にサイファは彼を見る。やはりと言おうか、にんまりと笑っている紫の目。
 突然のことだった。伸びてきた腕がサイファを抱き寄せたのは。驚きのあまりサイファにははねのけることもできない。
「アンタってほんとおかしいな」
 喉元まで出かかった罵声だが、サイファは口にしなかった。ウルフと同じように抱きかかえている腕。それなのに嫌悪も羞恥も湧かない。それが不思議でついなぜなのか考え込んでしまった。
「アレク」
 腕が引かれるのと、その声が聞こえるのが同時だった。はっと顔を上げたサイファの前に立つのはウルフ。向こうでシリルが苦笑していた。その表情で悟った。アレクはただの冗談でそうしているのだ。あるいはウルフを挑発するためだけに。だからサイファ自身への意図のない腕は何も感じさせない、そういうことなのだろう。では、ウルフは。
 そう思った途端、また強く腕が引かれる。無理やり立ち上がらせられた。振り向けばにやにやと笑っているアレク。天を仰ぎたくなるのはなぜだろう。長嘆息を漏らしたサイファに同情するような顔をシリルは浮かべていた。
 ウルフは無言のままだった。思い返せばアレクに離せ、とも言っていない。腕を引いたまま前を見ている顔はうかがえなかったけれど、きっと唇を噛みしめていることだろう。
 最前までシリルと話していた場所でウルフはサイファの肩を押す。引きずられてきたかと思えば今度は無理やり座らされる。いい加減にしろと怒鳴ることもできたが、サイファはそうしなかった。
 腰を下ろしたサイファの隣、低い岩の上にウルフは座る。それから物も言わずにサイファを抱きしめた。
「おい」
 離せ、と続けるつもりだったのに言葉が出てこない。喉に何かが詰まったように。ぐっと抱かれた肩にウルフの指が食い込んでいる。押さえられた頭は彼の胸に埋まっている。
 不意に何かがおかしい、と思う。そして気づいた。位置が、おかしかった。自分より小さなウルフの胸に抱き込まれるなどありはしない。サイファは彼の胸の中、微笑を浮かべた。それで先程、岩の上に座ったのか、と。
「なんでだよ……」
 聞かせる気があるのかもわからないほど、小さな声だった。けれどそれはまるで絞り出したように苦い。
「なにがだ」
 尋ねなくともわかっていた。
「どうしてアレクはいいの? 俺じゃだめなの」
 やはりそのことだったか、と思う。だから説明するつもりはなかった。本人が自覚していない恋心を、何も恋されている身が解説してやることはあるまい。
「サイファ……」
 泣いてでもいるのかと、思った。顔を上げようとしたサイファをウルフは離そうとしない。うつむいて、まだ名を呼んでいる。頬に頬が触れていた。次第に熱を帯びはしても、濡れては来ない。そのことに不思議と安堵する。
「サイファ」
「苦しい。少し緩めろ」
「あ……」
 やっと気づいたのだろう。強まる一方だった腕の力が緩まった。サイファは深く呼吸をし、我と我が言葉を疑いつつも動揺を静める。離せ、と言ってよかったはずなのに。
「サイファ、アレクは……」
「別にアレクだからいいわけではない」
「だって!」
「突然あんなことをされて驚いただけだ」
「でもサイファ、抵抗もしなかったじゃんか。俺にはいつも……」
 言いさした言葉をウルフは止め、驚いたようにサイファを見る。いつも抵抗する、そう言いかけたのだが、いまのサイファは手指でさえも抗っていない。
「なにか一言でも言ってみろ。腹に風穴を開けてくれる」
 低い罵りがウルフの耳に届いたかどうか。緩まった腕から抜け出したサイファが見たのは、喜色満面たる彼の笑み。知らず目をそらしてしまったサイファは、ウルフがわずかに染まったサイファの頬を嬉しげに見つめていることまでは気づかなかった。
「お前は卑怯だ」
 だから、つい罵ってしまった。なぜ、たったこれだけのことでこんなに嬉しげなのだろう。いずれ去るとわかっている人間など、自分にはどうでもいい存在なのに。
「なにが?」
 罵倒されたと理解しているのかいないのか。ウルフはきょとんとした顔でサイファに問い返す。それも当然かもしれない。言葉面だけで叱られたとて、こたえるはずがない。
「それだ」
 言ってサイファは下を指す。そこには岩が見え隠れしていた。
「あー。ばれた?」
「見え見えだが」
「でも卑怯はないでしょ」
「ずるい、と言い換えようか?」
「同じだってば」
 ふわり、微笑ってウルフはまたサイファを腕に抱く。今の今では抵抗もしがたい。サイファは腹立ちまぎれ、ウルフの鎧を殴りつけた。だがそれにも笑い声が返ってくるばかり。
「俺、見栄っ張りなんだよ」
「なにがだ」
「実はサイファより背が低いの、気になってるんだよね」
 なんとも子供らしいことを言ってくれる。呆れてサイファは声もない。
「だったら自前で背を伸ばせ!」
 ようやく出たのはそんな言葉。背を抱く腕が、強くなった。
「じゃあ、サイファより背が高くなったら……」
 耳許で囁く声の熱さに、サイファは物も言わずウルフを殴りつけた。先程とは打って変わった強さで。さすがにウルフが軽い悲鳴を上げる。もちろん本心ではなかろうが。
「仲直りは済んだー?」
 はっとサイファはウルフを押し戻す。そして向こうを見やれば立てた膝に頬杖をついたアレクが耳飾りに触れながら艶然と微笑んでいた。
 黙って立ち上がったサイファはつかつかと彼の元へと歩み寄る。岩壁に手をつき、体をかがめれば長い髪が脇にこぼれた。
「わざと面倒ごとを起こしたくせに、よく言う」
 返答いかんでは魔法を叩きつける、と言わんばかりの低い声。が、アレクはその声の中に笑いも聞き取っていた。
「言っただろ。坊主を全力で応援するってな」
 他の二人には聞き取れない小声でアレクは言った。サイファは頬を引き攣らせて軽くアレクの頬を手の甲で叩く。
「こういう意味だとは思わなかったがな」
「それは解釈の問題だな」
「……お前が一番たちが悪いような気がしてきた」
「なにをいまさら」
 見上げてアレクは笑みを形作る。華やかな、人を惹きつけずにはいない女の笑み。呆れてサイファは溜息をつく。背中に当たる視線が痛かった。
「サイファ、内緒話はその辺にしたほうがいいですよ」
 誰かとよく似た笑い声が聞こえてくる。案の定、背後から迫ったウルフがまた手を引っ張った。
「サイファ」
「いいから離せ」
「なに話してたのか言ってくれたら」
「大人の内緒話だ」
「子供扱いしないでよ!」
「私から見れば充分に子供なんだが」
 振り返ったサイファの目に映るのは、唇を引き結んだウルフの顔。剣から伝わってくる感情が、サイファの胸を刺した。
「アンタ、ちょっとそれは酷いわよ?」
 元凶が口を挟むのに、サイファはいっそここから転移の呪文で塔に戻ろうかとまで思ってしまう。長い溜息でアレクに不満を知らせておいてサイファは真正面からウルフを見た。
「言い過ぎた。撤回する」
 本心とはかけ離れたことを言う自分が信じられない。こうでも言わなければウルフが納得するまい、と思って言ったことだった。
 しかしウルフは苦く笑って顔をそむけただけ。思わず視線が追った。
「サイファ」
「なんだ」
「……嘘、下手だねって言ったじゃんか」
 溜息も出なかった。どうしてこういうことにだけは鋭いのか、まったくもって理解できない。天を仰げども濡れた洞窟の天井が目に入るばかり。兄弟は我関せずあらぬ方を向いていた。




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