足音を殺して進む。洞窟の、影から影へと姿を隠し、どこかにいる敵を警戒しながら。先に立ったウルフを見て思う。まるで見えているようだ、と。これが戦士の勘なのだ、とわかってはいてもどこか不思議でならない。旅のはじめ、実戦経験がほとんどないと言っていた子供と同じとはとても思えなかった。
 気がそれたのを感じ取ったか、ウルフが振り向いて咎めた目をする。かすかに苦笑し、視線で詫びた。それを見たのか悟ったのか、ウルフは何事もなかった顔をして前を向く。
 足元だけを照らす細い明り。ちょうど水脈に当たっているのだろう、ぽたりぽたりと水が滴っている。ウルフの背にも、サイファの髪にも雫がかかった。二人とも、けれど声ひとつ立てない。冷たい水だった。
 できる限り、静かに歩いてはいた。がしかしウルフは鎖鎧だ。完全に物音を消すことは不可能だった。金属の擦れる音、鎖が鳴る音がどうしてもしてしまう。わずかに視線を下げたウルフが今度ばかりは忌々しそうに自分の鎧を見ていた。
 アレクがいてくれたならば。そう思わずにはいられない。小剣を持つようになって、接近戦闘もこなせるようになったアレクは貴重な戦力だ。彼が自称するように「遺跡荒らし」であるアレクは、物音を立てない革鎧を身につけ、柔らかい革の靴を履いている。偵察にはうってつけの人材だった。
 サイファとウルフ。魔術師と戦士の二人では、接近戦は荷が重い。どちらかが傷を負えば一気に戦局は敵に傾くと思わざるを得ないのだ。
 わずかな水音。自然の、滴りではない音だった。ウルフがきつく唇を噛む気配。ウルフの、硬い靴が水溜りに踏み込んだ音だった。
 襲撃は、同時だった。ウルフがしまった、と悟ったのと敵が飛び出してきたのと。剣と剣とがぶつかり合って火花を散らした。ろくに見えもしない薄闇の中、正確に襲い掛かってきた相手の技量にサイファは舌を巻く。
 しかし一撃の後、互いに相手の出方をうかがうような細かい動きを繰り返している、そこに見たものにサイファは目をみはる。咄嗟の判断だった。声をかけるなどとてもできない。その間にウルフは切られる。間違いなく。だから魔法を拡大した。細い明りが、光を放った。
「……くっ」
 声にならない叫びが上がる。ウルフのものではない。
「……!」
 今度はウルフの息を呑む音。次いでサイファもまた、喉元に冷たい物を感じる羽目になった。
「シリル、何で!」
「こっちだよ、驚いたのは」
「俺だってびっくりした」
 ウルフと剣を交えたのはシリルだった。サイファの、半エルフの目はそれを捉えたが、人間の二人はそうは行かなかった。
「ところで。離してくれないか」
 そう、わずかに首を振り向けてサイファは言った。喉に当たる金属の感触。背後から短剣を当てられている。ウルフに気をとられたおかげでこんな目にあう、そう思えば苦々しい。
「あーら、油断するからよー?」
「まったくだ」
「無様ね」
「返す言葉がないな」
 取り除けられた短剣に、サイファは振り向く。紫の目が笑っていた。恐ろしい兄弟だった。仲間として戦っているときには感じたことがない、といえば嘘になるがよもや敵としてこれほど恐ろしいとは。この自分が背後を取られた、それがサイファに非常な衝撃を与えていたのだ。
「――にかまけてるからよ」
 耳許でアレクが囁く。聞き取れなかった。が、聞き返さないほうがいいことは身に染みてわかっている。だからサイファは何も聞こえなかったふりをして、笑いあう戦士たちに目を移した。
「移動しましょう」
 シリルが言って、先に立つ。どうやらいままで二人がいた場所に導くつもりらしい。
 そこは洞窟の、小さな袋小路とでも言ったらよいだろうか。行き止まりであるのだが、一見して見つけにくい場所だった。行き止まりに岩がある。そして本当の行き止まりはその岩の後ろなのだ。薄暗い洞窟でそれは見つかりにくい、最上の避難場所と言えた。
「サイファ」
 アレクが名を呼ぶ。無言の促しに従って、サイファは岩の裂け目を結界で封じる。今回は色もつけた。
「さすがサイファ。便利ねぇ」
 それを見てアレクが微笑む。結界は岩と同じ色をしていた。
「二人とも無事のようで安心しました」
 ようやく腰を落ち着けてシリルがほっと、心から安心した吐息を漏らしてそう言ったのは、水を飲み携帯食を口にしたその後のことだった。
「シリルたちもね、良かったよ」
 ウルフが同意している。アレクは張り詰めていた気が解けてしまったのだろう。ぐったりとシリルの横に腰を下ろし、立てた膝に顔を埋めている。その背にはシリルの旅のマントがかけられていた。眠っていないのは呼吸の仕方でわかる。そのアレクが不意に目を上げて視線でサイファを呼んだ。
 立ち上がったサイファに、シリルがちらりと視線を向けてさりげなくウルフをアレクの側から離すよう誘導する。そんな彼に、思わずサイファは苦笑を漏らすのだった。
「どうした」
 アレクの傍らに片膝をつき、サイファは小声で問う。あまりの憔悴ぶりが不安だった。
「アンタ、なに見たの」
 聞き取りにくい小声。否、声の大きさではなかった。アレクのそれはかすかではあったが震えていた。
「なに、とは」
「幻覚。アンタ見せられなかったの?」
「いや、罠だとわかってはいたがかかってみた」
「で?」
 疲れきった目をしている、そう思った。よほどつらいものを見せられたに違いない。それがなにであるか、サイファはわかるつもりだった。
「我が師のことではないか、と若造は思っている」
「違うの?」
 アレクの口許が笑った。そうと知っていてあえて問うている。そんな顔だった。
「……想像に任せる」
 なぜ、素直に言う気になったのか、自分でもわからなかった。アレクが相手だと、ウルフとはまた違った遣り難さがある。
「笑うな」
 膝に顔を伏せ、肩まで震わせて笑っているアレクに忌々しげな一瞥を与え、戦士たちをうかがえば、彼らは彼らで分断されてからのことを話し合っているのだろう、会話に余念がなかった。
「だっておかしいんだもの」
「なにがだ」
「あんなにどうのこうの言ってるわりに、アンタが見たのはなんなのよ?」
「私に選択の余地はなかった、と思いたいが」
「気休めね。アタシは自分の一番見たくないものを見た。シリルも言わないけど、そうみたい。たぶん、坊やもね。アンタは?」
 アレクに言われるまでもない、サイファだとて良くわかっている。ただ他に言い返す言葉を持たなかっただけなのだから。
「その若造だがな」
「なによ」
「本人は、過去のことを見せられた、と言っているが?」
「えー、なによそれ!」
 アレクは抗議の声を上げ、そしてサイファに言っても仕方ないことを思い出したようにちらりとウルフを見やった。
 視線が、咎めている。けれどまっすぐに見据えないアレクの視線はウルフを直接には捉えない。気づきもせずにウルフはシリルと笑いあっている。アレクは耳飾りをいじりながらじっと彼らを見ていた。
 アレクはその目で、なにを考えているのだろうかとサイファは思う。きっとシリルと自分のことを考えているに違いなかった。
 サイファは内心で深い溜息をつく。アレクは自分とウルフに関して多大なる誤解をしている。そして誤解に基づいて、自分たちを、ある意味では羨んでもいるらしい。
 複雑な事情の本に成り立ってしまっているシリルとの関係より、初々しいなどと気色の悪いことを考えているのは明らかだった。
 だから、ウルフがサイファではない別の幻覚を見たと言うことは、アレクにとっては一種の裏切りなのだろう。ウルフにサイファとの関わり以上につらいものがあるなど認めたくない、と。
 そしてそれは、シリルがなにを見たのか、と言う疑問にも通じる。自分を見たのか、それとも違う何かを見たのか。いつの間にかアレクの視線はウルフではなくシリルを追っていた。
 そんなアレクを微笑ましい、と言ったらきっと彼は怒るのだろう。だが屈折していているくせに一途で複雑怪奇なアレクがサイファには微笑ましかった。
「ずいぶんと薄情なことだとは、思わないか?」
 サイファの唇に笑みが浮かぶ。意地の悪い、からかうような顔。沈みかけたアレクの手助けをしたい、と思ったのかもしれない。ふと視線を戻したアレクもまた同じような、それでいてもっと人の悪い顔をして笑った。
「まぁ、そう言うなよ」
 くっと、喉を鳴らして男の声が笑う。サイファは失言に頭を抱えたくなった。ただの冗談だったのだ。別に薄情だと思ってはいないし、特に気にしてもいない、はずだった。
 まったくもって自分の発言が信じられない。アレク相手の気の置けない会話に心のどこかが油断したとしか思えない。そしてどこをどう油断したらそんな言葉が出てくるのか、自分自身でもまったく理解出来なかった。
「やっぱり、ね」
 したり顔でうなずくアレクに、なにがだ、とは問わなかった。どうせ答えはわかっている。あの若造を好きなのだろう、と言われることくらいはサイファだとて想像がつく。
 サイファは問わず答えず、黙って誰からも視線をそらす。向こう側で滴りが首筋に入ったのだろう、ウルフが罵り声を上げていた。




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