薄暗い洞窟の中、足早に二人で進む。片手にだけある温もりが、どこか懐かしいような気がする。ぽたり、落ちてきた雫にウルフが小さく罵り声を上げた。 「静かにしろ」 「だって」 「魔物に聞きつけられたら不利だ」 「……ごめん」 武闘神官が保証したとは言え、いまだ未熟だと思い込みたいほど若い戦士と魔術師の自分の二人だけ。多少の数ならば劣りはしない自信はあるが、それでも囲まれれば危うい。 「サイファ、見えるの」 叱られたことになど頓着せず、ウルフが問いかけてくる。呆れて溜息もつけずサイファは黙って前方を見やった。 「見える」 確かに人間の目には暗いだろう。極々細い明りを灯しているだけ。魔法の明りはサイファの足元だけを照らしている。それは夏の夜の虫ほどもない明りだったが、半エルフの目には煌々と照っているにも等しい。それに、サイファにはもうひとつ明りがある。こちらは決してウルフには見えない明かり。アレクと自分を繋いだ魔法の糸が発するそれだった。絹糸が光ったならばこんな明りを灯すのだろうか。頼りないほどの金の線。だがそれが二人を確実に兄弟の元へ、少なくともアレクの元へと導いている。 「そっか」 別段不思議がるでもなくウルフはうなずいた。それが反って不思議だった。素直に手を引かれているのだから、見えてはいないのだろう、とは思うがそれでいて足元が不安定と言うわけでもない。 「お前は」 「見えないよ」 あっさりと返事する。いぶかしげに視線をそちらに向けて見えないことを確認するつもりだった。が、ウルフは少しだけ口許を歪めて見せた。 「見えていないか?」 謀られたような気がしたサイファは不機嫌だ。見えているならば手を離した方がいいのかもしれない、とも思ったせいでもある。いつまでも手を繋いでいてはいざと言うときに不利ではないか、と。もう自分の足元は大丈夫だ、と。けれどなぜか、ためらいがあった。 「見えないってば」 「本当にか?」 「ほんと、ほんと」 「嘘に聞こえるのは気のせいだろうか」 今度こそ、溜息をついた。どうしてこれほどまで軽くあしらわれている気がしてならないのだろうか。たかが人間の若造ではないか。 「んー、見えないんだけどね。感じるの」 「何をだ」 「どこに石があるとか、サイファがこっち見たな、とか。そんなこと」 「……そういうものか?」 「そんなもんだよ」 実戦の勘、と言うものか、これが。ふとサイファは思い納得する。やはり武闘神官がその腕を買っただけはある。未熟未熟と言い続けても、いつの間にか大きく成長している。 「そうか」 それが少し、寂しかった。いつまでも子供のままでいてくれればいいのに、と。 「サイファ?」 はっと心づいて手の力を抜いた。知らず、彼の手を握り締めていたらしい。なんでもない、と首を振り、見えないのだと思い直してそちらを見れば、やはりと言うか感じたらしい。心配げな顔をしていた。 「なんでもない」 だから口に出した。本当になんでもない、と自分でも思いたかったのだ。 あのようなことを思うとは。サイファの動揺は去らないでいる。ウルフが子供でいてくれれば安全だからだ、そう思いたい。いつまでも幼いままでいれば、彼は自分の恋心を知ることはないだろう。そしてそのまま何も知らずある日人間に、自分の同族に恋をする。 ウルフが自覚さえしなければ、自分は決して傷つかない。これ以上は。遥かな過去、あれは恋ではなかった。それでも確かに愛してはいた。彼を失った悲しみは今もまだ胸に大きな苦痛を残している。だから。 あのようなことを思ったのだろうか。自分で自分がわからなかった。この若造に会って以来、わからないことだらけだ、不意にサイファは苦笑する。人間など、見飽きるほど知り尽くした、と思っていたはずなのに。 「サイファ、まだ変だね」 「どこがだ」 「なんとなくだよ」 「なにがだ」 「どこって言えない。俺、馬鹿だもん」 小声で笑った。サイファの気持ちを軽くするためだ、と言うのはわかっている。見え透いてさえいた。握った手に力を入れる。握り締めるのではなく、握りつぶしてやろうかと。 「いてっ」 「馬鹿なことを言うからだ」 「だってアレクだって言うじゃんか」 暗がりの中でもありありと見える。唇を尖らせた子供じみた仕種。思い煩うのが馬鹿馬鹿しくなる。子供で大人で、それがサイファの心をかき乱す。 「自分で自分を貶めるのは良くないことだ、と我が師はいつか仰った」 乱れた心がそんなことを言わせた。彼を思い出してしまったせいかもしれない。回りくどい言い方。馬鹿な若造にそれで通じただろうか。 「わかったよ」 力を抜いた手が、ゆるく握られる。気負いのない声。サイファはウルフを見なかった。見ればきっと、妙に大人びた顔をして困らせるのだと、わかっていたから。 「サイファ」 「うるさい」 「ねぇ……」 「黙れ」 言った途端、ウルフが喉の奥で笑い出す。静かにしろ、と言われたことだけは覚えているのだろう。必死でこらえているのだが押し殺した笑いが漏れていた。 「何が言いたい」 思わず聞いてしまった。片手を口許に当て、漏れる笑いを抑えている姿が薄闇に浮かび上がる。 「その方が、サイファらしいなと思ってさ」 絞り出した声は嗄れていた。抑えすぎた笑いに喉が痛いのだろう。よくぞこの状況でそこまで能天気に笑えると心の底から呆れた。いつ何に襲われてもおかしくはない。戦士と魔術師という不利極まりない二人だけで進んでいるのだ。それなのにウルフは少しも不安を感じていないようではないか。 「どういうことだ」 確かに自分は人間の魔術師など比べ物にならない技術を持っている。だがウルフはいささか買いかぶりすぎてはいやしないだろうか。その思いが発した言葉だった。 「んー。だからさ、俺のこと怒ったり殴ったりしてるほうがサイファらしいって思ったの」 だがウルフは勘違いした答えを返す。もっともその方が彼の言葉を借りるならば「ウルフらしい」だろう。 「それはどういう意味だ」 思わず言い返してしまった。気づいたときにはすでに遅く、ウルフがにんまりと笑っている。たいして見えないのをいいことに、溜息をついては肩を落とすサイファだった。 「だから、それがいつものサイファじゃん」 「私がいつもいつもお前を殴る羽目になるのはいったい誰のせいだ」 「俺のせいだけどさ」 「わかってるならば改めろ」 「ん。怒ってるサイファってらしくって好きだよ」 「いい加減にしないか」 不愉快だった。自分がこれほど暴力を振るうのは誰の責任だと言うのか。これまでの永の年月、自分が手の速いほうだとは思っても見なかった。決して言葉の技の巧みなほうでもなかったが、かといって暴力に訴えたことは一度としてなかったはずなのに。 「殴っているほうが私らしいなど、不愉快極まりない」 以前、言われた通り率直に今の気持ちを言う。きっと唇を尖らしてもいることだろう。まるでそれがウルフのようだと思っては自分で自分に呆れた。案の定、ウルフが隣で小さく笑った。 「ごめん。だから痛いってば、掴まないでよ。でね、それが今のところサイファらしいって言ってるの。俺が未熟だからね」 「どういう意味だ」 「いずれ俺だって成長するよ、人間だもん。けっこう早いと思うよ。だからそのときにはサイファだって俺を殴ったりしないと思う」 「希望的観測だな」 「いいじゃん。そうなりたいんだからさ」 あっけらかんとウルフは言った。人間とは、どこまで楽観的な生き物なのだろうか。確かにそうなる可能性はある。可能性などどこにでもあるものなのだから。 「俺はサイファに相応しくなりたい。なるよ。そのときにはサイファ、殴らないでいてくれると思う」 「相応しく、な……」 それがどういう意味なのかサイファにはわからない。きっと言っている本人にも、わかっていないのだろう。仲間として相応しくなのか、それとも。小さく唇を噛んでサイファは溜息をこらえた。唇は、ウルフが塗った薬にまだぬるついている。あの指の感触が蘇る。 「なるよ、必ず。だからもうちょっと、待ってて」 優しくさえ聞こえる囁き声。自らの意図するところもわからない幼い心。腹立たしかった。こんなものに惑わされている自分自身が。 「いつのことやら」 けれど意に反して、返した言葉は柔らかかった。まるで待ってでもいるようだ、そう聞こえたサイファ自身が揺らめくほどに。 「すぐだよ、待ってて」 握っていただけの手。指が絡まった。しっかりと組み合わされた指にウルフを感じた。乾いた戦士の手。この緊張状態にあって、汗ひとつかいていない。それを頼もしい、と感じる自分がいる。不思議と情けなさは覚えなかった。 「サイファ」 物思いに沈みそうになったサイファの耳に届く鋭い声。今の今まで冗談半分に受け答えしていたのと同じ人間だとは思えない。 あっという間に成長したものだ、と思わざるを得ない。この分では本人の言うようにそう遠くない未来、隣に立つ仲間としてならば充分に相応しくなるのだろう。それ以外のことは、今は考えたくなかった。 「聞こえている」 サイファの澄ました耳にも確かに聞こえた。ゆっくりと剣を引き抜く鞘鳴りの音。抑えたそれが襲撃を予感させた。絡めていた指を離してウルフもまた剣を抜く。耳障りな、金属の音だった。 |