手だ。ざらついた、たこのできた手。剣の鍛錬で、荒れた手。何度も触れた――手。
「そんな!」
 今、去っていった。ここになぜ彼の手が。けれど離したくなくて、力を入れた。手は、握り返してきた。
「……シリル」
 自分の手が、見えないそれに包み込まれる。励ますよう、自信を与えるよう。アレクはしっかりと目を閉じ、シリルを想う。それくらいしか、できることがなかった。シリルの体温。シリルの匂い。シリルの肌。シリルの声。シリルの。
「……!」
 アレクは笑った。幻聴かもしれない。いまここで、シリルが呼んだ気がした。振り払おうと目を開ける。
「アレク!」
 そこにシリルがいた。アレクの頬に手を当てて、唇を噛みしめて覗き込んでいる、シリルが。
「……シリル?」
「よかった、還ってきた……」
「なに、なにが……」
 シリルは去ったはずだ。ここにいるわけはない。でも今ここにシリルがいる。
「幻覚の罠」
「え……」
 では、あれは。呆然とするアレクにシリルが苦笑する。わななく唇に、自分のそれを触れさせ、シリルはもう一度しっかりアレクの目を覗き込む。
「僕は神官だからね。比較的すぐ抜け出せたけど。あんまり思い出したくない」
「あれは……」
「いい。聞かないし知りたくない。ものすごく巧妙だよ、誰が作ったにしろね。一瞬、現実じゃないかと思ったくらいだから」
「……同感だ」
「きつかったでしょ」
「ものすごく」
 言って我に返った。いま、シリルからくちづけをくれた気がする。気のせいだったのだろうか。
「どうしたの、アレク」
 かすかに笑うシリルの頬に差す赤み。それで現実だと知った。
「なんでもない」
 まだ硬い笑顔でアレクは言って、それからシリルを引き寄せくちづけた。
「兄さん!」
「……って言わないでって言ってるでしょ!」
「はいはい。怒鳴る元気が出たなら大丈夫だね」
「うん……」
「なに?」
「……ありがと」
 幻覚と同じ洞窟の硬い床。シリルが笑っている。あれよりずっと柔らかくて、アレクの目には誰より大事なシリルの笑み。幻覚の作り手も、それだけは映し損ねた。
「うーん、後が怖いなぁ」
 ちらりとシリルがアレクを見て笑う。アレクは苦笑を返し逃げ腰になったシリルを引き寄せ腕に抱く。
「今は何もしないから」
 軽い返事と溜息で、シリルは黙ってそのまま腕に抱かれた。これでいい。やはり、この方がいい。あの幻覚を見せられたことで、より決心が強まっただけ。シリルの、遊び相手でいよう、まだしばらくの間は。シリルに好きな女ができるその日までは。
「今はってのが、怖いんだよね」
 喉の奥でシリルが笑った。明るく、屈託なく。それが不安をかきたてた。あの洞窟。この洞窟。同じ、洞窟。冷たい床も、湿度の高い空気の匂いも。不意に手が震えた。
「アレク?」
 なんでもない、そう首を振る。けれど不安は去らない。どちらが幻覚なのか。それとも両方ともが幻覚なのか。
「アレク、大丈夫」
「……なにが」
「こっちが現実。疑ってない?」
「……うん」
 シリルはアレクの疑念を晴らすよう笑う。しかし気持ちは傾くばかり。思えば先ほどシリルは自らくちづけをしてきた。そんなわけがあろうはずがない。
「アレク」
「……わからない」
「アレク、大丈夫だってば」
「でも」
 言い募る言葉が震える。幸福と不幸と。幻覚ならばどちらもつらい。現実であっても、また。
「ねぇ、アレク。幻覚の破り方って知ってる?」
「知らない」
「教えてあげる」
 腕の中からシリルが見上げる。あまり人には見せない、悪戯をするような目。子供の頃からアレクにだけ見せてきた、シリルの。だから、信じる気になった。それまでもが幻覚だというならば、もう自分にはどうする術もなかったから。うなずいたアレクにシリルが言う。
「強く信じるんだよ、幻覚だってね。それで魔法は破れる」
「それ……だけ?」
 あまりの簡単さに呆気にとられた。たったそれだけのことでとは信じがたい。
「そんなもんだよ、魔法なんてね。人の心の強さにはどんな魔法もかなわない」
 外から衝撃を与える方法もあるけどね、そうシリルは笑った。確かに先ほどはそうやって救ってくれた。アレクは言葉を返さず。黙って目を閉じる。集中して強く念じる。
 幻覚に違いない。間違いなくこれは幸福な幻なのだ、と。去って行ったシリルも幻ならばこれも同じ。目を開けたときには別の、弟のシリルがそこいる。深く呼吸をした。
 この、幸せの中、果ててもそれはそれでいいかもしれない。ふと思った。けれど、きっと弟はいつか自分を必要とするだろう。そうでなくとも、いまここで死んだならば、弟は自分を救えなかったことに激しい後悔をする。定めし者を守れなかった武闘神官などと言う汚名を着せてはならない。
 ゆっくりと息を吐く。決心して目を開けた。
「ほら、現実でしょ?」
 微笑むシリルかそこにいた。
「あ……」
 ではこれは間違いなく現実なのか。あのくちづけさえも。信じがたい思いに駆られて目をみはる。
「アレク……!」
 驚くシリルの声に我に返った。シリルが腕を抜け出して、今度は逆に彼が自分を腕に抱く。なだめるよう背をさする腕。
「アレク、アレク……」
 うろたえる声。なにをそんなに慌てているのか、わからない。
 頬に当てられた掌が温かい。促すままに上を向く。シリルの目がそこにあるのになぜかぼやけた。目を瞬けは、流れた熱い物。
「あ」
 慌てて拭おうと上げた手はシリルに制され動かない。少し照れた顔をしたシリル。唇が降りてきた。目許に、頬に。
「シリル……」
 あまりのことにただ名を呼ぶことしか出来なかった。シリルがこの情けない涙を拭ってくれている。また幻覚なのではないか、そんな思いがよぎってならない。
「あのね、アレク」
 呆れきって不機嫌なシリルの声。子供の頃から変わらない、シリルの照れ隠しの声だった。突然にこみ上げてきた笑い。腕の中、アレクは泣き笑いでいったいどれほど酷い顔をしていることかと思えば、さらに笑えて仕方なかった。
「そんなに笑わないの」
「だって」
「まぁ、いいけどさ」
「それで、なにを言いかけたのよ」
 シリルに不安を抱かせたくない。もう自分は大丈夫だと言いたい。けれどどうしても素直にそれが言えなかった。だからアレクは女になる。いつの頃からか、シリルは女のアレクに慣れてしまっている。これが普通のアレク、だと思っている。だからアレクは女になる。うつむいた陰、唇を噛みながら。
「ん……」
「なによ、はっきり言いなさいよ、男の子でしょ」
 茶化した口調。心ざわめいたなど、もう感じさせないように。たとえ幻覚の中であったとしても、二度とシリルに思いを告げなどしない。
 いまここに、温かいシリルの胸があるだけで、充分。柔らかく抱く腕があるだけで幸せ。失うくらいなら、いっそ遊びでいい。それすらも不安ならば、兄でいい。仲のいい兄弟で、充分。いまだけ。あとどれくらいあるのかわからない時間、シリルの遊び相手でいい。ほんの束の間の、若気の過ち。人に語ることのできない、若さゆえの遊びでいい。自分に残るのは思い出だけ。
 シリルと語り合うことのない思い出だけで生きて行かれる。きっと。たとえそのあとの生涯が、苦くとも。
「ほら、さっさと言いなさいよ」
 もう涙の痕跡もうかがわせない顔をしてアレクは笑う。艶然と。シリルが困ったように目をそらした。いつものこと。だから心の奥でも溜息など、つかない。
「アレクはさ、誤解してるんだよね」
「なにをよ」
「だからさ、僕は僕なりにアレクが大事だって、いつも言ってるでしょ」
 その僕なり、と言う奴が厄介なのだとアレクは笑顔の向こうで泣きたくなる。シリルの大事は兄としての大事。兄弟を慈しんでいる、ただそれだけ。アレクの思いとは違いが大きすぎる。
「わかってるわよ?」
 それくらいはね。小声で続けて今だけ、とシリルの胸に顔を埋めた。また、泣きたくなるじゃないか。内心に呟いて。
「ほんとにわかってる?」
 耳許で聞こえるシリルの声。あの小さかったシリルが、いつのまにこんなにたくましい腕を持つようになったのだろう。金属鎧の冷たさも気にならない。頬に当たる鎖のざらつきが、自分の体温で温まっていく。それがシリルに伝わればいい、そんなことを思う。
「わかってるってばー」
 思いを悟られないように。場違いなほどの明るい声をしてアレクは言った。
「絶対わかって――」
 それがなにを意図して言った言葉なのか、アレクは知りようがなかった。シリルは言葉を止め顔を振り上げる。背中を抱いていた手が離れ剣の柄を握った。一瞬にして硬く引き締まった顔、体。
「なにか、来る……」
 アレクも黙ってうなずいてシリルから離れる。確かに足音が聞こえていた。かすかな、けれど確実に近づいてくる音。まっすぐに、ためらいもなく。
 兄弟は顔を見合わせ、隣り合って剣を抜く。ウルフもサイファもいない。頼れるのは互いの剣だけ。
「前もこんなことあったよね」
 遥か昔の思い出にシリルが強張って笑う。
「懐かしいな」
 まだ幼い腕をしていた二人。あの時も生き残った。今回だとて生き残って見せる。剣を握る手に、わずかに汗が滲んだ。




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