首筋に、ウルフの指がある。指がいつの間にか掌になった。温かい手が首に触れている。肌に、触れている。そう気づいたとき、咄嗟にウルフを突き飛ばしたくなった。幻覚など比べ物にならない動揺だった。
 サイファはそれに微笑った。どこにいるか知らないが、敵もまさか本人の方がずっと深い動揺を与えるとは思っても見なかったことだろう。
 そのことにどこかしら満足を覚え、サイファは目を閉じる。まずは回復しなければ話にならない。敵を追い詰めるのも兄弟を探すのも、それからだ。
「サイファ」
「黙れ」
「うん」
 同じような満足の響きが返ってくるのがいぶかしい。当面、それは棚上げすることに決めサイファは深い呼吸を繰り返す。ウルフの温かい手を感じながら。撫でる、と言うより愛撫する手つきだけが気に入らないが、今は抗議する気力が惜しい。
 少しずつ、知覚が正常に戻ってくる。今まで感じ取れなかったウルフの腕。自分の体を抱き寄せている腕のぬくもり。内心でなぜこんなものを感じる必要があるのかと溜息をつく。冷たいウルフの鎖鎧。肌を傷つけないよう、革の鎧下を着ているせいで体温が外に伝わってこない。だから、頬に鎧が冷たかった。かすかに身じろいだのが伝わりでもしたのか。
「サイファ」
 わずかに笑いを含んだ声が名を呼ぶ。それからウルフの顎先が、そして頬もがサイファの頬に触れ合わさった。
「な……」
「いいから。じっとしてて。あったかいでしょ?」
 それ以上の意図はない、と口は言っている。本人もきっとそのつもりだろう。だがこの若造は自分の考えていることを自覚していないと言う悪い癖がある。どこまで信じられたものだかわかったものではない。
 けれど、ウルフは温かかった。不本意ながら、震えていた体が元に戻っていくのを感じている。
「サイファ」
 耳許で囁く声。一瞬、幻覚の中、女を呼んだ声に聞こえた。何も思う必要はないというのに、腹立たしくてならない。軽く噛んだ唇が痛かった。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「でも」
「なんでもない、と言っている」
 悟られたくなかった。自分でもわけのわからない苛立ちをこんな人間の若造に知られるなど、決して許せはしない。
 触れ合った頬が、かすかに震える。剣が伝えてくる、悲しみを。拒絶したのではない、と言って理解できるだろうか。無理だとサイファは知っている。だから不本意ながら若造の背に腕を回した。
「サイファ」
 途端に声に歓喜が混ざる。まったく人間はどこまで即物的な生き物なのか。腹立ちまぎれ、ウルフの背を叩いた。頭上で笑いの気配。今は好きなだけ笑わせておけばいい。目を閉じて、静かな呼吸を繰り返す。体を精気が駆け巡る。血の流れまで聞こえそうなほどに。
 自分の血の流れに耳を澄ます。規則正しく脈打つ鼓動。幻覚の中で傷ついた肩の怪我が癒えていく。不意にウルフの指が顎にかかった。
「なにをする」
 不機嫌も露なサイファの声だった。集中が途切れれば、それだけ回復も遅くなる。ウルフはかまうことなく指先で顎を持ち上げて、サイファを間近から見つめた。薄い明りの中、ウルフの茶色の目を真正面から見てしまった。あまりに近すぎて、だからそのせいで、頬が火照る思いがする。
「離せ」
「サイファ。唇、切れてる」
「すぐに治る」
「いいから」
 だいたい声などかけられなければ、今にも治ったはずなのだ。余計なことはしないでもらいたい、と言う手間もかけずサイファは睨みつける。
「こんなものは舐めておけば治る」
 理由など、説明しても無駄なのだ。理解できないのだから、それならば人間なりのやり方で拒む以外に方法はない。けれど、ウルフは笑った。唇だけで笑いを作り、それから眼前のサイファに目を細めて言う。
「……舐めてあげようか」
 言葉がなかった。唇を開け閉めし、殴りかかろうと腕を上げかけ、下ろし、魔法を紡ごうと集中しかけたところで制御を失い兼ねないことに気づいてやめる。気づかなかったら、本当にウルフは消し飛んでいたかもしれない。
「消し炭に変える? 風穴? 派手に火柱と行く? まぁ、言いたいことはわかってるからさ、とりあえず黙ってて。キスしていいならいくらでも暴れてくれてかまわないけど」
 サイファはその言葉に動きを止めた。完全に。微動だにせずウルフのしたいままにさせる。
「そこまで嫌がらなくってもいいでしょ」
 溜息をつきながらウルフが薬を取って唇に塗っていく。前にも同じようなことがあった気がしてならない。あのときからウルフは少しも成長していないのではないだろうか。否。成長はしている。あの時は自分を脅すようなまねはしなかったはずだ。どうやらやはりアレクの悪影響だろう。
「サイファ。目、閉じて。照れるから」
 それはこちらの台詞だ、と思いつつもサイファは素直に目を閉じる。呆然として閉じるのを忘れていただけだったから。戦士の荒れた指が唇に触れるのがくすぐったい。ただ噛み破っただけなのだから、すぐに治るものを。
「な……っ」
 唇に、かすかに柔らかい物が触れた気がした。咄嗟に目を開け、突き飛ばしそうになる。
「どうかした?」
「いま、何をした」
 知らず声に恫喝が混ざる。ウルフの片手を掴み、返答いかんでは本当に魔法の一撃くらいは叩き込まねば気が済みそうにない。
「なにって。薬、薬だってば」
「本当にか」
「もちろん!」
「……それが信用し難いのは、なぜだろうな」
 思い切り溜息をついて見せ、下から恨めしげに見上げた。ウルフが笑っている。精一杯こらえてはいるものの、口の端が震えている。
「キスされたと思った?」
「そこまで愚かだとは思いたくない」
「そうそう。そんな馬鹿じゃないよ。俺だって命は惜しい。指荒れてるからさ、痛いかと思って」
 そう言ってウルフは小指を立てて見せた。確かにそれは他の指に比べれば荒れ方が少ない。サイファは手を取り、まじまじと見る。嘘偽りなく、まだ薬がついていた。
「信用する?」
「今回は」
 ほっと息をつく。不埒な振る舞いだけはしなかったようだ。
「よかった」
 あからさまなウルフの口調に、サイファは彼の腕の中からにやりと笑う。
「してもよかった」
「え、ほんとに!」
「そうしたら今度こそ綺麗さっぱり、灰も残らないよう燃やしてくれる」
「……慎みます」
「生きていたかったらな」
 喉の奥で笑った。恋の自覚もない男に何かをされるなど、冗談ではない。自分の感情をきちんと理解してからならば。
「サイファ?」
 思わず激しく首を振って思考を振り払ったサイファをウルフが呼んでいた。
 いったいなにを考えているのか、自分で自分が恐ろしい。サイファは薬を塗られたばかりの唇を噛み、ぬめるそれを不快に思いながら考えをまとめる。
 そうか、自覚してからならば心行くまで殴れる、と言うもの。魔法の一つ二つ叩き込んでもいいし、再起不能なまでに痛めつけられても文句は言えまい。だからさっさと自覚してほしい、とそう考えたに違いない。他に理由など、ない。
「何でも……」
 言いかけたサイファの言葉が止まる。視線の先はウルフの鎧。編み上げた金属の鎧が、自分の頬の熱で温まっていた。その鎖に絡みつく一筋の糸。
「これは、なんだ?」
 自分で意図したよりも低い声が我ながらいぶかしい。
「ん、なに?」
 サイファが摘み上げたのは一本の髪。それは金色をしていた。
「アレクの髪?」
「そのようだな」
「サイファ、もしかして焼きもち妬いてる?」
「誰がだ!」
「サイファが」
「ふざけるのも大概にするがいい。殴られたいか」
「……痛っ。殴ってるって」
 呆れたようなウルフの声に正気に返った。確かに手が痛い。気づかないうちに思い切りウルフの頬を叩いていたらしい。平手だったのは最後の理性か。
「まぁ、いいや。そのほうがサイファらしいしね」
「どういう意味だ」
「そのまんま。ちょっと元気になったでしょ。なに見せられたか知らないけど、あんまり元気なかったからさ」
「そんなことはない」
「あるの。俺はそう見えたの」
 だからからかったというのか。自分が奮い立つような言動を繰り返すことで元に戻そうとしていたとでも。苦笑いをするウルフは明言こそしなかっけれど、その顔はそう言っていた。
「もういい」
 サイファはウルフの鎧からアレクの髪を引きちぎり、指先に巻きつける。一言呪文を唱えて燃やし尽くした。
「サイファってば意外と過激。そんなに妬かなくっても俺は……」
「死にたいか、若造?」
「えー、と。まだ生きてたいなぁ」
「だったら黙ってついてこい」
「ん、どこに?」
 サイファは立ち上がる。腕を失った体が寒さに震えた。まだ少しばかり足元がふらつく。
「アレクとの間に魔法的な糸が繋がっている。すぐに見つけられるだろう。急げ、長持ちはしない」
「了解」
 ごく自然に、腕が取られた。なにをするかと問い詰める暇もなくウルフが視線を向けてくる。
「まだ足元、危ないんでしょ。それくらいの役には立つよ」
 サイファは答えず。けれど振り払うこともせず闇の中、歩き出す。ウルフが密かに笑い隣を進む。片腕だけが、温かかった。




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