柔らかな青草の茂る丘の下に立っていた。甘い風が木々の葉をそよがせている。丘に登る道の上、サイファはこれが幻覚だと承知していた。 「なにを見せるつもりか」 呟いて目を上げる。見せたい、と言うならば見てやろう、そんなに気になっている。おおよそ見て楽しいものではないはずだ。見覚えはないものの、きっと自分の若かりしころの思い出。師と過ごした日の一場面。人間の世ではすでに伝説に過ぎなくなっている魔術師リィ。いまもまざまざと思い出すことができる、痛みを伴いながら。幸福とは失ってはじめて気づくもの。あの日々だけが、サイファにとっての幸せだった。 だからサイファは笑って丘を見上げる。誰か知らないが、お前の見せたいものなど偽りにすぎない、と。 不意に低い歌声。目を転じれば丘の上に人の姿。サイファは咄嗟に姿を隠した。それが魔術師リィとは似ても似つかない者だったからかもしれない。隠れたまま眉を顰める。 背の高い男。まだ若い。そして明らかに人間だった。光の加減か、顔は見えない。燃えるよう、髪が輝いていた。 「父さん、待って!」 男の後ろから、少年が一人駆けてくる。男が振り返ったのと、少年が飛びつくのが同時だった。その時になってようやく顔貌がわかる。二人ともよく似た色合いの赤毛だった。 「……ウルフ」 呆然と、サイファは呟く。その間にもまだ人影が増え続ける。少年よりも幼い娘が一人、そして若い女が一人。ウルフの息子と娘。そして、妻。 「あなた」 微笑った女の手から荷物を奪い、ウルフが笑みを返す。少年はとっくに肩車をしてもらっては得意げに辺りを睥睨していた。その下で娘が泣いている、自分も抱き上げてくれ、と。ウルフは片手で少女を抱き上げ、残る片手に荷物を持つ。その手に女が腕を絡ませる。 「温かい腕ね」 こちらからは見えない。が、女の顔が微笑んでいるくらいサイファにもわかる。あの腕は、確かに温かい腕なのだから。何度も抱きしめられた腕。 サイファは首を振る。幻覚だとわかっている。わかっていてもなお、この胸に迫る痛み。知らず口許を覆っていた。 家族が、丘を降りてくる。サイファの姿は見られることはない。丘を降りきったすぐそこで、家族は荷物を広げ始めた。中には昼食だろうか、つつましい食事だったが、女の家族を思う気持ちにあふれた料理の数々。子供たちが先を争って食べている。ウルフがそれに負けずに食べている。女は笑ってそれを見ていた。 気づけば自分の腕で体を抱いていた。歯の根が合わない。抱いているのに、なぜこれほど寒いのだろう。目の前では日の光を浴びた家族が楽しげに食事をしていると言うのに。 「あなたったら」 笑いを含んだ非難の声で女が指を伸ばす、ウルフの口許に。それからパン屑を払った。 「子供みたいね」 「ありがと」 「どういたしまして」 聞き覚えのあるウルフの声。けれど語っている相手は見知らぬ女。自分に向けられていた笑みが、違う女に向けられている。 いつか来るはずの、未来だとでも言うつもりか。幻覚などではなく、未来視だと。覚悟はしている。人間同士、いずれウルフは群れの元に戻る。半エルフの自分などではなく。 この女がウルフの愛を勝ち得たのか。それははっとするほどの憎悪だった。自分の手で胸倉を掴んだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。これほど動揺する義理も理由もどこにもない。 何もないはずなのに、どうしてこれほど痛いのか。無意識のうちに師の面影を呼び覚ます。いつも瞼の裏から去らない師の姿がいまはなぜか、浮かばなかった。 「父さん、遊んできていい?」 「いいよ、気をつけて」 ウルフの言葉も待たずに少年が飛び出す。 「お兄ちゃん、待って」 「早くおいで」 兄の後を追って少女もまた走り出す。どこにでもある平凡で幸福な人間の家族。いまや二人きりになった若い夫婦はどちらからともなく寄り添って体に手を回す。 ウルフが女の髪を指で梳く。長くもない髪だ。自分のほうがずっと。そう思った途端、サイファは唇を噛みしめる。ウルフが女の髪を愛撫するよう、撫でている。自分には、あんな風にしたことはない。唇から、血が滲む。抱き寄せた頭がウルフの肩に預けられる。若い夫婦がくちづけをかわしている。ついに唇を噛み破った。口中、血の味がする。 抑えきれない叫び声を、この幻覚だか未来視だかを紡いだ存在にだけは決して聞かせまいとサイファは唇を噛む。己の体を抱いた手指が肩に食い込む。爪を立てた。ローブ越し、肌に傷がつくのを感じる。鈍い痛み。けれど胸に痛みのほうがずっと、つらい。こんな体の傷の一つや二つ、痛みのうちになど入りはしない。 「こんなに幸せだったことってないな」 ウルフが女に言っている。では、自分は。自問してなんと愚かな問いかと思う。ウルフと自分は仲間以上の何者でもない。愛情を注がれてはいるが応えるつもりなど少しもない。嫉妬をする理由も、泣き叫びたい訳も、どこにもない。 何もないはずなのに。 胸の痛みが増していく。ウルフの笑顔を見ているうち、喉が詰まりそうになる。震える唇を無理に開いて息をした。大気は血の匂いがした。 「あなた」 うっとりと女がウルフを見上げている。視界が暗くなる。体が重たい。膝をついた。二度と、立ち上がれないような気がする。 サイファは再び肩に爪を立てる。きつく、前の傷をえぐった。一瞬、正気の瞬間が訪れた。残りの力を振り絞って息をする。天を仰いで目を閉じた。 鋭い息を吐き出したとき、叫び声が聞こえた。 「サイファ!」 崩れ落ちる体を抱き留められる。温かい、腕。 「こっちへ」 湿った洞窟の中だった。幻覚は破られた。荒い呼吸を繰り返し、サイファは動揺を鎮めることに専念する。 「サイファ」 懸念の声。今は答える気にならない。腰を下ろしたウルフの腕の中、抱きしめられている。よく知るウルフの腕。知りたくなどなかった。知るつもりはなかった。これ以上知る気など、毛頭ない。 幻覚の中でしていたよう、ウルフが髪を撫でている。違う。サイファは苦く笑う。あれは愛撫の手つきだった。自分にするそれとはまったく違う。 「離せ」 自分で思ったより、ずっと弱々しい声だった。予想よりもあの幻覚の作り手は技能に長けているらしい。衝撃が、今もまだ去らない。一度ならず二度までも半エルフたる自分を幻覚の罠にかけるとは。二度目は半ば自分から飛び込んだも同然とは言え、あれほど真に迫った幻覚だと知っていたならば危険を冒すことはなかったかもしれない。 「……許さない」 これほどの憎悪を感じたのはいつ以来だろうか。もしかしたら初めてかもしれない。覚悟の上の事を見せられたことよりも、罠にかかった自分が許せない。自分の前に姿を現したが最後、敵に明日はない。 「お師匠様の夢だった?」 声に心づいてサイファは体を起こしかける。まだウルフの腕に抱かれているのを失念していた。 「だめ」 たった一言でサイファの抵抗を封じ、もう一度抱きなおす。まだ体調が整っていない。そう理由を見つけてサイファは抗うのをやめた。 「なぜ、そう思う」 「俺も見たくない昔のこと見せられたからさ」 昔のこと。サイファは嗤った。どうやら敵はそれぞれの心の傷口を見出すのを得意としているらしい。決して許しはしない、誓いも新たにサイファは己の手を握り込む。 「だから、お師匠さまの最期だったのかな、と思って」 今の自分にとっては、どうやら師よりも若造の馬鹿さ加減が気にかかるらしい。思い悩んでも仕方ない遥か昔に死んだ人間と、今なお馬鹿をさらす人間と。どちらにしても面倒なことに変わりはない。サイファはひそかに溜息をついた。 「ごめん。答えなくていいよ。俺も聞かれるとちょっと、困る」 「聞く気はない」 「そっか」 幻覚の中で聞いたより、耳に慣れた声は柔らかい。今ならば言える。あれは間違いなく幻覚だった。決して未来視などではない。動揺を誘ったのは成功しはした。が、サイファ自身、なぜ動揺したのかが理解できない。 「離せ」 「まだだめだって」 「もう大丈夫だ」 「だめ」 埒が明かない。無理に離れようとした体は抱きすくめられて動かない。 「兄弟は……」 「まだ見つかんない。サイファが少し元気になったらね」 今ここにアレクがいないと聞いてほっとした。こんな醜態など見せられたものではない。諦めて目を閉じる。回復すること。ただそれに努める。 ウルフの指が髪を撫でる。苦かった。せっかくの集中が乱される。 「よせ」 聞く耳持たず、ウルフが髪を梳いている。突然、目を見開いて体をすくめた。明らかに違う、今までとは。あの幻覚の中、女にしていたような手つき。一瞬、まだ幻覚を破れていないのでないかと疑う。が、半エルフをそこまで惑わせられるはずもない。まぎれもない、現実。 「やめろ」 言葉が、返ってこない。頭上で少し、若造が笑った気がした。髪の中に指が入り込む。ぞくりとする。嫌悪ではない。目を閉じてしまいそうになる。あの幸福だった日のように。馬鹿馬鹿しい。単なる錯覚に過ぎない。髪の中に差し込まれた指が、サイファを愛しむようゆっくり滑っている。滑った指先が、首筋へ。 「いい加減にやめろ」 「だめだって。まだ……震えてる。もう少し、ね」 「震えてなどいない」 「はいはい」 生返事に、ウルフの意図がどこにあるかわからなくなった。震えてもいない、はずだ。視線を落とす。自分の指は細かく震えていた。 |