歩き始めて何時間にもならないうち、一行の足が止まった。
「なによ、これ」
 アレクが呆然と声を上げる。
「これは驚いたね」
「シリル、これってなに?」
「なにって言われてもねぇ」
「坊やにはちょっと難しいかなぁって感じ?」
「アレク! 俺にだって、これが洞窟だってことくらいはわかってるって」
「だったらなにが聞きたいのよ?」
「なんでこんな急にあるのかなって」
「それがわかったら苦労はしないわ」
「……もっともだね。ウルフ、ちょっと調べてみる?」
「止めておけ」
「え、なぜですか。サイファ?」
 一行は洞窟の前に立っていた。唐突に終わった草原だったが、洞窟はさらに突如として始まっている。草原の切れたその場所からいきなり聳え立つ崖があり、洞窟があるなどと言うのは明らかにおかしい。自然の法則というものを馬鹿にしている。
「迂回した方がいいだろう。できるならば」
「アタシも賛成。なんか変だもの」
 サイファの言葉は半ば疑ったシリルだったが、アレクのそれには一も二もなく従い、シリルはうなずき崖の左手の道をとることに決めた。
 急ぎもせずかと言ってゆっくりでもなく歩いていく。すでに一行の速度と言うものは決まっている。これが最も効率のよい進み方だった。
「おかしいわ」
 それから二時間、歩いたときのことだった。アレクが足を止めて周りを見渡す。
「ちょっといい?」
 言って振り返り、少しばかり戻る。姿が消え、程なく戻ったアレクは悔しそうな表情を浮かべていた。
「サイファ、来て」
「なんだ」
「いいから」
 サイファだけを呼んだアレクだったが、結局一行はすべてアレクに従った。戻る、と言うほどでもない。曲がりくねった迂回路をほんの少し、みすぼらしい木立の陰になって見えなくなった元の道の曲がり目を戻ったあたりで景色が一変した。
「そんな馬鹿な!」
「シリル?」
「ごめん、アレク。信じられないよ……」
 珍しく大声を上げたシリルをなだめるよう、アレクが背中を叩いている。アレクとても気持ちは同じらしい。
「サイファ、これって……」
 目を丸くしてウルフが見ている。自然と片手が剣の柄にかかっていた。
「どうやら惑わされたらしいな」
 サイファの目にも同じものが映っている。もう何時間も後にしてきたはずの洞窟だった。前に見たときとまったく変わっていない。それ以前に、つい先程通ったときには、この洞窟はここにはなかった。それを一行の全員が知っている。それにもかかわらず、洞窟はここにある。
「入れってことよね」
 アレクが笑った。不敵に。跳ね上がる短い金髪をかきあげ、そして結んだ長い編み髪を揺らしてサイファを振り返る。
「でしょ?」
「そうらしいな」
「乗り気じゃないみたいね?」
「気分のいいものではなさそうなのでな」
「ま、そりゃそうよね」
 アレクは言って肩をすくめたが、彼にはサイファの気分の悪さは理解できないだろう。半エルフは人間より大抵のことに耐性がある。幻覚もそのうちだ。人間ならばいざ知らず、半エルフの自分を惑わすとは、とサイファは不安になる。それはこの先に待ち受けるものの力の強さを指し示すものに他ならない。
「だが、入らなければ進めないらしい」
「そのようですね」
「大丈夫、俺が……」
「それ以上言ったら、入る前に黒焦げにしてやる」
 ウルフが笑うより先に、アレクが笑った。この男にも緊張感と言うものが欠けているのか、とサイファは横目で見る。しかしそれで知った。避けられないものならば、進むしかない、妙な緊張感は必要ないどころか危険なもの、アレクはそれを知り一行の緊張を解こうとしているようだった。サイファはほっと息をつく。どうも楽天的になっていけない、と内心で苦笑しながらも、この仲間とならば大丈夫だろうと言う根拠のない自信が湧いてくるのも感じていた。
「行こうか」
 シリルの促しに全員でうなずき、足を進める。洞窟の中は暗かった。アレクがシリルの横で松明を掲げ、後ろではサイファが魔法の明りを灯している。日光と言うわけには行かないが、足元くらいならば充分だった。強い湿気がまとわりつくよう肌を濡らす。実際に濡れそぼつわけではないが、そのような気がするほど湿っていた。一行の足音が妙な具合に反響する。
「暗いね」
「当たり前だ」
 ウルフの不安が刺さるようだった。前の兄弟も、軽口ひとつ叩かない。時折、水溜りに踏み込んでしまっては舌打ちする音が響くばかり。洞窟はまっすぐで、警戒の必要などないように思える。分岐もしていなければ曲がってもいない。ただ直進すれば崖の向こうに出られると主張してでもいるようだった。あからさますぎて信用するわけにはいかない。
 兄弟がまたひとつ、水溜りを踏み越えた。その時、姿がかすむ。気配を察知したシリルが振り返った。
「サイファ!」
 けれどすでにサイファとウルフの姿はそこになかった。
「分断されたね」
 シリルがアレクを振り返る。薄闇の中でもアレクは青ざめて見えた。

「どうなさった」
 声に、閉じていた目を開ける。強い日差しが肌を焼いていた。何かおかしい、と思うのだがウルフには何がおかしいのかわからない。大切なことを忘れているのはわかるけれど、何が大切なのかもわからない。もどかしくてならなかった。
「――よ、どうなさった」
 呼びかけに、びくりとする。もう聞くこともないと思っていた。
「別に」
「気分でも……」
「大丈夫」
 首を振って言葉を封じた。わずらわしかった。目を転じれば、一段低くなった場所に何者かが蠢いている。
「――のために集まりましたぞ」
 低く、ではない。こちらが高いのか、とウルフは苦笑した。蠢いているのは人間だった。鎧をまとい、きらきらと槍の穂が光を反射する。傍らの男が手を上げた。それを目にしたのだろう、わっと歓声が上がる。吐き気がした。
「嫌だ……」
 足が萎えそうになる。このまま後ろを向いて逃げたい。
「なにをいまさら」
 嘲笑だろうか。影になった男の顔は見えない。口許だけが歪んで見えた。
 また、歓声が上がる。掲げた槍がぎらぎら光る。槍の柄を盾に打ち付けているのだろう。激しい音がここまで聞こえる。
「嫌だ、俺は」
 一歩、下がった。
「いまさら、なにを仰るか」
 腕を引かれた。痛かった。
「だって」
 もぎ離した腕。手首がうっすらと赤く色づいている。それほどの力で掴まれたのかと思えば愕然とする。逃げられないのか、と。
「――よ。これが務めだ、あなたの」
 再び取られた腕。無理やり掲げられた。今までで一番大きな歓声。蠢く人間が、死にに行こうと喜んでいる。そして殺すのは自分だ。吐き気が強くなる。
「離せ」
 振りほどく気力が萎えかかる。まだそこで動いていると言うのに、ウルフの目には血に染まった死体の群れが見えるようだった。
 歓声は断末魔に、勇気の証に掲げた槍は折れ、救いを求める。赤く染まった空に、大地に烏が舞う。降りる。死体を啄ばんだ。
 ウルフは膝をつく。知らず吐いていた。込み上げるものを抑えきれない。襟首を掴まれる。乱暴に口許を拭われた。
「立ちなさい」
 腕を掴んで引きずり上げられ、また群れを見下ろさせられる。槍は輝いていた。白昼夢だと言うのか。それにしては妙に現実的な夢だった。血の匂いまで、した。ウルフは苦く笑う。白昼夢だと言うのならば、きっと予言の類に違いない。自分と彼らがいずれああなると言う。
「――よ」
「うるさい」
「――」
「嫌だ。行きたくない」
 持たれた手を振り払う。その仕種が誰かに似ている、ふと思っては微笑った。誰か。誰だろう。忘れるはずのない相手だと言う気がするのに。
「なにをいまさら。行くんです、あなたが」
 執拗に追いかけてくる手を払い続ける。ウルフの顔には真実の嫌悪が浮かんでいる。
 こんな嫌な思いをさせていたのか、いや、そんなに嫌がっていたとは思えない。でも、誰が。
「行くんですよ」
 掴まれた手。冷たい手だった。ぬくもりも何もない。生きているはずなのに、優しさのかけらもない手。だから、ずっと嫌いだった。それなのにこの男は自分に嫌われているなど思ってもいない。
 ウルフとて信用はしている。自分の側にいて、最も信用できる男だと思ってはいる。自分のためを思い行動する男。それが嫌でたまらなかった。
「行って、死ぬんですよ」
 今はどうなのだろう。もしかしたら嫌われているのを知っていたのか。だから、死んで来いと言うのか。
「嫌……」
 ウルフの声から気力が抜けていく。抗う気を失いつつある。死ぬしかないのか。自分ひとりではなく、大勢を道連れにして。あるいはそれで生き残る。他人の血を糧にして。目の前が暗くなった。
 ずきり、痛みが走る。左の二の腕。掴まれたかと思った。しかし見ればなにもない。誰も掴んでいなかったし何もついていない。けれどまるで二の腕に何かが嵌っているように、ぐるりと痛む。
「痛っ」
 締め上げられた。手で押さえた。何もないはずなのに、そこだけが温かい。まるで誰かのぬくもりのよう。誰かとは、誰だったか。痛みを紛らわすよう、ウルフは記憶を探り続ける。
「――よ、行きますぞ」
 呼び名の違和感。自分はそんな名ではない。腕の痛み、そして呼び名。がくり、膝をついた。
「サイファ!」
 叫んだつもりだった。けれど絞り出たのは掠れ声。それでも幻影は煙が解けるよう、薄れて消えた。荒い息をつく。ここはやはり、洞窟の中だった。足元に、吐瀉物があった。
「これは本物ってわけか」
 苦笑いをして、水袋の水で口の中をすすぐ。腕の痛みは薄れていた。
「早くも活躍?」
 軽く手を当ててサイファとその師匠に感謝を。やはり、まだ少しぬくもりがある気がした。
「そうだ、サイファ! それと、みんな!」
 はっとして、ウルフは周囲を見渡す。暗かった。明りひとつない。忌々しげに舌打ちをして、ウルフは火をつけ始めた。焦る気持ちが手を震わせ、何度も火打石で指を打ちながら。




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