壁の向こうで気配が動く。なにも聞こえない、とは言ったが、意識さえ凝らせば自分で作った結界の中である。サイファにはあちら側の動向を探ることなど児戯に等しい。 が、そのような手間をかけるまでもない。合図の気配だった。それがどちらのものであるか知ってサイファは薄く笑った。軽く手を振りかけ、止まる。改めて口の中で言葉を紡ぎ、壁を消した。 「よかった、ちゃんと合図ができたか不安でした」 反対側、シリルがほっと息をついている。そして笑う。 「なにがおかしい」 「おかしいと、思わないんですか」 「思わないように努力している所だ」 その言葉にシリルが声を抑えて口許を覆う。二人は実に似た格好をしていた。膝の上にはアレクとウルフがそれぞれ眠り、その体にかけた腕はやはり、眠ったままの相手が捉えて離さない。そして眠る体にまといつくのは魔法の気配。 「あなたもですか?」 それを見て取ったシリルが尋ねるのに、サイファは黙ってうなずいた。それをどう取ったかは知れない。サイファは思い出すだけでも頭が割れそうになるのをそっとうつむくことで隠した。 あのままウルフを起こしておいたならば、なにがどうなっていたかサイファにも予測がつかなかった。本当に人間と言うものはどれほど知っても不思議な行動を取る。まずあれほどの恋心を本人が自覚していない、などと言うことがまったく理解できない。そして自覚しないままにする行為がさらに不可解をあおる。わずかに、あのまま放っておいたならば若造はどうやって事態を収めるつもりだったのか知りたい、と言う気がしなくもないのだが、収める気などまったくなく成り行きのままに押し倒されるというおぞましいことが起きないとも限らないのでサイファは魔法を放っては眠らせたのだった。ふと心づいてはおかしくなる。 「お前も、とは思わなかった」 言って微笑う。シリルが抵抗するだろうことは予測済みだがまさか魔法を使ってまで眠らせるとは思いもよらぬこと。 「アレクは疲れているんですよ」 「それで?」 「気が立っている、と言うか。こういうときのアレクは危なくて」 これ見よがしの溜息をついてみせ、いたずら半分に兄の頭を拳で叩く。魔法の眠りは深い。神聖魔法も真言葉魔法も同じこと。術者が解くまで目覚めることはない。だからこそできたことだろう。そう思えばやはり、笑みが浮かぶ。 「サイファ。笑うことはないでしょう」 「すまない」 「……半ば合意とは言え、兄に強姦まがいのことをされる僕の身にもなってください」 「合意ならば問題がないと思うのは私だけだろうか」 「サイファ!」 冗談だったのだが、意外にシリルは声を荒らげた。拳を振り上げて殴りかかる真似事をする。もっとも距離があるので手が届くことはなかったが。 「まったく。アレクと同じことを言うとは思いもしませんでしたよ」 「……実に愚かだった。謝罪する」 「どーしてそこに反応するんですか!」 今度はシリルも笑った。そして気づく。シリルはあのアレクの弟だったのだ、といまさらながらに気づいた。間違いなく、わざとこちらの神経を逆撫でするようなことを言ったのだ、それも冗談に。頭痛がさらに酷くなった気がして、サイファは残る片手で額を抑えた。 「頭痛ですか?」 「あぁ」 「お疲れなのでは?」 「……お前があおっているんだ」 「それは失礼」 吹き出すのをこらえるよう、口許を押さえる。誠意の欠片もない謝罪だったが、なぜかシリルがすると嫌味にならない。人徳、と言うものだろうか。 「ねぇ、サイファ」 「なんだ」 「尋ねてもいいですか」 「答えられることならば」 どうせ魔術のことだろう、と高をくくっていたのが間違いだった。思わぬ問いにサイファは喉が詰まりそうになる。 「ウルフのこと、どう思っているんです?」 シリルはそう、聞いてきたのだった。兄弟そろってお節介で困る。渋面を造り、シリルをじろりと睨みつけてはみたものの、あまりこたえるとは思えない。なにせあのアレクの弟なのだから。案の定、けろりとした顔をしていた。 「お前はどうなんだ」 だから話をそらす。この程度で引っかかるとは思わなかったが、心の準備くらいは整えることができようか、と。 「僕ですか? ウルフは大事な仲間ですよ」 「そうではない。それのことだ」 指差した先には眠るアレク。うっとりと、シリルの膝の上で寝息を立てている。幸福な夢でも見ているのだろうか。唇がかすかに笑みを刻んでいた。 「アレクですか……」 不意に困った顔をする。口を結んでうつむいた先、アレクの寝顔を見ていた。 「大事な兄ですよ」 ぽつり、言う。サイファに顔を見せないよう、うつむいたまま。 「それだけか?」 だから問い詰めてみる気になった。 「ずいぶん絡みますね」 顔を上げたシリルは微笑っていた。頬のあたりが強張っているところを見なくとも、それが作り笑いであることは容易に知れる。 「ただ尋ねているだけだ」 緊張を解かせるよう、少しばかり首をかしげて笑みかける。 「僕は僕なりにね、アレクが大事ですよ。えぇ、ご想像のとおりです」 しばしの間視線をさまよわせたシリルが言ったのは、そんな煮え切らない言葉だった。 「ほう?」 「僕にも意地があるんですよ、サイファ」 「意地?」 「アレクは絶大な誤解をしています。いつかそれを解かなくては、と機会を狙っているんですが中々なくて」 「なにも狙うことはないだろう」 「とんでもない誤解ですからね。多少は痛い目にあって欲しいんですよ」 「私の感想を言ってもいいか?」 「えぇ、もちろん」 「あまり、アレクを傷つけるようなことはして欲しくない、と思う」 言った途端、シリルが吹き出した。サイファはむっつりと口をつぐむ。人間の感情に介入するのを好まない半エルフが取った、最大の好意だと言うのにやはり人間は笑うのかと思えば不機嫌にもなる。 「すみません」 「別にかまわん」 「いえ、そうではなくて。ウルフが聞いたらさぞ怒るだろうなぁ、と思ってしまって」 「なぜここで若造が出てくる」 「でも怒ると思いませんか?」 「……思う。経験として」 「でしょう? 僕はあなたがアレクを気遣うとは思わなかっただけです。大丈夫、安心してください。傷つける気は毛頭ありません。言ったでしょう。大事なんですよ、これでもね」 その言葉を裏付けるよう、シリルがアレクの髪を撫でている。髪、と言うものはあのように撫でるものだとサイファは思う。無意識に触りたがられるよりも意図して愛撫のよう指で梳かされたならば――そう思ってしまってサイファは無理やり目をウルフからそむけた。ゆっくり呼吸を整える。別にウルフに触られたいわけではない、現象としてシリルの方法が正しいと認めたに過ぎない、と。 「どうかしました?」 うっすらと笑っている。まるでこちらの考えを見透かされたようで落ち着かなかった。 「アレクを愛しいと思っているわけだ」 仕返しをしたくなったサイファの、精一杯の意地悪のはずだった。シリルは軽く吹き出し、その手には乗らない、とばかりに手を振って見せる。 「僕とアレクはそういう関係ではない、と言っているでしょう?」 「そうは見えん」 「まぁ、表面的な答えですけどね」 人徳があると思ったのは大間違いだったようだ。比較対象がアレクやウルフでは評価を誤る、とサイファはシリルを見ては溜息をつく。 「あなたがご覧になっている僕らが、たぶん正しい僕らの関係です。もっとも、アレクにも言っていないことをあなたに認める気も否定する気もありませんよ」 迂遠な物言いでシリルはサイファの問いを肯定して見せ、人が悪そうに笑った。人間と言う生き物は不可解で興味深い。これで巻き込まれさえしなければどれほど面白い生き物だろうと思うのだが、旅をしている以上、そうも言っていられない。 「私を巻き込むなよ」 「努力はしていますけどね」 「これ以上の厄介ごとは勘弁して欲しい」 「ウルフもいることですしねぇ」 そう言ったシリルの顔は、驚くほどアレクによく似ていた。普段は少しも似ていない兄弟のくせ、こんなときだけ似ているというのは考え物だと思わざるを得ない。 「……どういう意味だ」 言ってから、しまったと思う。シリル相手だと油断してしまうせいかもしれない。ウルフの時には多少なりとも失言には気をつけているはずだが、そう思ったところで最近は我がことながら間の抜けた問いを発する機会が多いと嘆きたくなってきた。 「特に深い意味はありませんよ。そちらはそちらで大変だなぁ、と思っているだけです」 そう言うのを深い意味、と言うのだと怒鳴りたくなるのをこらえ、溜息をついて見せることで抗議を表す。シリルは笑って返事もしない。事実、面倒なことにはなっているのだが、シリルがあるいはアレクが思うような面倒ではない。シリルはこちらの関係を半ば公然たるもの、と思っているようだったが、実際の所ウルフは自覚さえしていないし、サイファは退けるかどうかも決めかねている。 「なぜ、こんなことになってしまったのだろう」 長嘆息と共に天を仰いだ。そして吐く息が止まる。自分が今、なにを思ったかを理解してサイファは凍りつく。退けるかどうか決めかねている。そう思った。決めかねているとはどういうことだ、と怒鳴る相手がいないのがつらくてならない。八つ当たり混じり、ウルフの頭をひとつ、平手で叩いた。向こうでシリルがやはり、笑っていた。 |