一行は、草の残骸から離れた空き地の端に野営の用意をする。まだ日は高かったが、ウルフの体調を考えるとこれ以上は進めない。焚き火をしようにも木が生えていなくてはそれも叶わず、干し肉を齧り水を飲むばかり。
「これってほんとに見えないの?」
 ウルフが周囲を見回してサイファに尋ねる。
「そうだ」
「でもこっちからは素通しで、なんか変な感じ」
 それはウルフだけが感じていたわけではないだろう。サイファは見えない聞こえない、と言ったが、一行から結界の外は丸見えなのだ。そもそもその結界自体がウルフやアレクの目には見えていない。
「大丈夫だよ、ウルフ」
 シリルが保証してもウルフはまだ落ち着かなげだ。だがアレクはそれでほっとした顔をする。つくづく弟の言うことならばよく聞く、とサイファは苦笑を漏らした。
「ねぇ、サイファ」
 そのアレクがこちらに顔を向ける。思わず腰が引けそうになる自分にサイファは舌打ちした。歴然と、何事かを企んでいる顔だった。
「あのね、これ真ん中で遮れない? 色かなんかつくととっても嬉しいんだけど」
「アレク、だめだよ。サイファを余計なことで疲れさせちゃ」
「充分可能だ」
「ほら、シリル。大丈夫じゃないの」
「いえ、サイファ……」
「私の平安のために犠牲になれ」
 ひっそりとサイファは微笑ってシリルに打撃を与え、絶句した彼とアレクに合図の仕方を教える。必要がなくなったらそうすれば通じる、と。
「深く同情する」
 シリルに言ってサイファはかすかに手を動かした。ふっと結界の中が断ち切られたよう、向こう半分が見えなくなる。サイファの耳にはシリルの抗議がまだ聞こえていたが、すぐにそれも絶えた。
「これも外から見えないの?」
「あぁ」
 不思議そうにウルフが立ち上がり、白い壁と化した場所を手で探る。
「へぇ、触れるんだ」
「今のところ行き来もできない」
「魔法を解くまで?」
「そういうことだな」
 サイファはアレクの頼みだけを聞いたわけではなかった。向こうが二人きりになりたい、と言うならばこちらとても同じこと。もっとも理由の方は甚だしく違う。
「横になっていろ」
 戻ったウルフに言えば、なにも言わずに隣に座る。半ば睨むようそちらを見てもウルフは唇を尖らすばかり。
「ここは安全だ」
「そうじゃなくて」
「では、なんだ」
「ちょっと、寒いんだよね」
 言ってウルフが自分の体を両腕で抱いた。それもそのはずだろう。あれだけの血液を失えば、寒気を感じて当然だ。
「だからさ」
 不意にウルフの腕が伸びてきて、サイファの腕を引く。あっという間にサイファの体はウルフの腕の中にあった。
「なにをする」
 戦士の硬い体に抱かれてなにが嬉しいものか。機嫌を損ねたサイファはいつもよりもさらに冷たさを増した口調で問い詰める。
「ちょっとだけでいいから。あったまらせてよ」
「お前のちょっと、は信用ならん」
「まぁ、そう言わずにさ」
 頭上でかすかに笑った気がした。これ以上の抵抗は無駄だと知って、サイファは諦めウルフの肩に頭を預ける。自分よりも小柄な人間に抱きしめられているという不自然な体勢に、きっと後で体が痛くなるに違いない、と思えば溜息も出ると言うもの。
「そうやって嫌がる」
「喜べとでも言うつもりか」
「そんなあからさまに嫌がらなくってもと思うんだけどなぁ」
 文句を言いながらもウルフの手が髪を撫でている。なにがそんなに楽しいのかサイファは不思議でならない。恋を知らないサイファは、たとえ自覚せずとも愛しい者に触れたがる、そんな気持ちを知る由もなかった。
「サイファ」
「なんだ」
「疲れてない?」
 単純に大丈夫、と言ってもウルフは納得するまい。今までの経験がそれを教えている。だからサイファは懇切丁寧にどれほど疲れていないのかを説く。
「だから、この程度は疲れているうちに入らない。まったく問題はない」
「サイファが大丈夫ならそれでいいんだ」
 ウルフが笑って体を抱く腕に力をこめる。抗う隙もあればこそ、サイファは抵抗を封じられて息苦しくてならない。
「苦しい!」
「あ、ごめん」
 本当に謝罪する気があるのかどうか。ウルフは少しばかり腕を緩め、逃げ出そうとしたサイファの頭を軽く手で押さえてはまた胸に抱く。精一杯の抗議をこめて溜息をつけばまた、笑い声が聞こえた。
「体調が不安なのは、私よりお前だろう」
「あ、心配してくれるんだ?」
「シリルの手間が増えるからな」
「……酷いよな。サイファ」
「真実だ」
「俺よりシリル?」
「どうしてそうやって序列をつけたがる」
「だって俺、サイファ大好きだもん。大好きな人の一番でいたいじゃん」
「……また消し炭になりたい、と見たが?」
「あ、いけね。ごめん」
 あからさまに口先だけだった。まったく謝る気もなければ後悔する気もない。そもそもそれはどういう意味で言っているのか問いただしたい気持ちでいっぱいだった。が、賢明にもサイファは己で落とし穴を掘り、自分で落ちるようなまねは慎む。
 剣から伝わってくるのは歓びだけで、それが自覚しているものなのかどうかは判別のしようがない。こんなことならば、ウルフの思考が筒抜けになる呪文でもかけてやればよかった、と思う。いまさらそんなことをするのは誇りが許さない、と長い溜息をつくばかりだった。
「サイファ、あったかいね」
 ウルフが髪に頬を押し当てている。やはりなんとしてでも逃げるべきだった。あそこで諦めなどするのではなかった。
「俺、他人の体がこんなあったかいって知らなかったなぁ」
 意識せず、言っているに違いない。なにも考えていないはずだ。なのに心乱れてどうしようもない。眩暈がして、きつく目を閉じる。体を動かされた、と感じたときには腕がウルフの背中にまわさせられていた。それなのに、息が詰まって抗議もできない。
 ウルフの指が髪と頬を撫でる。彼としては頬にかかった髪を払っているつもりなのだろう。だが、それだけとはとても思えない。逃れようとすれば自らウルフの胸に顔を埋めることになってしまう、そう気づいたサイファはただじっとしているより他になす術がなかった。
 指が、何度も頬に触れた。時折、唇を掠める。少し指が震えていた。サイファは悟る。他のすべては無意識だろうが、これは間違いなくわざとだ、と。どうしてくれよう、と思う。考えている間にまた指が触れた。
 咄嗟にサイファはその指に、噛みついた。
「いてっ」
 引き抜こうとするのをさらに噛む。怪我をさせるほどではなかったが、すぐに離してやる気はさらさらない。顎先に、指を噛まれたままのウルフの手がかかり、サイファを仰のかせる。
「痛いでしょ」
 当然だ、そうサイファは睨む。噛みついたままでは喋れないのがつらい。
「サイファ」
 まだ何事かを言おうとするウルフの指を痛めつけてやろうかとすれば、唇の間で噛まれたままそっと動いた。途端にサイファは後悔する。この状態は甚だしく淫靡、と言わねばならないことくらい、サイファにも理解できる。思わず離せば濡れた指が唇を、今度こそは意図的に撫でていった。
 濡れた指を目にしてしまった。身をよじりたいほどの羞恥に襲われ、咄嗟に殴ろうとするも、思えば自分の腕はウルフの背中にある。上げた腕は反ってウルフを抱き寄せる結果になってサイファには打つ手がなかった。
「いい加減に……」
 にやり、笑うウルフが目前にいる。怒鳴りかけたはずなのに動揺のあまり言葉が止まる。まだ顎先を、ウルフは押さえていた。
「なんかさ、これってすごい体勢だよね」
「そう思うならば、さっさと離せ」
 アレクを見習うわけではないが、あえて低い男の声で言ってもウルフは意に介さず、まだ笑みを浮かべている。この若造は、どこか頭がおかしいのではないだろうか、サイファはそう思うことで今の状態から意識をそらす。
「どきどきしない?」
「ふつふつと怒りが湧いてくる」
「サイファってほんと可愛いこと言うよね」
「……誰が? なにを?」
「細かいことは気にしない。俺はサイファが可愛いの」
 この期に及んでまだ言うか、怒鳴りかけたサイファの口を塞ぐ目的ではなかっただろうが、ウルフの顎にかけた残りの指が器用に頬を撫でる。ぞくり、としては絶句してしまった。
「ちょうどさ、押し倒すのにいい体勢だよね」
 こんな大人の顔もするのか、と思う。普段の、アレク曰く「お馬鹿」はどこに行ってしまったのだろうか。ウルフの片手が、腰を抱く。はっと心づいてサイファは若造を見上げた。
「お前を肉片に変えるのにもちようどいい体勢だということを忘れるな」
「サイファってば!」
 喉の奥、ウルフが笑った。笑ってサイファを抱きしめる。またわけのわからないことを言い出す前に、とサイファは腕を上げてウルフの髪を引っ張った。
「もう充分温まったはずだ。いい加減に寝ろ」
「んー、膝枕してくれたら寝る」
「寝言は寝て言え!」
 頂点に達した怒りと動揺がサイファの手の中で光の玉となって出現する。それを目にしたウルフが驚き、わずかに体を離すのを狙ってサイファはそれを若造に叩きつけた。




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