投げた短剣が刺さった草がびくびくと断末魔のよう蠢く。血の臭いを嗅ぎつけたのだろう爆発で断ち切られた草の一片が這い寄ってきていた。
「シリル、取ってくれ」
「これ、ですか」
「そうだ」
 短剣が刺さったままの草を恐る恐る持ってきてはサイファに手渡す。短剣の先から赤い血が流れていた。ウルフの血だった。怒りが湧くのをこらえてサイファは短剣から草を外す。一振りすれば血が抜けた。
 そして無造作に丸めてサイファは草を飲み込んだ。
「サイファ!」
 アレクが驚愕の声を上げる。シリルはあっけに取られて声もなく、ウルフはただ呆然と見ていた。
「ちょっと、なにやってんのよ」
 アレクの問いを手で制止する。飲み込みにくい草が喉に引っかかって苦しかった。ようやく嚥下したサイファは目を閉じて思考を凝らす。あまり使ったことのない呪文だけに注意が必要だった。
 先程まで水球が乗っていた掌になにか透明な物が少しずつ現れ始めた。とろりとした粘液のようで、だが実体はない。掌いっぱいに溜まったのを確かめサイファは大きく息を吸う。一気に掌を握った。実体がないことの証明のよう、それは指の間からあふれない。
「食え」
 サイファが開いた手の中に、小さな薄緑の珠が乗っていた。艶やかで丸く、確かにそこにある。珠はサイファの掌に影を落としていた。
「これ、なに……」
「あの草は食えば血を増やす効果がある」
「じゃあ」
「なんで、アンタが食べたわけよ?」
 興味津々とアレクが緑の珠を覗き込んではウルフの言葉を横取りする。それに苦笑を返し、サイファは言う。
「効果はあるのだが、人間の体には毒性が強い。一度私の体を介して毒素を抜くのが早いと思った」
「毒って、サイファ。大丈夫?」
 それを聞いたウルフが無理に体を起こしてふらついた。そっと抱きなおして肩を叩く。
「半エルフに毒は効かない」
 反って自分の行為のせいで、ウルフの耳許で囁く羽目になってしまった。先程までもそうだったに違いないが、意識してしまうと飛びすさりたくなって困る。何も考えないようにサイファは意識をそらした。
「ふうん、じゃあさ、毒を抜くとそんな風な珠になるわけ?」
 時々、アレクはわざとやっているのではなかろうか、と思うことがある。少し嫌な顔をしかけ、まさかそんなこともあるまい、考えすぎだとサイファは思い直して口を開いた。
「いや……あの粘液状のものに薬効があるんだがそのままでは、飲みにくいかと」
「……実体化は、難しいのでは?」
「簡単だとは言わない」
 サイファはそれだけ言った。まったく兄弟そろって嫌がらせをしているとしか思えない。わざわざウルフのために実体化の手間をかけたサイファは揶揄されているようで気分が悪い。
「サイファ」
 そんな気持ちを察したわけでもないだろうがウルフがサイファを見上げ目つきで何かを訴える。咄嗟に考えることもなく、その唇に珠を押し込んでしまった。指がかすかに彼の唇に触れた。
 動揺のあまり悲鳴を上げかけるのを掌を握り込むことでこらえる。突き立った爪が痛い。おかげで醜態を晒さずにはすんだが、強張った体にウルフが怪訝な視線を向けるのだけは避けられなかった。
「これ、甘いよ」
 だがウルフはそんなことを言う。もしもウルフが元気だったならば力の限り殴っていた。じろりと睨みつけるだけにとどめ、心の中で思い切り殴りつけた。
「あーら、サイファってば優しい」
 アレクのからかいはサイファの態度を見てのこと。表情に出すのではなかった、と思ってもすでに時遅し。サイファの嫌そうな顔でアレクはわざわざ甘みをつけたのだとわかってしまった。無論、それをさりげなくウルフに教えてやらない手はない。アレクの言葉にぱっと顔を明るくしたウルフの頭をサイファは手で押さえつけて舌打ちする。顔を見たくない、と思ったはずなのになぜ胸に抱え込んでしまったのか、と。
「さて、大丈夫なようだったら行こうか?」
「うん、もう平気」
 シリルに答え、ウルフが立ち上がる。少し顔色が悪い。が、本人が大丈夫だ、と言うのだから、と一行は歩き出した。
 今日はやはり進み方の遅い日なのだろう。結局、午前中に稼いだ距離はウルフの負傷で消えてしまった。何も言わないが、兄弟はゆっくり歩いてウルフを気遣う。他愛のない無駄話をして足が遅れている、そんな風につくろっているのが悔しいのだろうか。ウルフは唇を噛んでいる。
 その足許が怪しかった。しっかり踏みしめてこらえてはいるのだが、それでも時折ふらついた。見るに見かねてサイファは手を出す。差し出された手を、ウルフは取らなかった。
「意地を張るな」
 ぼそりと言ってさらに目の前に突き出す。きつく唇を結び、ウルフは手を握った。
「サイファ」
「なんだ」
「俺にだって、見栄があるんだよ」
 そうして歩き始めてから少し経ってのことだった。ゆるく握られた手がウルフの心情を語っている。
「そんな場合か」
 答える言葉がなくて、冷たくそう言った。抜け出しそうな手を強く握って引き寄せる。またふらついていたからだ、内心にサイファは言う。
 二人の足が遅れ始めた。意図したわけではないが、ことさらゆっくりと歩く。前の兄弟を見失うほどではない。ただ会話が聞こえなくなるくらいに。
「みっともないね、俺」
 遠くを見ていた。あまりにもウルフらしくない態度にサイファは驚き、横顔を見つめる。
「サイファを守るとか死なないとか、大きなこと言ってる割にさ、いつもサイファに庇ってもらってる」
「仕方なかろう」
「未熟だからね」
 自嘲の笑みなのだろうか。遠い視線のままウルフはサイファを見ようとしない。また、手が抜けそうになった。もう一度、きつく手を握る。それでようやくウルフがこちらを見た。
「嫌でしょ。いいよ。大丈夫だから」
「大丈夫だと思っていればしない」
「でも、嫌でしょ」
「……嫌ではないからこうしている」
「嘘」
「こんなことで嘘をついてなんの益がある」
 納得もせず、答えもしない。また遠い景色をウルフは眺めた。
「わかってるんだ。俺は未熟で足手纏いだよ。アレクのほうがよっぽど頼りになる」
「アレク?」
 なぜ急にアレクの名が出てくるのか不可解でならない。ウルフの横顔は黙して語らない。
「だって、そうでしょ」
「……未熟未熟とは言うがな。お前の腕はシリルが認めている」
「でもサイファを守れない」
「今の所は良くやっていると思っている」
「次はどうかわかんないよ」
 投げやりな言葉がウルフの傷心を物語っていた。なぜそれほど生き急ぐのだろうか。今は未熟でもすぐに上達するだろうに。
「サイファ、アレクに守ってもらったほうが安全だと思う」
 絞り出すような声。本心などでは断じてない。思わず激高しかけ、ウルフの顔を見つめる。それから腹立たしげに抜け出そうとした手指に指を絡ませ繋ぎなおした。
「馬鹿か、お前は」
「馬鹿だよ」
「いい加減にしろ」
「だって、その方が危なくないじゃんか。それにアレクのほうがまだ興味持てるでしょ」
「どうしてそうなる」
 かっとして繋いだ手を引き寄せた。真正面からウルフの顔を見据える。苦悩もあらわな顔をするくらいならば思ってもいないことを言うものではない。そう、口を開きかけたサイファの前にウルフが言った。
「俺に興味なんてないじゃんか」
「人間は面白いと思っている」
「面白いって言われて嬉しいと思う?」
「興味深い、に訂正する」
「それに、人間じゃなくて俺。俺のことを知りたいとは思ってないでしょ」
 心の底からサイファは困惑した。いつの間にか話が妙な方向に行きかけている。だがいま話をそらそうとすればウルフがどれほど傷つくだろうかと思えばそうも出来かねた。
「そうでもないが」
 曖昧な答えにウルフが嗤う。一向に視線を合わせようとはしないのに苛立つ。またよろめいたような気がしたのだ、と心に言って引き寄せた。腕にウルフの体温を感じた。ぬくもりが、今は痛い。
「そうかな? 前にもあったよね。俺が昔のこと話そうとするとサイファ、いつも聞きたがらない」
「そんなことを聞いてなんになる」
「サイファになら、話してもよかったんだ」
「聞きたくない」
「でしょ?」
 ふっと笑ってウルフはわずかにうつむいた。剣から何か伝わっては来ないか、と思考を凝らしてもウルフの感情はわからない。凍りついたような静寂だけが伝わってきた。
「お前は誤解をしている」
「どこが?」
「知りたくないのではない。知る必要がない。お前にどんな過去があろうといまさら変えられるものではないし、そもそも今お前はここにいる。それで充分だ」
「サイファ……」
「だいたい冒険に出ようなどと言う人間はよほど暇かどうしようもなくつらい目にあっていたかどちらかだろう。お前は後者だと思っている。ならば余計、聞きたくない」
「俺がつらいから?」
「思い出すのも嫌だろう?」
「どうしてそう思うのさ」
「前に私の首を締めかけた。あの時お前は夢を見ていたが、過去の夢だと言った覚えがある。間違っているか」
「……あってるよ」
「だからわざわざ思い出して語る必要はない」
 どこかで間違えた気がしなくもない。何かとんでもない失言をしたような気がするのだが、自分がなにを言っているのか、サイファにはよくわかっていなかった。それでもウルフの気分が引き立ったならばそれでよし、と思うことにする。地の底まで落ち込んだ戦士など、物の役にも立たないのだから、と。
「俺、サイファの横にいてもいい?」
「いいも悪いもいるだろうが」
「でも、いい?」
「……あぁ」
「ほんと? いいって言って」
 不意に笑ってサイファの顔を覗き込んできた。もういつものウルフだった。慰めて欲しくて落ち込んでいたのかもしれない。始末に負えない若造だった。
「調子に乗るな」
 殴ってやろうかと上げかけた手は、ウルフの手の中だった。自分から彼の手を取ったことを思い出して舌打ちし振りほどこうとすればしっかりと絡み合った指に阻止される。
「サイファ!」
 前方から遅れたのを咎めるよう、アレクが呼んだ。まるでまだ足が確かではない、と言いたげにウルフはサイファの肩にもたれてアレクに答えていた。




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