シリルの側でウルフが唇を噛んでいた。話し声を遮断したとしても姿は見えている。アレクと静かに話しをしているように見えたのがよほど悔しいのだろう。
「さ。ウルフ、行こうか」
 シリルがそっと言葉をかけている。ウルフは答えず黙って立ち上がってサイファを見た。口を開きかけ、そして止めてはうつむく。
「サイファ」
 小声でアレクが注意する。渋々、と言った体でサイファがウルフに歩み寄る。その実、アレクの介入を今はありがたく受けている。このままにしておくべきではない、とわかっていたのだ。自分が手を打たなければアレクが何を言い出すかわかったものではない。
 ウルフの傍らに立つ。うつむいたままウルフがこちらをうかがっている。だから反って何を言っていいのかわからない。ためらいがちに手を上げ、ひとつ大きく息を吸ってウルフの肩を叩いた。
「すまない。八つ当たりだった」
「八つ当たり……?」
「少しばかり、嫌なことを思い出した」
 今の今まで思ってもいなかったことをすらすらと言ってのける自分が嫌になる。
「お師匠様のこと?」
「……そういうことだ」
 自己嫌悪に口の中が苦くなる。師のことだと言えばウルフは余計落ち込むのではないか、とも思ったが、だからと言って他の誰かだとは言いかねる。
「そっか」
 ウルフらしくなく、笑った。ずきり、とどこかが痛む。
「サイファ、ごめん。俺、いつか死んじゃうけど、でもサイファが大好きだから。人間でごめん。死んじゃうけど、ごめん」
 いつもだったらウルフはサイファの手を取ったことだろう。けれどウルフは立ち尽くしたまま、目をそらしてそう言った。どこかの痛みが酷くなる。
「もう、その話はやめないか」
 これ以上、死ぬの死なないのと話すのはつらすぎた。ウルフに言ってしまったせいか、師が死の床についた姿を思い出してしまった。最期の息が消えるまで、サイファの行く末を案じていた。心配だと、そう言いつつも死んでしまったのだ。サイファを残して。人間の宿命に従って。
「……ごめん」
 唇を噛むウルフの肩をもう一度叩いてサイファは振り返る。アレクが腕を組んでこちらを見ていた。
「時間を取らせてすまない。進もう」
 なにを言われるより先にサイファは言った。シリルを見、軽く目礼を送る。鎧を着た戦士を魔術師が蹴っただけ、とは言えサイファは渾身の力で蹴りつけたのだ。ウルフの方だとて多少は怪我をしているだろう。それを治療してくれたことへの礼だった。
「そうしましょうか。アレク、荷物まとめてくれる?」
 シリルは視線だけで返事をし、サイファを安堵させた。細かいことを口に出されればきっとウルフが反応する。今のサイファには避けたいことだと悟ったのだろう。つくづく、お節介な所もあるがいい仲間だと思う。
 朝の時間は過ぎてしまった。高くなりつつある陽射しを浴びながら一行は進む。いつもどおりの隊列が、今日はどこかぎこちない。前でくだらない軽口を言い合っている兄弟も少しばかり上の空のようだった。
 何事もないのがおかしいと言えばそれまでなのだが、一行は次第に黙りがちになりながらもこの異変を感じたはずの草原を淡々と進んでいく。無駄な話をしないせいか、朝のうちに消費してしまった時間を取り返して距離を稼ぐことができた。急ぐ旅ではない、とは言え糧食の都合と言うものもあるのだから進めるうちに進んでおくに越したことはない。
「あら、風が出てきたわね」
 不意にアレクが顔を天に向けて呟く。太陽は中天をすでに越していた。サイファもまた空を見上げ、予想通りの風であることを確認する。
 ざわり、草が風になびいては生き物のように蠢いて音を立てる。
「あ!」
 ウルフが声を上げた。歩いている間中、ずっと黙り通しであったせいで、サイファはウルフの声を聞くのがずいぶん久しぶりのような気がしてならない。そのように思う自分をやはり、いぶかしく思うのだった。
「どうしたのよ?」
「兎、ちょっと待って!」
 アレクに答えるだけ答えると、ウルフは短剣を抜いて小道から外れる。と、その時だった。
「……っ」
 ウルフに草が絡みついていた。足先から上り、手足に絡んでは肌に吸い付く。
「止まれ!」
 咄嗟に駆け寄ろうとする兄弟を制止してサイファがウルフの元へと走る。その間にもウルフの体に取り付いた草は数を増していく。少しずつ、色が変わり始めていた。瑞々しい緑から、鈍い赤へと。草は獲物の血を吸っていた。
「サイファ!」
 アレクの声がする。サイファは聞いていない。体のすぐ側に障壁を作り上げ草の攻撃を防ぐ。
「……くっ」
 仰け反ったウルフの喉に草が絡む。その瞬間に辿り着いたサイファは彼の体を抱きかかえ障壁の中、囲い込む。瞬時に障壁を大きく展開させて周りの草ごと吹き飛ばした。その衝撃で二人の体は小道に向かって飛ばされた。
「ちっ」
 威力を制限し損ねた、と悟ったときには遅かった。道に叩きつけられるのを避けるには体を入れ替えるよりない。サイファは血を失ってぐったりとしているウルフを抱えたまま体勢を替え、その次の瞬間には道に背中を打ち付けていた。
「サイファ! 大丈夫ですか」
 走り寄って来たシリルを手で制し、体を起こしては障壁を解く。ぷん、と血の匂いがした。それにシリルが顔を青ざめさせる。物も言わずに呪文を唱えウルフの傷を塞いでいく。
「サイファ……」
「黙っていろ」
「ごめん」
「いいから、黙っていろ」
 血の気を失ったウルフが微笑んだ。わずかにサイファの顔が曇る。嫌な笑いだった。思い切り殴って正気付けたいところをこらえてシリルの治療を待った。
「とりあえず、傷は塞ぎましたが」
「なによ、どうしたって言うのよ」
「傷は塞いだけど、ちょっと血を失くしすぎてる」
「……大丈夫なの」
「丈夫だから、二日もすれば戻ると思うけど」
 言いながら歯切れが悪い。それほど大量の血液を一瞬にして失った、と言うことだろう。
「あなたは大丈夫ですか」
 シリルの言葉にただうなずきを返す。地面に叩きつけられた背中は二人分の重量を受けて、痛む。が、この程度ならば放置しても問題はない、と判断を下し、サイファは口の中で呪文を呟く。サイファの手の中に淡い珠が現れた。
「飲め」
「……なに」
「ただの水だ。血を失った体には必要だ」
「……ん」
 差し出した掌にウルフは唇を寄せる。抱きかかえたままの体は支えていなければ倒れ込みそうだった。知らずウルフの肩を抱く手に力が入る。戦士の体とは言ってもまだウルフの体は小さい。サイファより背も低いし、魔術師であるサイファが抱ける程度に胸も薄い。逞しくなった、と思っていたはずがこうして力を失うと、どれほどこの若造が若いのか思い知らされる。
「もう少し飲め」
 途中で止めてしまったウルフの肩を叩いて促せば、素直に従う。それがいっそ気味が悪いほどだった。ただ、少し気力が湧いてきたものか、二度目からはサイファの手に自分の手を添えた。それが救いといえば救いだった。
「サイファ、アタシもちょうだい」
 疲れたようにウルフが目を閉じたのを見ては耳飾りをいじりながらアレクが言う。確かに水は補給できるときにはするべきだった。ただ、なぜかいま掌にある水球を渡す気にはなれない。一度手を払い、新しい水球を作ってはちらり、シリルを見る。
「水袋を寄越せ」
 兄弟に言ったはずが、にやりとアレクが笑う。サイファはかまわず二人分の水袋をその水で満たした。掌に乗るだけの水なのに、たっぷり二つの袋を満たしてもまだ少しも大きさを変えたようには見えなかった。ふ、と視線を向ければ目を閉じたはずのウルフが興味深げにそれを見ている。
「飲むか?」
 問えばまた素直に飲む。そしてはじめてウルフを抱きかかえていることに気づいては狼狽した。頬にあたる赤毛が柔らかくて落ち着かない。
「もういい。ありがと」
 首を振って言えば、それにつれて揺れた髪がサイファの頬を撫でる。たとえようもなく落ち着かなくてサイファは残った水を飲み干した。そしてアレクの目に気づく。ウルフを見ていた。サイファもつられてそちらを見れば、下からウルフが嬉しげに見つめている。うっかり同じ水を飲んでしまった。それだけでウルフはなぜこんなに嬉しそうな顔をするのか。そのことがどうしてこれほど動揺を誘うのか。
「サイファ、ごめん」
「……お互い様だ」
「なにが」
「お前は詠唱時間を稼ぎ出す。私ができるときには仲間を守る。だからお互い様だ、と言っている」
「そっか」
「そうだ」
 あえてお前を、とは言わなかった。それでもウルフは軽くサイファの首筋に額を寄せ安心して溜息をつく。いつの間にか周った腕がサイファの腰を抱いている。抱き返してきた体は温かかった。この若造は生きている。それを思うと体中の力が抜けそうな安堵に襲われる。あのような話をした直後だけに、サイファは過敏になっていた。ただそれだけだ、と自分に言い聞かせながら少しだけウルフの体を押しやる。
「サイファ」
 懲りもせずに離されたことへの不満の声を上げたウルフ。思わずサイファの口許が笑みを刻む。喜びを浮かべかけたウルフの手から、まだ握ったままの短剣を引き剥がし手に取る。ずしり、と重かった。サイファはそれを振り上げ、思い切り突き立てた。
「サイファ!」




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