思い切り腹を蹴られたウルフが呻いている。シリルが気遣わしげに側に寄ったのを見てもサイファは動けない。黙ったまま立ち尽くしていた。
「なぁにやってんだか」
 場違いに明るい声のアレクがこちらに来る。サイファは視線も向けない。
「鎧つけた戦士を蹴ったりしちゃ、アンタの足のほうが痛いでしょうに」
 そう、しゃがみ込んでサイファの足を押さえた。事実、人間のように重装備を必要としないサイファは軽い靴しか履いていない。
「ほら、ちょっと座って」
 手を引いて無理に座らされた。アレクの手が勝手に靴を脱がす。爪先に血が滲んでいた。
「すぐに治る。放っておけ」
 これが自分のものかと思うほど、情けない声だった。遥か昔、師の許にいた時でさえ出したことのない声。
「いいから」
 アレクの長い指が薬をすり込んでいるのを感じる。ウルフのものと違って冷たい指だった。それにたとえようもないほど動揺した。
「ねぇ」
 見上げてきた目がうかがっている。返事をしないのを続けていい、と取ったのだろう。アレクが先を続けた。
「ちょっとあの二人に話し聞かれないようにできない?」
 なにをしたいのかはわからない。が、それを問う気にも反論する気にもなれず、サイファは手を振る。
「だめなの? ……あぁ、違うのね」
 ちらり、視線を動かしてアレクは周囲を見た。別段、何も変わっていない。しかし冒険者の鋭い目はそこに違う雰囲気を感じ取ったのだろう。
「ふぅん、呪文を唱えなくってもできるんだ」
 アレクがなんとか話させよう、としているのはわかった。できることならば返事さえもしたくない。けれど仲間の好意を無にすることも出来かねた。その程度には信用しているのだ、そうサイファの胸の内で誰かが言う。
「たいしたことはしていないから」
「普通はたいしたことなんだけどね」
「魔術師なら」
「ま、そうよね」
 かがんでいた体を起こし、アレクは両手を上げて伸びをした。それから改めてサイファの横に腰掛ける。
「ねぇ、サイファ?」
 紫の目が覗き込んでいる。ひどい違和感がある。それがなぜなのかは知れない。
「アンタ、やっぱり坊やのこと好きなんじゃないの?」
 返事をしないサイファにアレクは苦笑しつつ問いかける。きつく唇を結んでサイファはアレクを睨み、居心地の悪さに目をそらした。
「……アンタ、俺やシリルは仲間だと思ってる。でも坊主とこっちとじゃ、明らかに態度が違うよ」
 動揺を誘おうとでも言うのか。アレクは突然に女を止めた。
「そんなことはない」
 それがアレクの手だと思っても、サイファは抗わずにはいられない。
「そう? 勘違いだとも思えないけどな」
 乗せられたサイファに笑みを向け、アレクは言う。草の上、軽く立てた膝に片肘を乗せ、頬杖をついてはこちらを見ていた。
「アンタは認めたくないだけだよ」
 不意に気づいた。アレクの声が以前何度も背筋の冷える思いをさせられたあの男の声ではない。魅力的ではあったが、自然な声だった。
「それが、普通の声か?」
「まぁね。今はアンタと遊びながら話す気分じゃないんだ」
「こちらは話すこと自体が」
「嫌なのはわかってる」
「だったら……」
「放っとける状態じゃないだろ」
 突然アレクの手が伸びてきた。さけようと思えばさけられたかもしれない。けれどいまのサイファには動く気力さえ湧いてこない。
 アレクの手がサイファの頭を撫でていた。馬鹿馬鹿しさに呆れたくもなる。
「なんで」
「アンタが認めたくないか断言できるのかって?」
「そう」
「それはね――」
 サイファから視線を外し、アレクは遠くを見る。遠くを見るふりをして、シリルを見ていた。音を遮断してはいても、周囲は充分に見えている。残してきた二人は何を話しているのかと、こちらをうかがっていた。
 ウルフと目が合う。はっと、心づいてサイファはアレクの手を払う。アレクが少し笑った気がした。だが、サイファは認めない。あの若造が、調子に乗ってアレクがいいなら自分も、など言い出しかねないから払っただけだ、と。
「ほらな」
 にんまりと笑って視線を戻したが、サイファは相手にしなかった。それよりもシリルを見た、と言うことのほうが気にかかる。
 そして悟った。アレクだとて葛藤がなかったわけではないのだ、と。アレクは人間として図抜けて良い男だとサイファは思う。顔形ではなく、気性や生き様が半エルフから見ても素晴らしい。信頼するに値する男だった。
 おそらく生来のものでもあるのだろう。だが、だからこそアレクは苦悩したに違いない。実の弟に恋をして、言うこともできず思いを隠し続けている。恋をしたと自身に認めるまでにも時間がかかっているのだろう。
「わかったみたいだね」
 黙ってサイファはうなずいた。
「アンタ、子供みたいだな」
「なにを。お前たちのほうが私から見れば子供だ」
「そりゃ年はね。でもアンタ、中身が子供」
 返す言葉がなかった。自分でも思わないわけではないのだ。自分のウルフに対するやり方は、あまりにも子供じみている。だが、相手があれではそう対処するよりないではないかと、そうも思うのだ。
「坊主はあんなにアンタのこと好きなんだよ」
「それは、誤解だ」
「どこがさ」
「お前はあの若造が私を好きだと言う。間違ってはいない」
「でしょ」
「だが、本人は少しも自覚していない」
「……は?」
「若造が言う『好き』はそういう意味だと若造自身が気がついていない」
「なにそれ。なんで断言できるんだよ」
「……剣に魔法をかけたのを覚えているか」
 アレクがうなずくのを見て、サイファは言葉少なにその弊害を説いた。
「じゃ、坊主が考えてることがわかるってわけだ」
「違う。感情がわかるだけで、考えてることまではわからん」
「じゃあ……」
「剣から伝わってくる感情と、本人の言動が一致しない。つまり、本人はまったく自分の感情を理解していない」
「……それはまた厄介な」
「同感だ」
 溜息をついたサイファにアレクはまた笑みを見せ、何事かをうかがうような目つきをした。
「ひとつ聞きたい」
「答えるかどうかはわからん」
「それでもいい。アンタ、坊主に思われてんの嫌なのか」
 答えに窮した。答えないかもしれないとは言ってあるのだから、黙っていればいいものを、サイファはそれでもためらう。
「……嫌ではない」
 むしろ心地良いとは口が裂けても言うつもりはなかった。が、アレクはその濁した答え方でも真意を察したのだろう。軽く握った拳でサイファの肩をつつく。
「坊主にもアンタにも時間が要りそうだね」
「……頼むから、放っておいてくれないか」
「アンタ、人間をずいぶん見たって言ってるけど、まだ知らないことがあるじゃないか」
 押し付けられた拳にサイファはアレクを見る。そこには友がいた。もう、抜き差しならないところまで、アレクを信用してしまった。そう気づいては苦く笑いたくもなる。
「人間ってけっこうしつこいよ」
「それは、知っている」
「まだまだ」
 言ってアレクは明るく笑う。また良からぬ事を企んでいる目だった。紫の目が輝いている。
「純でお馬鹿な坊主が可愛くってね。幸せになってくれたらな、と思ってるんだ。だから全力で坊主の応援をしようかな、と」
「……幸せって、あれも私も男なんだが」
 呆れて溜息混じりに言ってから、失敗を悟った。その程度のことで打撃を受けるようなアレクではなかった。
「いまさらなに言ってんのよぉ。アタシとシリルを御覧なさいって。同性で兄弟よ? 二重苦よ二重苦」
 冗談に紛らわせたかったのだろう。いきなり女に戻ってアレクは笑う。普通の声に慣れはじめていたサイファにとって、それは非常な衝撃だった。思わず口許に手をやった。そっと目を閉じては眩暈を抑える。
「止せ、頼むから」
「あーら、サイファってばやっぱり可愛いわよ」
 殴る気力もなく、サイファは呆れてアレクを見た。先程と同じ姿勢のまま、アレクは微笑んでサイファを見ている。
「可愛いって言われても怒んないんだ?」
「気力が湧かないだけだ」
 そうは言ったが、事実は違うことをサイファは知っている。きっとアレクも察していることだろう。あの若造に言われるより、嫌悪が湧かない。そして嫌悪ではなく、気恥ずかしいだけなのだ、と漸うにして気づくのだった。
「さてと。戻りますかね?」
 アレクが草を払って立ち上がる。伸ばした手には縋らなかった。決して、ウルフの視線が気になったわけではない。そう自身に言い聞かせながら。




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