目標にしていた林が見えてきたとき、兄弟が安堵しながら緊張したのがサイファにもわかる。野営しようと言う場所に危険が潜んでいたならば目も当てられない。遠くから確認しつつ進んだ。
「どうやら大丈夫そうですね」
 シリルがほっと息をつく。反対にアレクは鼻を鳴らして
「余計に危ないじゃないの」
 そう弟の背を叩いた。
「なんで?」
「罠だから」
 あれからウルフは手だけは離したものの、ずっと寄り添うように歩いてきた。まったくもって不愉快なことだった。以前だったら、自分が怒って見せれば少しの間だけでも距離を置いたはずなのに。
「ふうん、そうなんだ」
 明らかに理解していないウルフにアレクは子供にするよう、丁寧な説明をしている。ここまで安全だったのだから、そう誘い込む罠だ、と。それでわかったのかどうかは知らないが、とりあえずウルフはうなずき、野営のための薪を集めにあたりを周る。
 道々狩ってきた兎をシチュウにしたのは相変わらずシリル。残りを細く裂き、塩をして保存するのはアレクの役目だった。シャルマークもだいぶ奥に入ってきている。ここから先は人家があるとは期待せずに進むほうがいい、とそうしたのだった。
「サイファ」
 声に目覚めた。シリルが肩に手をかけてサイファを起こしていた。
「後を頼みます」
 向こうでアレクが黙って片手を上げる。夜番の交代だった。サイファは体を上げ、ウルフを起こそうとして不機嫌な顔になる。すぐ隣で眠っていた。まるでサイファを守るように。
「起きろ」
 ことさら冷たい声で言ったが、寝起きのウルフにそれが通じたかどうか。子供のように瞼をこすってもごもごと何かを言っている。
 サイファは取り合わず、まずは無言で辺りを見回す。今のところ異常はないようだった。熾きになった焚き火の側に小枝を寄せる。しばらくすれば小さく炎が移るだろう。
「サイファ、見回ってこようか?」
「必要ない」
 眠たそうな声だった。いっそ動き回らせて目を覚まさせた方がいいのかもしれないが、一人でどこかに行って窮地にでも陥られたら事だ。
 珍しくウルフが話しかけてこない。そう気づいたのはだいぶ時間が経ってからだった。開けた空をよぎる星を見ていた。自分の塔で見ていた星と、ここで見る星と、何も違わないはずなのに、どこか違う。なぜか今の星は綺麗だった。
 黙って見惚れていた星空から視線を外したのは、あまりにも静かだったせいかもしれない。ウルフが眠ってしまったのならばそれでもいい。結界を張って自分も寝てしまおうか、とも思った。
 だがウルフは起きていた。背をかがめて一心に何かをしている。小さな焚き火の明りではさぞ物も見難かろうに、きつく唇を結んでなにをしているのやら。ひっそりとサイファの口許に笑みが浮かんだ。
「なにをしている」
 あまりにも熱心だったからつい、話しかけてしまった。驚いた顔をしてウルフがこちらを向く。それが妙に少年じみた顔でサイファを安堵させた。その反面、やはり不思議と落ち着かない。ウルフと言うのはいったいどういう男なのだろうか、それが気にかかる、のかもしれない。
「ちょっとね」
 にんまり笑ってウルフははぐらかした。わざとらしく手元を隠して見せる。サイファは軽く睨むふりをして、あらぬ方を向いた。けれどウルフはその目許が和らいでいるのに気づいていた。だからそのまま物も言わずに元の作業を続ける。
 緊張していなければならない夜番だと言うのに、心が安らいでしまう。黙ったまま過ごす、と言うのもいいものだった。かつてはずっと一人でそうしていたのだから。そうサイファは思うが、けれどそうではないと知っている。ウルフと二人、黙っているのは心地良い、と。そして慌てて目を見開く。二人、ではない。仲間と黙ってだ、と苦く感じながら。
 東の空が明け初める。紫の甘い色が射し上り、それから徐々に赤みを増し、ついには白々とした朝が来る。そのころには兄弟も起きだしていた。ぼんやりとではあっても昨日の残りで朝食の準備をするところなど堂に入っている。慣れというものかもしれない。
 まるで出発前の儀式のよう、シリルがアレクの髪を丁寧に梳いては編んでいる。あの二人にとっては大切な時間なのだろう。アレクにはもちろん、シリルにとっても。そうサイファは見ている。
 兄弟を横目に見ながらサイファもふと髪を編み直す気になった。特段乱れてはいないはずだが、することもないので暇だった、と言うのが真相だろう。草で留めた髪を解き手櫛でさばく。それだけで時間をかけて梳いたように美しい艶を取り戻す。それから同じよう編み直して草を引きちぎりかけたとき、ウルフが黙ってサイファの手を取った。
「あのさ、これ使って」
 そう言って差し出したのは二色の革を細く寄り合わせた革紐。
「作っていたのは、これか?」
「うん」
 照れくさげに微笑んだ。明るい茶と黒とがねじりあった革紐はいい出来だった。あの不器用なウルフが作ったとは、見ていなければとても信じがたい。
「……ありがたく使わせてもらう」
 あれほど一生懸命に作っていたものを無下に断ることもできない、自分で自分にそう言ってサイファは素直にウルフに礼を言う。晴れやかな笑顔を見ては良かったとも思う。同時に何か間違えたとも思う。
「坊やが結んであげなさいよ」
 向こうでアレクが優しげな顔をして言っている。それがなにかの策略のような気がして仕方ないのは考えすぎだろうか。
 サイファが答えないを了承と取ったのだろう。ウルフが背後に回って髪に手を触れる。なぜかぞくり、とした。振り解きたい思いで一杯だったが、そうもできずサイファは目を伏せることでそれを耐える。
「ねぇ、サイファ。知ってるかしらー?」
「……なにをだ」
「人間のおまじない」
 華やかに笑うアレク。やはり策略に嵌ったらしい。サイファは不機嫌にそちらを見て返答に代えた。
「坊やが持ってるような紐ね、帰還の紐って言うのよ」
「なんだ、それは」
「大事な人が無事に帰ってきますように。死なないでちゃんと帰って来ますようにってね」
「馬鹿か、お前は」
 結び終わったウルフを振り返り、サイファは言う。こんな間の抜けた話を聞いたことはここしばらく覚えがないほどだった。
「そんなことより未熟な腕をなんとかしろ」
 言いがかりにもほどがある。ウルフは武闘神官であるシリルがその腕を認めている。いささか詰めが甘いところはあるが、未熟と言うほどのものではない。だがそれを知っていてもなお、サイファにはそう言うよりなかった。
「努力はしてるって」
 サイファの心など知ってか知らずかウルフは明るく笑ってサイファの髪に手を滑らせた。それから不意にサイファを後ろから抱きすくめる。咄嗟に声は出なかった。
「サイファ、俺は死なないよ。あんたを置いてったりしない」
 突然、呼吸が出来なくなった。回された腕が頬に伸びる。そっと促されてウルフの胸に顔を埋めさせられた。抗うことも出来なかった。
「……人間のくせに。死ぬくせに」
 息が苦しかったからだ。きっとそんなことを言ったのはそのせいに違いない。ウルフを傷つけようとして言った言葉ではない。惑う自分の心を静めるためだった。
「ねぇ、シリル」
「なに?」
「前にさ、聞いたことあるんだけど。偉い神官ってさ、蘇生の呪文が使えるんでしょ?」
「あぁ……まぁ、条件がそろえばね」
 シリルは彼がなにを考えているのか理解した。それが叶わないことだと知っている。けれどウルフにそれを直截に言うことができようか。条件、と濁したのはシリルなりの思いやりと言うもの。
「ほら、サイファ。俺は――」
 なにを馬鹿なことを言っているのか。自分がなにを言っているのか理解していないから、こちらの心を逆撫でする。きつく唇を結んでサイファはウルフを突き飛ばす。
「人間には寿命がある。寿命が尽きる前に死んだならば蘇生は不可能ではない。ただし、それでも失敗することはある。そもそも定められた生命が、いつまであるのか知る術はない。人間は死んだらそれまでだ」
 立ち上がり、マントについた草を払い落とす。
「サイファ」
 珍しいほどの剣幕に呆気に取られたウルフがかける声にサイファは答えない。
 遠く、風が吹いていた。まだここまでは来ない。今日は午後から風が強くなりそうだ。詮無いことを考えている。わかっている。どうしようもなかった。
 黙ってウルフを振り返る。呆然と座っていた。
「人間は死ぬ」
 それだけを言ってサイファは視線を遠くに向ける。
 そう、蘇生に成功したとしても、いずれは死ぬのだ。どんな形であれ、人間は死ぬ。ほんの少し目を閉じていればいい。以前アレクに言ったように。目を瞑っている間にウルフはきっといなくなる。
 それでいい。そのほうがずっといい。
「サイファ。大好きだよ」
 言うに事欠いてなにを言うか。振り向き様に蹴りつけてサイファは唇を噛む。自分の感情くらい、自分で制御して見せろ、それから物を言え。内心にウルフを罵ったサイファ自身、ウルフの死を看取るのが耐えられない、だから彼の思いを避けているという事実にはまだ気づいていなかった。




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