辺りを警戒しながらだから進み方は早いとは言えない。が、慣れたもので少しずつ一行は速さを増していった。どこまでも青い草原が続いている。 「シリル」 不意にサイファが後ろから声をかけた。 「どうしました」 緊張したシリルが応じる。自分にはまだ何も見えていないのに、危険を察知した、と思ったのだろう。その勘違いにサイファは軽く手を振り、そうではないと伝えた。 「体調はどうか、と思ってな」 「あぁ、そういうことでしたか」 ほっと息をついてシリルが微笑う。怪我をした脇腹のあたりを撫でるのは無意識に、だろう。 「完全に治っていますよ。感謝します」 「いや、そうではない」 「と、言うと?」 「気分が悪くないか?」 「まぁ、多少は」 言ってシリルは苦笑したのだろう、後姿から顔はうかがえなかったが、気配でそれと察した。 「ねぇ、なんで? 俺は平気だけど」 シリルにだけ気遣いを見せる、と思ったかウルフは機嫌を損ねた声を出す。前を見たままのアレクが少し、笑った気がした。 「シリルは神官だ」 「だから?」 「僕は特定の神様に仕える身だからね。他の神様の治癒を受けるとちょっと体調が悪くなるんだよ」 笑いを含ませた声でシリルがとりなすのはウルフか、アレクか。そのどちらにも説明するような口調だった。 「んー。神様だったの? 聞いたことないけど……」 「当然だ。お前が知るはずはない」 「どうせ……」 拗ねたウルフに今度こそはアレクが笑う。が、それはサイファを笑っているように感じる。かまう気があるならばきちんとかまってやれ、と言っているように。 「……契約魔法は古い」 諦めてサイファは語り始めた。シリルが解説を待っているからだ、と自分に言い聞かせながら話す。おそらく彼は知っているのだろう、とどこかで思いながらではあった。 契約魔法はそもそもの魔法のはじめ、と言っていい。今の真言葉魔法よりずっと古いものなのだ。神の力を借りる「契約」をし、行使する。だからそう呼ばれる。が、それは神聖魔法とは違って、信仰心とは関係を持たない。 契約魔法を信仰の側面で捉えたものが神聖魔法で、純粋な力として捉えたものが真言葉魔法として発達してきた。 「つまりサイファは神様の力を借りたって事?」 「そうだ」 「んー、でも知らなかった」 ウルフはまだ不思議そうに首をひねっている。それももっともだろう。アルハイド大陸には大小取り混ぜて数え切れないほどの神殿がある。そして人々はどのような信仰を求めるのかは知らなくとも神の名くらいは知っているのが普通だったのだから。 「言葉は変わるものだ」 サイファは言う。時代と共に人間の使う言葉は簡略化され、少しずつ変わってきているのだと。だから古い言葉を若い彼らが知るはずもない。契約魔法は「契約」がなされた時点での言葉を使う必要があるため、サイファは遥か昔の名で呼びかけたのだ。 「んじゃ、今はなんて呼ばれてる神様?」 「あーら、坊やってばやっぱりお間抜けさんね」 「なにさ、アレクはわかったの?」 「わかったわよぉ。シリルだってわかってるわよね?」 「僕は神官だからね。最初からある程度は察していたけど」 アレクのからかいにシリルが苦笑する。そしてウルフに向かって、普通は知らないよ、と言葉を添えた。 「なんか俺だけ頭悪いみたい」 ぼそりと言うのが哀れだったのだろうか。サイファは知らず手が伸びたのに気づいたが止めなかった。手はウルフの髪をいささか乱暴ではあったが、撫でていた。 「サイファ!」 抗議をするふりをしてウルフがその手を取る。取ってそれ以上悪さをしないように、と呟いてはサイファの手を握った。それが大嘘だというのがサイファにはわかっている。剣から伝わるものに頼る必要などない。ウルフの顔が物語っている。 「離せ」 「教えてくれたらね」 「月神サールだ」 「へぇ、なんかびっくりだなぁ。全然違うじゃん」 驚いたふりをしていた。やはり、とサイファは思う。どうやら兄弟は笑っているから騙されたのだろう。剣からはまったく動揺が伝わってこない。ウルフはわかっていたか最低限、察してたのだろう。つまり、その程度の教養はある、と言うことだった。 民衆は神の名を知ってはいても、その象徴までもを詳しくは知らない。契約魔法に編みこまれた象徴を解釈できるのはその神を信仰する者か、あるいは高い教育を与えられた者かに限られる。 ウルフがサール神への信仰を持つとは考えられなかったから、サイファは教育を与えられた、と考えたのだった。それはどこかサイファを落ち着かなくさせた。彼の天真爛漫は演技だ、と思いたくない。それはすなわち自分をも欺いていることに通じるからだった。 「サイファ?」 不安げな声がする。強いてサイファは何事もない顔を作っては首を振った。握られた手が、少し痛かった。 「意外となんにもないわねー」 アレクが周りを見渡している。ただ草原が続くばかりで、最初に見たときのように警戒心を起こさせたものにはまだ出会わない。 ただ、サイファにはそれがアレクの介入だと知れた。お節介な、とも思うがありがたいことに違いはない。沈んだ気持ちのままでいるのは危険だった。まだ、何にも出会わないのであって、すぐそこに魔物が潜んでいるかもしれないのだから。 「兄さん、それやめて」 「もう、兄さんって言わないでって言ってるでしょ」 「はいはい、でもやめて」 「なんでよ」 「アレクがそういうこと言うと、いつもすぐ後になんか出るから」 シリルがそう言って笑った。まったく勘の鋭い兄弟だ、と思う。サイファはひそかに溜息をついた。前を見ているはずなのに、なぜ自分が気分を沈ませたかわかるのだろうか。ウルフだけがまだサイファの手を握ったまま、兄弟のした事に気づかない。 それに少し、ほっとした。少なくとも無邪気を装っているわけではないようだった。高い教養を持つことは知ってしまった。が、だからと言ってウルフはウルフであるに過ぎないのだ。 サイファは内心で首を振る。所詮、人間の若造。どんな過去を持つかなど、自分が知る必要はない。そしてそれに心惑わされる覚えもない。そのはずだった。 「なにをじゃれている」 少しだけ明るくなった気分のまま、兄弟に言葉をかければそろって似たような笑い声を上げる。そして互いに責任をなすり付けていた。 「ほんと仲良しだよねー」 ウルフの声にアレクがきっと振り返り、 「どこがよ?」 冷たく睨む。が、目は笑っている。いつものアレク。しかしサイファにはそれがもう二重三重の演技だと聞かされてしまっているだけに複雑な気分だ。アレクには仲がいい兄弟、そう言われることほどつらい言葉はないだろう。 「だってさ、どこがって言われたってさ」 「いいから前を向け」 「でもサイファ」 「お前もだ。黙って歩け」 紫の目が、わずかに緩む。驚いたようなふりをして何度か目を瞬いたのはきっと涙を払ったのだろう。サイファは当然のように気づかないふりをした。 「サイファ、俺なんか悪いこと言った?」 「喋っているのが悪い」 「でも、飽きるよ」 この若造はここがどこだか理解していないのではなかろうか、一瞬サイファは目をみはる。そして盛大に溜息をついて見せることでウルフに反省を促した。 「ごめん」 小声で言った。本当にわかっているものだか真に怪しい。握った手を離しもしない。そういえば神の名を教えたら離す、と約束させたような気もするのだが、とサイファはいぶかしく思いそのままにさせている自分自身をさらにいぶかしむ。振り払えばいいはずなのにそれができない。片手を取られているのは互いに危険だし、すぐに対処できないのは問題だ。それなのに。 「いい加減に手を離せ」 噛みしめた唇を押し開いてようやく言った。それだけのことを言うのにどうしてこれほど努力しなければならないのか。 残念そうに離された手が風にあたって冷えた。一人でいるときには風が冷たい、と思うことさえなかったのに。 苛立たしげに髪をかけ上げかけ、そして編んでいるのだ、と思い出す。髪を編んだのも久しぶりだった。以前、師と旅をしていたころはまだ未熟だったから反応が遅れて何度も髪が邪魔になった。自分の魔法で髪を焼き焦がしてしまったこともあった。懐かしい思いと共にそれを思い出す。 いま師が存命であったならばこんな自分を何と言うだろうか。この混乱を、師ならば解決してくれるかもしれない。いや、そうはしてくれないだろう。きっとあの青い目を細め優しく笑って何もかも知っている、そんな仄めかしをするだけに違いない。 「サイファ、なに考えてるの?」 ウルフの声で正気に戻った。危ない危ないと言った側から自分がこれでは先が思いやられる。 「因業爺のことを思い出していた」 こらえきれず吹き出したのは、シリル。不思議そうにウルフが見ている。 「サイファ、それは……それは……」 「お前は知らないから伝説の魔術師、などと崇められるんだ」 「それにしても因業爺は……!」 「かまわんだろう。とっくに死んだ人間だ」 また、手が温かくなった。離せと言ったのにまた、ウルフが手を握っている。じろり、睨んでもこたえない。どこ吹く風、と微笑んでいる。 「サイファ、寂しいくせに」 一番、なによりも言われたくないことを、ウルフは言った。無言で手を振り払い、その勢いのまま殴りつけた。 「いってぇ」 頬に赤い手形がついていることだろう。サイファは答えず。殴った自分の手のほうが、ずっと痛かった。 |