ウルフが崩れ落ちようとする体を必死に耐えている。サイファのローブにすがり、なんとか立とうともがいていた。その体の重みがふっと消える。 「なにやってんのよ!」 アレクが飛んできてウルフを支えた。もう一方からはシリルが自分の怪我を押してウルフの肩に手を当てようとする。 その手を止めた。 「もういい、愛想が尽き果てた」 「ちょっと、アンタなに言ってんの」 ウルフに対してだと勘違いをしたアレクが食って掛かるのにサイファは薄く微笑む。続けようとしていた言葉をアレクは呑んだ。 「好きなだけ人間を恨むがいい。このような場所ではなく、人間のいる場所で。こんな所は滅ぶがいい。貴様らに永住の地など、不遜だ」 淡々と言うだけに、サイファの言葉は冷たく響く。決して大きな声ではなかった。が、その場にいた半エルフのすべてに聞こえたことだろう。色めき立つ彼らを意に介さずサイファは続けた。 「シリル」 「はい」 「二三日、気分が悪いと思うが、許せ」 「なにすんの、サイファ。アンタ……」 アレクの抗議をシリルが止める。今はサイファの好きにさせるしかないと思ったのだろう。サイファの怒りの激しさに、シリルまでもが青い顔をしていた。 心持ち顎を上げ、サイファは深く呼吸をする。掲げた両手の先に光が灯る。振り下ろせばそれは仲間を囲む光の筋となった。正確な円を刻んだ光の中、複雑な文様が浮かび上がる。それが何か理解したのはシリルだけだっただろう。かすかに息を呑む音が聞こえた。 「古の契約に基づき我が手に宿れ。鍵を持つ者。銀の月――」 文様が閃光を放つ。輝きを浴びた半エルフたちは一様に目を覆っていた。 「――すべての生きとし生ける者の生死を司るサレルよ。その力持て……」 あとの言葉は聞こえなかった。轟音があたりを圧し、一行を囲んだ光は目を焼くまでに強くなる。倒れ伏す一行の中、ただ一人サイファだけが天を臨んでいた。 「サイファ……」 弱い声。ウルフが立ち上がる。そして立ち上がったことにはっと気づいては自らの肩を見るのだった。 「治ってる……」 呆然と呟いた。今まで何度となくサイファはウルフの傷を治している。その度に自分は治癒が得意ではない、と言っていた。それなのに今、あれほどの酷い傷が完治している。それどころか、鎧の綻びまで直ってしまっている。シリルを見れば明らかに畏怖の表情を浮かべてサイファを見ている。彼の傷もまた、治っているに違いない。 「アンタ、なにやったのよ」 言葉もない弟に代わってアレクが口を開いた。その声がわずかに震えている。 「治した」 「って、アンタ!」 アレクが声を荒らげる。彼が見やった方をウルフは見た。そしてサイファの腕をきつく掴む。 「サイファ!」 怒りだろうか。否、悲しみに違いない。ウルフはそういう人間だった。サイファはそっと微笑む。 「死んではいない」 一行の目に映ったのは、倒れたまま動かない半エルフの一群。サイファの魔術によって精気を吸い上げられていた。それを束ね上げてサイファは仲間の傷を癒す道具に変えたのだった。非情な遣り口だった。サイファとて、怒りに我を忘れていなければ使うことのなかった魔法だった。点々と倒れる半エルフを見るのは、あまり心躍ることではない。もがいている者も数少なくとも確かにいるから、サイファの言葉は正しいのだろう。だが。 「酷いよ、サイファ。いくらなんでも……」 掴まれた腕が痛かった。ウルフがうつむいて唇を噛みしめている。 「半エルフは丈夫だ。すぐに戻る」 「でも!」 抗議をするウルフの目は濡れていた。サイファは黙って目を閉じる。嬉しかった。自分の行為にウルフが怒っている。それが、理由はわからないのにどうしようもなく、嬉しかった。 「……優しいな、お前は」 ぽつり、言うつもりのなかった言葉がサイファの唇から滑り出す。痛いほどだったウルフの手が緩む。それから手の中に滑り込んでサイファの手を握った。目を上げなくともわかる。ウルフは笑ってなどいない。ただじっと自分を見ているだけだろう。和らいだ視線だけをサイファは感じていた。 「サイファ」 シリルの不安げな声にサイファは心づいて目を開ける。 「なんだ」 「彼らは、大丈夫なのでしょうか」 「多少、気分は悪いだろうがたいして害はない」 「ですが、これほどとは……」 「契約魔法は、正直なところ精度に欠けていけない。あまり使いたくはないんだがな」 実際、魔法陣の外に存在するすべての生命体の精気を奪う必要はなかったし、その全部をひねりあげ叩きつけて治癒に換えるなどと言うやり方は優雅さに欠ける、とサイファは思うのだが契約魔法はそういう点が巧く働かない。 「……普通は使えません」 呟くようなシリルの苦情にサイファは笑い、そう言うな、とたしなめる。 「時間だけはいくらでもある。建設的なことに使うべきだ」 「半エルフの一群を全滅とか?」 アレクの口出しにサイファは嫌な顔をし、そして笑う目に出会っては苦笑を返す。 「出て、行け……」 その時、声が聞こえた。見れば隻腕の男。這いずりながら一行を睨んでいる。 「サイファが無茶して、ごめんなさい」 謝ったのは咄嗟のことだったのだろう。素直すぎる無邪気な性格が現れていた。自分を撃った者に対しても、こちらの非を詫びることができるウルフ。こういう人間もいる、と知ることのなかった半エルフの一群が悲しかった。 ウルフが勢いよく下げた頭を隻腕の男は言葉もなく見ていた。それから唇を引き締める。人間など信じない。その顔が如実に語っていた。サイファは改めて、無駄を知る。 「ほう、さすがに回復が早い」 ウルフが握った手が熱くなる。言葉にしないで止めたウルフをサイファは無視し、呼吸をひとつ。 「このような場所があるからいつまでも古い恨みをひねくり回す。貴様らには吐き気がする」 強く握られた手をそっと振りほどく。かすかに微笑んで見せ、危害は加えない、と無言の約束を。 口の中、隻腕の男に聞き取れないよういくつかの言葉を呟く。ローブの影で呪文を拡大し、維持する。 「さあ、滅びるがいい」 まるでアレクのよう、艶然と微笑んで見せた。隻腕の男がはっと体を起こす。それから魔法を編み上げた。それを確認してからサイファは呪文を放った。 まだ土埃が舞い上がっていた。咳き込んではアレクが嫌な顔をしている。 「私のせいか?」 「アンタ以外の誰のせいだって言うのよ」 「そうは言うがな」 言い募ろうとしたサイファに向かってアレクはじろりと視線を返し、それから彼方を見やった。丘がひとつ消えていた。時折、凄まじい音を立てては岩が崩れ落ちている。 「アンタのせいでしょ」 アレクの言葉に答えるよう、また丘が崩れた。 「まぁ、その辺にして、ね?」 シリルの制止にようやくアレクは言葉の矛先を収め、盛大に溜息をついて見せた。 「実際、いささか呪文の制御が甘くなったことは認める」 「あれで?」 まだ呆然とウルフが丘を見ながら言った。 「だって、あの丘、俺たちが登った丘だよね」 「そーねー」 「なくなっちゃったよ」 「サイファがね」 「すごかったよね、サイファ」 「そういう問題?」 皮肉に言ったがウルフはきかない。爆発の威力の凄さを思い出したのだろう、身震いしてサイファを見ている。 「凄いや、サイファ!」 けれど言葉に影があった。 「なんだ」 「……あの人たち、大丈夫だったかな」 「障壁を張る時間は与えた。無傷だ」 「断言するね?」 「確認したからな」 「え……」 「あの場所に住んでいた生き物のすべての数と脱出した数が同じだ。つまり全員生きている、と言うことだ」 「サイファ、そんなことしてたの?」 「……しなければお前が怒ると思った」 言いたくなかったが、事実であっただけにサイファは告げる。そして案の定、自分の言葉で窮地に陥る。声もなくウルフが抱きついてサイファの息を苦しくさせた。 「離せ、苦しい!」 「やだ」 「離せ!」 「サイファ……ごめん。嬉しい。すごい嬉しい」 自分より小柄な人間の若造に抱きしめられて、サイファは動けない。頬の辺りに赤毛が揺れている。 「坊や、離してあげなさいよ」 「やだ」 「サイファ、目が虚ろになってるわよ」 笑いを含んだアレクの声に、ウルフは慌ててサイファを離す。苦しがってのこととでも思ったのだろう。サイファは触れ合っている、と言うそのこと自体に眩暈がしていたのだが、勘違いでも何でもかまわない。離してくれてほっと息をつく。 「ごめん」 大丈夫、と見て取ったのだろう。喉の奥で笑ってウルフが詫びた。サイファは答えずあらぬ方を見やる。 目の前に草原が広がっていた。何事もなく丘を超えてくれば着いたであろう場所に一行は立っている。まだ舞い上がる土埃に顔を顰めて口許を手で覆った。 青々とした草原だった。細くうねる小道が一行を誘うよう、遠くへ、シャルマークの奥へと続いている。 「これって罠よね」 ようやく気を取り直したのか、アレクがサイファの視線を追って言った。 「だろうな」 「なんで?」 「坊やー、頭を使いなさい、頭を」 「使ってるもん」 「どこが?」 ウルフは唇を尖らせてサイファを見る。代わりに反論しろとでも言うのだろうか。サイファは答えず遙かを見る。視界の端でシリルが笑った。つられてサイファの唇も緩み、次いでとばかりウルフの赤毛をかき回す。 「サイファ!」 ウルフの抗議を耳に心地良く聞いてサイファは後ろを振り返る。崩れ続ける丘の向こう側、蛇の沼を越えた辺りに半エルフは降りただろう。前途が多難なのはわかりきっている。だが、思う。今後、彼らに善き出会いがあるように、と。 |