手の中に、冷たいウルフの手がある。それがどことなくくすぐったい。ただ冷たい手で触られるのが嫌だからだ、と自分に言い訳をし、だったら温めずとも振り払えばいいこと、内心の誰かが言う。そしてその声を聞かないふりをしているもう一人の自分がいる。
「サイファ」
「なんだ」
 問いかけに、素直に答えられた。心のささくれが、見事に消えている。気持ちの変わり方がずいぶん早くなった。人間に慣らされてしまったのかもしれない。
「サイファってさ、半エルフとしても綺麗な方?」
「……あのな」
「なに?」
 仮にそうであってもそんなことを答えられるか、と思いはした。が、言うだけきっと無駄なのだろう。少し笑って溜息をつき、サイファは答える。
「おそらく標準的だと思うが」
「ふぅん」
 サイファの答えにウルフが不満そうな声を上げる。そうは思っていない、と言うあからさまな表現だった。これ以上会話を続ける危険を悟ったサイファが話をそらそうとした。が時遅し。
「でもあの半エルフより、ずっとサイファは綺麗だよ」
「……敵意があるからだろう」
「違う、そんなんじゃないもん」
 誤魔化そう、としたが果たせなかった。サイファにはなぜウルフの目にそのように映るのか理由がわかっている。だから、あまり突き詰めて話したくないのだ。
「たぶんさ……」
 そう言いさしたウルフの手が温かくなる。サイファの手の中、熱を持ったように。あるいはそこで飛び起きてでも口を塞ぐべきだったのかもしれない。
「俺、サイファのこと好きだからそう思うんだよ、きっとさ」
 返す言葉がなかった。否定は何より無駄だったし茶化せば怒るだろう。ウルフに自覚されるのは困る。否、困ると言うよりももう少し、今のままでいて欲しいと願っている。サイファには、好悪など決められないのだから。いや、それも違う。サイファは思い直す。決められないのではなく、決めたくないのだ、と。
「あ、やだな。サイファ」
「なにがだ」
「そのさ、変な意味じゃないから! 違うから!」
「……それは良かった。うっかり消し炭に変えてくれようかと思っていたところだ」
「もうちょっと、生きていたいなぁ、なんて思ってんだけどな」
「だったら不穏当な発言は控えろ」
「はい、よくわかりました。ごめんなさい」
 謝ったくせに、笑っている。間違いなく、ウルフは「変な意味」で言っていたのだとサイファはわかっている。それを変だと思っているうちはまだ、安心かもしれない。気づかれないようほっと息をつく。せいぜい葛藤して欲しいものだとサイファは思う。異種族だとか、そもそも同性だとか、考えるだけ考えて欲しい。そのうちにきっと、考え飽きて自分のことなど忘れるだろう、と。
 その方がずっとずっと、楽だった。
「ちょっと寝たら?」
 ウルフの手が自分の手の中から抜け出して、目許を覆った。薄い闇が降りる。
「あぁ」
 そう返事をしたものの、サイファに眠るつもりはなかった。あの半エルフの敵意がある以上、なにが起こっても不思議ではない。傷を負ってもそうそう死なない一群がそこにいるのだ。人間の戦士たちにとっては荷が重すぎる。そう考えてサイファは同族である彼らを敵として見ている自分に気づくのだった。
 だから考えを違う方へと振り向けた。まぎれもなく敵ではあったが、あまり気持ちの良いものではなかったから。
 ウルフが自分を好きだと言うのは兄弟にこそ、問題があるのだ。八つ当たりめいてサイファは思う。アレクは確かに美しい女の格好をしてはいるが、ウルフとて彼が男であるのはわかっている。おそらく理解もしているだろう。
 それなのに彼らはそれ以上の関係だった。いくら幼いウルフであっても、薄々は察しているのだろう。それが問題なのだ。旅をする仲間、と言う狭い関係性の中で兄弟でありかつ否定してはいるが恋人同士である、そんな二人がそこにいる。これではウルフの人間としての常識が狂っても致し方ない。
 半エルフのサイファはそもそも恋愛感情と言うものにあまり縁がない。ただ、同族の話を聞く限りでは恋をした半エルフと言うものは相手の種族も性別も超越してしまうものらしい。普段縁がないだけに恋をしたら最後、見境がなくなると言うのは充分にあり得ると、いまだ恋を知らないサイファは分析していた。
 そしてサイファは喉を詰まらせた。知らずうちにウルフを恋の相手として想定している自分に気づいて愕然とする。そんな気はまったくなかった。若造の恋心にあてられて、まるで自分までそんな気になってしまっただけだと、うろたえる。
「サイファ、どうかした?」
 体を強張らせたのに気づいたのだろう、ウルフの気遣わしげな声がする。
「なんでもない」
「本当に?」
「嘘ではない」
「そういう言い方って、ちょっと信じにくいんだけどなぁ」
 明るく言ってのけたのは、きっとウルフも緊張しているせいだろう。そう思えばなおのこと落ち着かなかった。
「信じろ」
 たいした意味はない。言葉通りの意味だった。が、サイファは失念していた。それがウルフにとって、どう聞こえるか、と言うことを。
「うん、サイファは信じてるよ。大好きだしね」
 また、眩暈がしそうだった。正に自業自得で、罵る相手もいないのがたまらない。
「ちょっと言い方が信じらんないときはあるけどさ」
 笑ってウルフが髪を引っ張る。ただそれだけで止めて欲しかった。
「痛い」
 抗議をすればへらへらと頭上で笑っている。いつものウルフだった。それでいい、サイファはほっとする。なにとなく、ウルフが「普段」を演じているような気がしなくもなかったが、今はとりあえず無視することに決めた。
 半エルフの一群に敵意を持たれていると言うのにこんなことをして遊んでいる暇はないのだ。シリルの具合が気にかかる。兄弟を見ればずいぶん顔色も良くなっているように見え、当面の危機は去ったと思いたい。そう息をついたはずの自分があまりにもなおざりで、驚いた。もっと心配してしかるべきだろうに。
「なんかさ、アレクとシリルって仲良しさんで羨ましいよね」
 ウルフの言葉が胸をえぐった。
「兄弟だからかもしれないな」
「どうかな?」
「そういうものではないのか?」
「半エルフって兄弟いないの?」
「いないわけではないが、多くはない」
「ふうん。ま、でも人間だって兄弟だから仲がいいとは限んないしね」
 言葉を切ったウルフに、続きを促すようなことはしなかった。おそらくウルフにも兄弟がいるのだろう。そしてあまり仲がいいとは言えないのだろう。
「俺さ、兄弟って言うよりあの二人が羨ましいって思うことがあるよ」
 それはあの親密さだろう。口喧嘩を繰り返し、恋人ではないと言い続け、そしてそのことに苦悩しているアレク。それでもなお、あの二人は完成された一対のように見える。ウルフはそれを羨ましい、と表現した。サイファとて、そう思うのだ。ウルフほど曖昧な見方ではなかったが、だからこそ、他者を必要としない二人を羨望する。
「そうだな」
 だから、多くを言えなかった。ウルフに言えばまた話が面倒だ。それ以上に、自分が怖かった。人間に期待しすぎるとどうなるか、もう嫌と言うほど味わってきたはずなのに。
 サイファはあの半エルフたちを嗤えない。彼らの気持ちもわかる。だから怒りたくなる。若き日の自分を見る思いがするせいだった。人間に対する憎悪だけがあった日々。師に会っていなかったならばサイファの今はここにあったかもしれないのだ。無言で指輪に触り、深い瑠璃色の石を眺める。ふっと視界が遮られ、ウルフの手に手が覆われていた。
「サイファ」
 幼い嫉妬。わけもなくそれが嬉しい。人間の感情の激しさを浴びているのは楽しいからだ、サイファは心に言った。
「なんだ」
「別に」
「そうか」
「うん」
 サイファがただ返事をした。それだけでウルフの機嫌は良くなる。上がったり下がったり忙しいことだ、そうサイファは見えないよう顔を伏せて笑う。頬に当たるウルフの体のぬくもりが胸に迫る理由だけが、サイファには解せないものだった。
「ねぇ、サイファ」
「だから、なんだ」
「うん、あのさ……」
 珍しく言い淀んだウルフを思わず膝の上から見上げてしまった。この場所に来たときから寸分も位置を変えていない太陽が、ウルフの赤毛を彩っている。
「どうした」
 見上げてから、しまった、と臍を噛む。赤毛の影で揺れている茶色の目が、あまりにも澄んでいて吸いつけられてしまった。シリルの、いかにも誠実そうな目とは違う。同じような色合いの茶の目なのに、ウルフの目は澄みすぎている。
「サイファ、落ち込んでるよね?」
 そっとウルフが口を開いたのは、それから少し経った後のことだった。
「……そう見えるか?」
「うん」
「そう、かもしれない」
 サイファは知っていた。自分が落ち込んでいることなど疾うに知っていた。けれどウルフがそれを察しているなどとは思っても見なかった。
「私は情けない」
「なにが?」
「あのような半エルフがいることが情けない」
「でも、つらい目にあったんだと俺も思うよ」
 さっきアレクも言ってたけど。そうウルフは続ける。サイファが言いたいのはそんなことではなかった。それを思った途端、気恥ずかしくて言うに言えなくなってしまった言葉。
「俺たちに武器を向けたのが、気に食わないんだ。サイファ?」
 ふっと笑った。時折見せる、妙に大人びた目。この目を見るたびにサイファは普段の無邪気さは演技ではないのかと疑いたくなる。
「仲間に武器向けられて怒るサイファって、なんかいいな」
 喉の奥で小さく笑い声を上げ、ウルフはサイファの頬を指でつついた。
「馬鹿か、お前は」
 小声で罵ってウルフの指を払い落とす。が、サイファは内心で微笑んでいた。自分の思いを正確に読み取ったウルフが、今は嬉しかった。




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