先に立って歩くアレクの影を踏みながらサイファは後に続いた。木立の間を抜ける光が下草までも緑に染め上げているような気がする。静かだった。
 二人とも黙ったままだった。サイファもアレクが口を開くまで何かを問うつもりはない。アレクが黙っているせいで、なんの用だかおおよその見当がついたせいでもあった。
「ねぇ」
 少し離れているから、残してきた二人に声は聞こえないだろう。それでもアレクの声は小さかった。振り返ったアレクは迷い、それから木にもたれて口を開いたのだった。その迷いを表すよう、アレクはひとつに編んだ金の髪を手前に回し指でもてあそんでいる。シリルが綺麗に編んだ髪だった。
「なんだ」
 我ながら無愛想な声だ、サイファは苦笑する。正直に言えば、口を出して欲しくないのだ。それが顔に出ているのだろう、アレクもまた苦笑いをして言う。
「アタシだって口出ししたくはないんだけどね。そういう約束だったし。でも坊やを見てたら可哀想で」
「どこがだ」
「あんなにアンタのこと好きじゃない。アンタだって好きなんでしょ?」
 サイファは絶句した。返す言葉がない。なにをどう答えたものか迷ううち、知らず指が手近な木の葉を摘んでいた。
「そんな風に見えるのか」
「違うの?」
「……わからない」
「自分のことじゃない」
「そうは言うがな」
 困っていた。まさかアレクがそのような目で見ていたとは想像もしなかった。大方ウルフのことで何かを言われるのだとは思っていたが、よもやこのようなことを言われるとは。
「好きじゃないの?」
「人のことに口出しする前に、自分はどうなんだ」
「アタシ? 平和にやってるじゃない」
 あえてそらした話題にアレクは苦い口調で答える。けれど顔は笑っていた。サイファはごまかされない。ただじっとアレクを見るだけだった。
「アタシはね、卑怯なの」
 ふっとアレクが目を遠くに向けた。微笑んでいるくせに哀しげで、はじめてアレクがどれほど真剣に弟を想っているか、知った。
「シリルは流されてるだけよ。別にアタシを好きなんかじゃない。それでいいの。あの子にほんとに好きな女ができたら別れるって、言ってあるし」
 こちらを向いたアレクの目ほど、胸を打つ人間の目を見たことはなかった。
「つらいくせに」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、なぜ」
「アタシはシリルが好き。でもこっちの気持ちを悟られたらアタシはおしまい。あの子はアタシと兄弟だってことも嫌うようになるわ。ううん、憎みさえするでしょうね」
「信じてみたらどうだ」
「アンタこそね」
「それはどういう……」
「そのまんま。坊やを信じてあげたら?」
 答えられなかった。サイファは無言で木に寄りかかり視線を空に向ける。木立に邪魔されて見えなかった。
「私は人間の世を見すぎた。神人がいたころは半エルフまで崇められた。こちらは半分は人間だからな、それはそれで不愉快だったが……神人がいなくなった途端、掌を反すように迫害された」
「嫌だったでしょうね……」
 生まれはアンタのせいじゃないのにね、アレクのその言葉にサイファは目を向ける。そんなことを言った人間も、はじめてだった。
「嫌、と言うより……そうだな、うまく言えないが人間の態度のどちらも見た私は種族としての人間の感情を信じることができない」
「見たって、アンタ幾つなのよ」
「幾つだと思う?」
「千歳は越えてるんでしょ」
 不思議そうなアレクに向かってサイファは微笑う。
「千六百と少しだ。むしろ七百のほうに近いが」
「少しって、自分の年じゃないの」
 呆れるアレクにサイファは苦笑する。それから思いついて問うてみた。
「お前は幾つだ」
「なによ、急に。……二十四だけど」
「二十四と何ヶ月だ。何日になる」
「そんなこと言われたってすぐには……なるほどね。アンタにとって一年ってそういうことなのね?」
「まぁな。そもそも人間のように一年一年数えて何になる。殺されない限り死なないのだから数えるだけ無駄だ」
「それもそうか」
 妙なところで納得するアレクにサイファはかすかに微笑んだ。サイファは人間を信じられない、と言った。アレクもそこに含まれるはずだった。が、彼はそうは思っていないらしい。自分は仲間で特別だ、とでも思っているのだろうか。それでも良かった。ウルフのようにしつこく絡まれるよりよほど良かった。
「坊やを、好き?」
「だから」
「信じようと努力してみてもいいと思う。坊やはお馬鹿なだけにまっすぐよ」
「十年後は? 五十年経ったら? 人間には長い時間だろう。私には瞬きするほどの時間でしかない」
「それは、そうだけど……でも」
「いずれにしても、人間は死ぬ」
「アンタを置いてね」
 言葉の含みにサイファはまたも答えを失った。ウルフに置いて行かれるのがつらいのだろう、と問われた。たぶん、つらいのだ。だから信じたくない。好きだとか嫌いだとか、そう決めることさえ避けたいのは、そういう理由かもしれない。
 サイファは何かを振り払うよう、首を振る。考えたくなかった。ほんの少し目をつぶっていればウルフは人間の誰かを好きになるに決まっている。思い出したころにはきっと、ウルフは土に還っている。そのほうがずっと楽ではないか、そう思うのだ。
「瞬きするだけの時間だったら、その間だけでも坊やと幸せになったらいいのに」
「自分のことを棚に上げてよく言う」
「どこがよ? ちょっとだけでいいの。ほんのちょっとシリルと一緒にいられて、アタシは幸せよ」
「そう見えるなら、私も言わない」
「見えない? 目が悪いんじゃないの」
 言ってアレクは明るく笑った。閉ざされた目が、笑い声を裏切っている。そのせいかもしれない。そんなことを言う気になったのは。
「シリルを失うのが怖いお前なら、私が人間を信じるのが怖いと言うのも、わかってくれると思うが」
 サイファの言葉に目を見張ったアレク。不意に眼差しが和み、けれど頬は引き攣れた。
「怖い……。ちょっとはわかる気はするわ」
 視線を落としてアレクは嗤った。誰よりも自分でそれを一番よく知っているのだろうから。その意味でアレクとサイファは同類だった。誇り高く容易に本心をうかがわせない。けれどその誇りの高さは他者を信じることができないからだと本人だけは知っているのだ。
「お前は私があの若造に惹かれているように見える、と言った」
「違うとは思いもしなかったわよ」
 動揺を隠すためなのだろう、茶化して言うアレクの心がいまは手に取るようにわかる。方法は違っても、似ているのかもしれない、とサイファは内心で苦笑する。
「私の目には、シリルはシリルなりにお前を愛しているように見える」
「そりゃそうでしょ。アタシの弟だもの」
「そういう意味ではない。わかっているくせに」
「アタシが悪うござんした。もう口出ししないから勘弁してよ」
 ふっと笑ったアレクの柔らかい紫の目が潤んだように見えた。気のせいかもしれない、そう思い直したとき、アレクが瞬きをしているのを見てしまった。明らかに涙を払う仕種だった。
 視線をそらしたサイファは密かな溜息をつく。こういう話は苦手で息が詰まる。ローブの喉元に手をかけて風を入れれば少し、呼吸が楽になった気がする。
「アンタ、誰か好きになったことってあるの」
 今しか機会がない、と思ったのだろう。アレクは追及の手を緩めなかった。まるであの若造のようにしつこい、と思ってもアレクにならば若造よりは楽に答えられる。それをサイファは自覚していなかった。
「ない」
「やけにきっぱり言うじゃない。人間じゃなくってもよ?」
「それでもないものはない」
 見ればアレクは唇を尖らせている。サイファの答えがおざなりなものだと感じたのだろうか。だからサイファは苦笑して言葉を続ける。
「元々半エルフはそういう感情に疎いからな」
「そうなの?」
「そうでなかったらとっくに数が増えているだろう。なにせ寿命がないのだからな」
「あぁ……言われてみれば」
 ひとしきりうなずいて、それからアレクはにたりと笑う。思わずサイファは一歩を引いていた。
「だったら、これから味わってみるのも悪くないかもよ? つらくて苦しいけど、ちょっとは幸せよ」
「……私は被虐的な趣味はないのだが」
「色恋も知らないくせになぁにが被虐よ!」
 実にもっともなことを言ってはアレクが大笑いする。返す言葉もないサイファはアレクを見つめ、それからつられたように笑い出していた。
「アンタ、笑った方がいい」
「なにがだ」
「そのほうが魅力的って言ってるの。誤解しないでね、アタシにはシリルがいるんだから」
 そう言ってわざとらしく両手を胸の前で組んでは小首を傾げて見せる。
「誰が誤解するか!」
「坊やに見せてあげたら喜ぶのになぁ、その笑顔」
「絶対に嫌だ」
「頑固に言うって辺り、ちょっとは見込みがありそうねー」
「なんの見込みだ、なんの」
「べーつにぃ」
 ちらり、悪戯をするような顔をアレクが見せる。質は悪いがいい仲間だ、とサイファは思った。あるいは人間を信頼すると言う過ちをまたもや繰り返しているだけかもしれない。裏切られたとしても所詮、小さな傷がひとつ増えるだけのこと。それならばそれでもかまわない。もう数多くの裏切りにあってきているのだから。
 けれどその程度の信頼しかできない自分が少しだけ、寂しいとはじめてサイファは思う。全身全霊をかけて信じられる人間など、ただ一人しかいない。そしてもうその人間はいない。だから、深く信頼する前に別れるべきだ、どこかで声が聞こえる。だが、サイファはその声を黙殺した。もう遅い、と。
「サイファ!」
 アレクの声で正気に返る。咄嗟に走り出したアレクの後をサイファも追っていた。向こうで鋼同士を打ち合わせる音がしている。
「聞こえた。何かあったようだ」
 走りながら言えば、前でアレクがうなずく。その背中が緊張に強張っていた。跳ね上がる金の髪までぎくしゃくとしているように見えたのだった。




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