ぬかるんだ地面は沼地よりは歩き易いとは言え、今度は冷たい清水が足を凍えさせる。泥で冷え切ったところに清水では、さすがの一行も体の芯から冷え切ってしまってつらい。
 座ることもできずに歩き続け、白々と夜が明けたのにも気づかず黙々と歩を進めるばかり。
「あれ」
 ずぶり、とした感触が足から消えた。はじめにそれを知ったのはシリル。ふと心づいたよう、辺りを見回し驚きに目をみはる。
「どうしたのよ」
 不機嫌なアレクの声に、シリルは答えず彼の腕を引いた。
「うわぁ、綺麗だな」
 兄弟の後ろからウルフが歓声を上げる。一行は丘を登り終えていた。
 そこには静かな水をたたえる湖があった。一行が登ってきたのとは反対側に滝があり滔々と水が流れ込む。そして一行の側からあふれ出た水が細い、小さな流れとなって下の沼地に注ぐのだった。
 湖の周囲は絶好の野営場所と言ってよかった。適度な木立に囲まれていて、下は砂地でよく乾いている。あの沼沢地を超えてきたことを思えば宿屋のベッドにも劣らない素晴らしい場所だった。
「サイファ、気持ちいいよ!」
 飛び出して行ったウルフが水に手を浸して喜びの声を上げる。
「こら、坊や。あたりを確認してからにしなさいってば」
 たしなめるアレクの声も弾んでいる。シリルが苦笑しながらうなずき、周囲に危険はなさそうだ、と告げればやはり同じような声を上げて水を跳ね上げた。
「ちょっと、びっくりよ」
 湖のほとりでアレクが二人を呼ぶ。
「この水、あったかいくらいだわ」
「え、本当に?」
「シリルも触ってみなさいよ」
「あ、本当だ。サイファ、冷たくはないですよ」
「ほう、面白いこともあるものだ」
 水に軽く手を浸してサイファは口許を緩めた。湖から流れ出る水は凍えるほどに冷たいというのに、この水は仄かに温みがあるのだ。
「これは、水浴びしない手はないわよね」
 嬉々としてアレクが提案する。一行は改めて自分たちの姿を見た。誰も皆、泥まみれでいつ飛んだものか顔までも点々と泥が散っている。
「ひっどいもんよねぇ」
「まったくね」
 兄弟が笑いあっていそいそと火を熾す準備を始めている。手早く薪を集めたかと思うと、シリルがさっさとそれに火をつけ、あっという間に焚き火が勢いよく燃え始めた。
「さて、これでよし」
 満足げアレクが言い、にんまりと笑う。サイファはその笑顔に不安を覚えた。
「なにをするつもりだ」
「なにって、そりゃ水浴びでしょ」
「水浴び」
 確かに全員が泥だらけだ。サイファとて汚れはぬぐいたい。が、しかし非常に気になることが無きにしも非ず。
「坊やもおいでー」
「やった!」
 サイファがためらっている間に兄弟は鎧も服も脱ぎ捨てて下帯ひとつで湖に入ってしまった。当然ウルフも続いている。
「サイファ?」
 ここに危険な魔物はいなかった。シャルマークの内だと言うのにこんな安全な場所もないと思えるほど、理想的な野営地だ。だが、なまじの魔物よりよほど危険なものがいたとは。サイファはアレクの微笑に悪魔を見ていた。
「気持ちいいよ、早くおいでよ」
 無邪気と言うか考え無しと言うかウルフまでもがサイファを誘う。午後の光にアレクの解いた金の髪が水にたゆたって美しかった。
 これ以上、拒むのは反って不自然。そうサイファは諦めてローブを脱ぐ。かすかにぬくもりのある水が肌に心地良かった。
「サイファってほんと綺麗だよねぇ」
 水を跳ね上げて寄ってきたウルフが感嘆の声を上げ、水に泳ぐ黒髪を手に取る。
「止せ」
「いいじゃん、けちー」
「誰がけちだ!」
「サイファが」
 喉の奥で笑うウルフの向こう側、兄弟が水遊びをしている声がする。すぐそばに人間がいる。そのことにはっとするほどの羞恥を覚えた。
 種族的な特徴、と言っていいだろう。半エルフは肌をさらすのを好まない。数少ない同族の間ですらそうであるものを異種族に見られているというのはサイファにとっては身の置き所がないくらいに恥ずかしいことなのだ。ただ、それを悟られるくらいならば死んだほうがまだしも、と思うのもまた半エルフであった。寿命を持たない身であるにもかかわらず。
「サイファ」
「寄るな」
「いいから。髪にまで泥が飛んでるんだってば」
 ウルフがこだわりもなく背伸びをして髪を洗ってくれている。眩暈がしそうだった。
「サイファ、ちょっとかがんで」
 言われるままに水の中、腰を下ろす。ゆったりと動く水が腰の辺りに波打つのだけを感じていた。恥じらいに硬直したサイファには抗うと言う意識すら欠けていた。
 無骨な戦士の手が自分の髪を洗っている。人間の、それも若造が。知らず持ち上がった手が額を押さえる。
「どうかしたの。疲れた?」
「……いや」
「そっか。こっち向いて」
 若造の指が顎先にかかる。仰向けられた、と思ったら荒れた指が顔の泥を丹念に洗う。乾いた泥は中々落ちなかった。
「ちょっと照れるからさ、目、閉じてくんない?」
「……は?」
「やっぱ、いいや」
 ウルフが笑って目を細める。見られている、と言う強烈な意識。背けようとした顔はやんわりと、だがしっかり押さえられていて、ただ目をそらすことしか出来なかった。
「ほんと綺麗……」
 うっとりとウルフが頬に指を滑らせる。荒れた指先が肌に痛い。
 半エルフは確かに美しい。人間の片親を持つにもかかわらず肌は透明なまでに白く、その下に赤い血が流れているとはとても思えない。肌理の細かい肌はそれだけで芸術品のようだ。痩身優美で丈高く、人間と同じように骨の上に筋肉がついているはずなのに、その一つ一つが細心の注意を払って作り上げたかに繊細だ。だがそこにあるのはまぎれもない男性の体だ。丸みもなく柔らかくもない。ただ、人間の目には一見、天上の美姫にも見えるのだが。
 しかし、それは単なる種族的特徴であった。だからサイファは自分の姿形に興味などない。半エルフとしては平均的な体型と顔なのだから。
「私は置物か何かではない」
 機嫌を損ねてあらぬ方に目をやるサイファのことをウルフが笑う。
「当たり前じゃん、生きてるから綺麗だって言ってんのに」
「綺麗、綺麗と……」
「うーん、大好きだから綺麗だと思うのかなぁ。俺そういうことよくわかんなくって。うまく言えなくってごめんね」
 ただでさえ混乱気味のところにこれはとどめだった。さっと肌が羞恥の色に染まった。
「うわ、ほんとサイファって!」
 なにを言おうとしたのかはわからない。飛び掛ってきたウルフを水の中に叩き落すのが精一杯だった。
「よせ、近寄るな!」
「やだ!」
 嬉々として、おそらく本人は水遊びの一環とでも思っているのだろう、ウルフはめげもせず水から這い上がりサイファに抱きつく。水中に腰を下ろした姿勢でそれをよけるのは不可能だった。肌と肌が触れ合っている。嫌悪ではない別の何かがサイファをたまらなく動揺させた。
「離せ!」
 言った途端、仰向けに倒れた。水の中から空が見える。ゆらゆらと光る青が美しかった。
「サイファ! 大丈夫?」
 片手で引き上げられ、ようやく水中で目を上げたまま呆然としていたのだと知る。
「大丈夫だから、頼むから離してくれ」
「……そんなに嫌?」
 不安そうな声。すぐ傍らで聞こえた。どう説明していいものか悩む。サイファ自身、説明のしようなどないのだから。サイファにもこれがただの種族的な羞恥なのかそれともそれ以上なのか、判断はつきようがない。
「嫌と言うか……」
 なにをどう言うべきか。目を上げた向こう側、アレクが少し口許を緩めていた。
「サイファ、坊やの首んとこ洗ってあげて。自分で見えてないみたいだから」
「どうして私が!」
 半ば悲鳴めいた声を上げ、サイファは拒絶する。せっかくの助けの手だと理解していても反発してしまうのはどうしようもなかった。肌をさらしたままこれほど側に寄られているのだけでも感覚的な苦痛だと言うのにまして触るなど。
「サイファ……」
 半泣きの声が呼ぶ。別にウルフを嫌っているとか、ウルフ個人を触りたくないとかそういうことではないのだが、完全に混乱したサイファは説明の言葉を持たなかった。
「ウルフ」
「なに……」
「サイファはね、別にウルフが嫌いなわけじゃなくってね、半エルフって元々裸を見られるのがすごく苦手なんだって言うよ」
「なにそれ、シリル。ほんと?」
「本当、みたいだね」
「知ってるなら、さっさと止めろ!」
 ウルフの問いとサイファの叫びが同時だった。
「へぇ、そうなんだ?」
 アレクが悪魔の笑いを浮かべて泳ぎ寄ってきた。と思う間もなく抱きつかれた。肌が触れる感触に悲鳴を上げたくなるのをこらえ突き飛ばそうとする。と、もうひとつ。
「だめ、アレク!」
 いつのまに背後に回ったものか、ウルフが後ろからサイファを抱き寄せアレクから引き離した。視線を落とせば自分の体を抱きかかえる戦士の腕がそこにある。今にも失神したくなるような羞恥に耐えサイファは振り向いて、笑った。
「さっさと離せ。腹に風穴開けられたいか」
 震える唇からもれたのは、獰猛な男の声。サイファの、精一杯の虚勢だった。
「サイファってほんと可愛いこと言うよね」
「坊や、どこが?」
「どこって、いますごい可愛くなかった?」
「アンタ、どっかおかしいわよ」
 呆れるアレクを前にサイファはいまだウルフの腕に抱かれたまま、絶句していた。




モドル   ススム   トップへ