あと少し、そう思った気の緩みが良くなかったのだろう。一行は襲撃者の姿にまったく気がつかないまま襲われる羽目に陥った。 「サイファ!」 ウルフの驚いた声に遮られることなく、サイファはすでに呪文の詠唱にかかっている。それに気づいてウルフが彼を守ろうと剣を構えた。 「後ろから襲われるなんて恥ね」 アレクが自嘲気味に吐き出して、やはり小剣を構えてサイファの横に立つ。シリルが飛び出し、相手と対峙したとき、ようやくその姿が見えたのだった。 泥に汚れた緑の鱗状の皮膚。長い顔は口許から耳まで裂けて鋭い牙が並んでいる。立ち上がり、二足歩行する蜥蜴、リザードマンだった。粗末な、倒した冒険者から奪ったのだろう鎧を身につけ、手に手に剣や棍棒を持っている。それが五匹ほど群れになって襲い掛かってきた。 「下がれ!」 目の前にいるシリルを腕で押しのけサイファは呪文を放つ。振り上げた手を一気に下ろす。と、リザードマンのうち三体が頭から徐々に白くなり始めた。 「ウルフ!」 シリルが声と共に飛び出し、呪文の及ばなかった二匹にウルフと共に向かった。剣を一閃させ、致命傷にはならないものの深手を与える。 三匹のリザードマンは不思議そうな顔をしたまま立ち止まっていた。剣を掲げ今にも切りかかろうとしているのに、体が動かないのをいぶかしむように。リザードマンは凍っていた。 サイファはそれに向かってさらに手をひらめかせる。風の刃が凍った体に突き刺さり、粉々に砕く。一体の粉砕された体が泥を跳ね上げた。 戦士たちは手負いのリザードマンに止めを刺し、アレクが凍った一匹を剣の腹で砕く。残りはサイファがもう一度放った魔法で砕かれた。 「あっけなかったわね」 ちらり、アレクが笑う。剣を振ったのは血を落とそうとする習慣か。血など、ついていないというのに。 「サイファのおかげです、助かりました」 シリルが少し頭を下げる。後ろから襲われたのがよほど悔しいのだろう。青白い顔をしていた。こんなときは年相応の顔をするのだな、とサイファはそれを面白く見、ただ黙ってうなずいただけだった。 「ま、怪我もなくって何よりだわ。それよりお宝お宝」 その場の空気を変えるよう、アレクが明るく言ってリザードマンの死体のあたりを探索する。泥に両手が汚れるのも厭わず熱心に探しているところを見ると、単に宝を見つけたいだけなのかもしれない。 「ねぇ、ここってさ、蛇の沼って言ったよね?」 「そうだよ」 「じゃあ、あれが蛇?」 「僕にはどう見ても蜥蜴だけどね」 シリルが笑ってウルフに答える。 「えー、あんな育ちすぎた蜥蜴はいやだなぁ」 顔を顰めるウルフに思わずサイファも笑った。もっともそっぽを向いていたのでそれをウルフが見ることはなかったが。 「やった」 小さな歓声が上がり、アレクが汚れた手に何かを持って来る。 「なにがあったの」 「綺麗なもん」 笑顔でサイファに向かい、アレクが手の中の物を渡そうとする。 「取ってよ?」 「手が汚れる」 「いまさらなに言ってんのよ!」 言ってアレクはかまうことなくサイファの手を取り、物を押し付ける。おかげでサイファの手は泥だらけだ。仏頂面でそれを一瞥したサイファは物も言わずにアレクに返す。 「なによー」 「魔力は帯びていない」 「あ、やっぱり?」 「やっぱり、とはどういうことだ」 「うーん、なんとなくわかるのよねぇ」 「だったら渡すな!」 「えへ。ごめん」 「……可愛らしいふりをして見せても無駄だからな」 「わかってるわよぉ」 アレクはめげることなく小首をかしげ、次いで男の顔で笑ってはサイファを動揺させた。天を仰いで大きな溜息をつき、そして手の違和感に気づく。 「何をしている」 「だって、汚れたのいやなんでしょ?」 ウルフが自分の手でサイファのそれを拭っていた。戦闘で跳ね上がった泥は当然ウルフにも及んでおり、彼の手は泥まみれだ。 「私には余計に汚しているようにしか見えないのだが」 「酷いなぁ、サイファってば」 「事実だ」 こちらもめげずに作業を続ける。シリルが笑いをこらえているのを見ては再度大きな、それは大きな溜息をついた。手の汚れは薄く広がっていた。 「はい、ちょっとはマシでしょ」 どこがだ、とは思ったが何かを言えば面倒なことになるのは良くわかっていたのでうなずく。ウルフの輝かんばかりの笑顔が返ってくるにいたってサイファは三度目の溜息をつくのだった。 「さぁて、お二人さん、進みましょうか?」 アレクが茶化す言葉に答えもせずサイファは歩き出す。ウルフが追ってきた。笑って兄弟が前へと出て道をとる。 一行はゆっくりと丘の斜面を登っていた。あの、前方に見えた丘についに達していたのだった。足元が、ずぶりずぶり、と沈む。が、それはすでに沼の泥ではなくなっていた。ふと見渡せば、丘から流れ出る清水に浸されて腐った草がある。あの沼沢地では見なかったものだった。腐ったそれであっても、緑は一行の目を喜ばせる。 「ねぇ、サイファ」 ウルフが声をかけてきたのはしばらく経ってからだった。すっかり慣らされてしまっている。サイファは不機嫌にそう思う。ウルフが声をかけるのは、以前だったらもっと後だったはずだ。自分の機嫌が戻るまで待って、それから言葉をかけてくる。それまでの時間が短くなっているのだ。 「なんだ」 だから返事をするサイファの声はそっけない。が、真の不機嫌とは程遠いものであったので、ウルフはかまわず言葉を続ける。それがまたどこか落ち着かない気持ちになるのだ。 「あれってさ、なんの花?」 ウルフが指した先には白い花が咲いていた。ぬかるみにひっそりと咲く花はここが臭気を放つ異様な場所であるだけに美しい。 「紅すみれ」 「赤いの? どこが?」 「あれは生き物の血を栄養にしている。食後は赤く染まると聞いている」 「うわ、ちょっといやかも」 「しかも沼の臭気の原因があれだと言う」 「すごくいやだに変わった」 唇を尖らせるウルフが面白くて、ついサイファの口許がほころぶ。それに気づいて顰め面をするのだが、すでに遅かった。機嫌はすっかり直ってしまっている。 「――美しき女の如き。そは紅すみれ。白くたおやかに獲物を誘い、赤き血潮で喉を潤す。仮面を剥げばその臭い! 誰が剥ぐものか、被せておけ。被せておけ」 低い声が朗詠する。皮肉げなのに、聞き惚れてしまう。半エルフの喉が奏でる音は蠱惑的だった。 「びっくりしたわぁ、アンタそんな声がでるんだ」 「そんな?」 「聞き慣れちゃっただけだよ、アレク」 シリルが笑ってたしなめる。それから目顔で非礼を詫びてきた。 「それ、六百年ほど前にラクルーサの詩人が歌った詩ですね」 「シリル、物知りだねぇ」 「坊やと違うもの」 顎を上げてアレクが誇る。可愛い弟を褒められて嬉しい、と言うよりもサイファには最愛の者を誇る態度に見えた。シリルはどう思っているのだろうか。詮無いことを思い、サイファは気づかれないよう首を振る。 「彼の詩は冷めていて、愛好者がいますよ」 「あれを詩と言うのはアタシ、抵抗があるわ。低俗よ」 「同感だ」 サイファがうなずく。自分で朗詠したくせに、と兄弟が笑う。どこか、アレクの目許に憂いがあるような気がして仕方ない。いずれ、自分が力になれるようなことであれば、話を持ってくるだろう、そう思う。その程度には仲間、だとも。その考え自体がどこか不快で、サイファはらしくもなく茶化した。 「あの詩人は不愉快な男だった。私など及びもつかない人間嫌いで、世の中を斜めに見ていた。そのくせ気取り屋で、前歯が欠けてるのを気にしていつも手で口許を覆っていて、それが気色悪かったぞ」 「サイファ、六百年前だよ?」 「だからなんだ」 「うーん、と……その」 「いい、いいってば。アンタがとっくに生まれてるのはわかってるけど、アタシたちはただの人間なの。歴史に残ってる人間のことを知り合いみたいに話されるのって、嫌だわ」 「そういうものか?」 「そういうものなの。学んで」 「了承した」 歪んだ唇から笑いが漏れる。図らずも人間と半エルフの違いがここでも証明されてしまったわけだ、と。すでに何度も通ってきた道ではあった。この仲間とならば、どこかにそんな甘えがあったのかもしれない。ウルフが機嫌よく絡めてくる手をいつものように振り払い、サイファは前を行く兄弟に続いた。 束の間の時間を共にし、そして別れて行く人間たちに。 |