何度か目の夜明け。あたりは景色を一変させた。
「森を抜けたみたい」
 シリルが言う。その口調が呆然としていた。
「らしいわねぇ」
 どこかぼんやりとアレクも答える。ウルフはあっけに取られてその丘の上から下を見下ろしていた。
 唐突に切れた森は緩やかな下りを描いて丘の下へと道は続いている。が、丘を降りたところで道は消えている。飲み込まれているのだ。
「沼沢地のようですね」
 シリルが振り返り、サイファを見た。
「そうだ。ここからが本当にシャルマークと言えるだろう」
「いままでは序の口ってことね」
「そういうことだな」
「うわっ」
 突然上げたウルフの声に一行は振り返り、そしてすぐにそれを悟った。臭っていた。沼沢地の臭いだろう。腐ったような甘いような嫌悪を催させる臭いだった。
「迂回するわけにも行かないみたいですし、降りますか」
 風向き次第で運ばれてくるその臭いを避けようと一行はありあわせの布を巻きつけて口と鼻を覆う。丘を下りきる前の乾いた場所で簡単な朝食を取ったあとはただひたすら進んだ。
「ちょと怖いわね」
 アレクが引きつった笑いを漏らしながら言う。森から切り出してきた長い枝で前方を探りながら進んでいるので、中々道がはかどらない。
「そう?」
「だって、こう……ずぶっと行ったらどうしようとかって、思わない?」
「そうならないよう、気をつけてるでしょ」
「シリルが気をつけてくれてるのはわかってるのよ」
「でも心配なの?」
「そうなの」
「じゃあ、好きなだけ心配して。それで気が済むなら」
「そうね、そうするわ」
 馬鹿馬鹿しい会話をする兄弟だ、と後ろに続きながらサイファは思う。が、それでアレクが気を取り直すならばそれでいいのだろう。現にアレクは不安げな素振りから一変してしっかりした足取りになっていた。
「ねぇ、シリル」
「どうしたの?」
「うーん、ここどこなのかなって、思っただけ」
 ウルフの言葉にアレクが笑った。
「どこだっていいじゃないの、沼よ沼」
「でもさ、名前くらいあるんじゃないかなって」
「あったから、なに?」
「……別に」
 布越しでもわかるほど、拗ねて唇を尖らすウルフにシリルも笑い、荷物の中から地図を引っ張り出した。
「どうやら蛇の沼と呼ばれてるみたいだね」
「うわー、聞くんじゃなかった」
「サイファ、お心当たりは?」
「名前くらいは聞いたことはあるが、どうなっているかまでは知らん」
「それは残念」
 答えたサイファをウルフが不思議そうに見る。何かを聞きかけたら後に引かないということをサイファも学習していたので目顔で促せば、顔をほころばせて喜んだ。
「早く言え」
 まだにたにた笑っているウルフにサイファがさも嫌そうに言えば、前で兄弟がそろって首をすくめて笑いを噛み殺す。
「ごめん! あ、いや、さ。サイファ、なんでここの名前知ってたのかなって」
 言った途端、気が緩んだのかウルフが足をよろめかせる。呆れてサイファが掴んで引き戻せば、照れたように笑った。
「ありがと」
「気をつけろ、未熟者」
「うん」
 うなずいてもまだ、今度は逆に掴んだ手を離そうとしない。振り払えばまだ転ぶのではないか、と思えばそうそう無下に払いもできない。
「それで?」
「あぁ……」
 掴まれた手が温かい。それが無性に落ち着かない気持ちにさせる。ウルフの剣からは喜びの感覚だけが強調して伝わってくる。それがさらに居心地を悪くさせて仕方ない。
「知りたがりは魔術師の性癖みたいなものだ」
「うーん、どうなってるんだろうって気になっちゃうの?」
「大まかに言えば」
「ふうん……じゃあさ」
 嫌な予感がした。これが例えば宿屋で二人で話しているならば、これほどの危機感を持つことはなかったかもしれない。前に兄弟がいる。それが大いに問題だった。
「俺のこととかって、知りたいよね?」
 サイファは天を仰いだ。天候までもここでは異常をきたしているのか、額に薄く汗をかいている。見上げた空に太陽はなかった。
「……どうしてそうなる」
 低い声でそれだけを言うのがサイファの精一杯だった。うっかり殴ってしまいそうだ。腹いせ混じり、うつむいて唇を噛みしめているらしいアレクの頭を後ろから小突く。
「どうしたの? アレク、なんかしたの?」
「なぁんでもないわよー、坊や?」
「……笑うな」
 脅しつける低音。ちらりと振り向いたアレクはそれでも目許に笑いをたたえている。少しばかり、羨ましそうに見えたのは、きっと気のせいだろう。アレクがまた、耳飾りをいじった。
「で、どうなの、サイファ?」
「いい加減『人間』は見尽くしたと思っている」
「うーん、人間じゃなくって、俺は?」
 わずかな言い逃れさえ通じなかった。大きく溜息をつき、そしてぎょっとする。言い逃れたいなどとどこの誰が思っていたのか。言い訳をする必要が、どこに。片手を包んでいる温かいウルフの手をもぎ離し、サイファは前だけを見つめる。
「ねぇ」
 しつこい、怒鳴りかけた。それを救ったのはアレクの声。
「坊や、よしなさいな」
「なんでさ」
「サイファだって、自分の思ってることを全部わかってるわけじゃないってことよ」
「それはどういう意味だ」
「あーら、せっかく助けてあげたつもりなのに」
「不穏当な発言は控えてもらおう」
「いいわ、了解。でもね、サイファ」
「なんだ」
「坊や、ぽかんとしてるわよ」
 横目で見た。ウルフは確かになんの話をしているのか完全に理解していなかった。安心するとともにどこか物足りない。そしてサイファは柄にもなくうろたえるのだった。
「サイファ、いまのなんの話?」
「お前が理解しなくていい話だ」
 わざとぶっきらぼうに言えば、ウルフが拗ねて横を向く。視線が外れてようやくサイファはほっとした。他者の恋心を感じているのは興味深い体験だったが、こうもあからさまに兄弟の前で示されてはさすがのサイファもどうしていいのかわからなくなってしまう。
「さ、頑張って歩こうね」
 シリルが背後のウルフに促して、それはそこで終わりになった。なぜか兄弟に助けられてばかりいるような気がしてならない。人間としてでも充分に若い二人なのに、どうしてこうも世慣れているのか。あるいは自分が人間に慣れていないだけとも言える。サイファは一人心にうなずいた。
 はかどらない、と言っても沼地としてはずいぶん進んだ方だろう。馬鹿な話をしていて気がまぎれたのか、疲れもさほど感じていない。
 一行は足を止めることなく進み続けた。ひとつには止まるとその場で足がずぶずぶと沈みかける、と言うのもあった。そもそも足元が沼では座りたくとも座れない。ただひたすら歩くよりないのだ。
 歩きながら一行は手持ちの干し肉を齧り、水袋の水を飲む。時折つんと鼻を刺す臭いに顔を顰め、空を見ては前に進む。この分だと明るいうちに沼地を越えるのは無理だった。かと言って野営もできない以上、歩くしかない。次第に口数が少なくなっていく。よろめいた足をそれぞれ支えあう回数が多くなっていた。重たい泥が一行の足を疲れさせ、もつれさせる。
「あそこまで行けば、乾いていそうですね」
 不意にシリルが言った。あたりは薄く黄昏はじめている。その朧な明りの中でもそれは見えた。背後にしてきた丘よりも高い丘だった。どうやらそこからこの沼地の水は流れ込んでいるようだ。夕暮れの光にちらちらと水の流れが映っている。
「まだ遠いわよ」
「そうだね、頑張って明日の夜ってとこかな」
「ま、あさっての昼を想定しときましょ」
 アレクの軽口にシリルとウルフが力なく笑い、それでも一行の士気は目に見えて上がった。辿り着く場所が目に入る、というのは良いものだった。
「さ、行こう」
 シリルの声に一行は足に力をこめて歩き続ける。兄弟は腕を組んでいた。倒れないためだろう。視界の端に映したウルフはぐったり疲れている。サイファでさえ疲労を覚えるほど冷たく重い泥だ。サイファは無言で腕を差し出す。夕闇のかすかな明りに、ウルフが少し情けなさそうに、笑った。



モドル   ススム   トップへ