階下の酒場には誰もいなかった。否、居はするのだろう。気配はあった。が、誰一人として姿を現そうとはしない。主人さえも隠れているようだった。
 サイファとウルフは黙って階段を上がり部屋に戻っては荷物を持って兄弟の部屋へと移動した。
「遅いわよ」
 アレクがいたずらに睨んでくる。シリルが苦笑し、大方の用意は整ったと目顔で知らせる。ウルフの荷物など、ほとんど解いてもいないのだから簡単な準備だけで済んでしまう。
「ねぇ、ちょっと聞いていいかしら」
「なんだ」
「アンタ、猫になってたとき服とか荷物とかどうしてたの?」
「……説明できるか?」
「僕にも無理です。無茶を言わないでください」
「シリルが説明できないなら、私にも荷が重いな」
「なんかよくわかんないけど、難しそう」
 ウルフが額に手を当てて顔を顰める。
「坊やには絶対に無理よね」
「アレク! 酷いよ、自分だってわかんないくせに」
 冗談のように殴りかかろうとするのだが、素早いアレクは捕まらなかった。けらけらと笑い声を上げて部屋の中を逃げ回る。
 サイファにもわかっていた。村人の敵対行動を見て自分の気持ちが落ち込んでいるのだろうと気遣ってくれている。以前だったら煩わしく感じもしただろうが、いまは人間の若者たちの行為が子供のするそれのようで微笑ましい。
「お遊びはその辺に――」
 シリルが二人を止めようと立ち上がったとき、扉が叩かれた。咄嗟にウルフとシリルは剣を抜き放ち、アレクはサイファを援護するため横に立つ。
「どうぞ」
 襲撃者だったらその声に一瞬の隙ができる。それを狙ってのシリルの言葉だった。が、扉はおずおずと開いた。これには一行のほうが驚いてしまう。
「あの……」
 扉の向こうに立っていたのは宿の主人。手には袋を提げている。
「なんの御用でしょうか」
 シリルは敵意を隠さない。理由はどうあれ、仲間が襲われたことは事実なのだ。
「はぁ、その。入ってもよろしゅうございましょうか」
 主人は剣が向けられている怯えを隠すこともせず、強張った顔のままそう言った。シリルがちらり、サイファを見る。うなずいたのを確かめて主人にうなずいて見せた。
「皆さんには、本当に申し訳ないこって。あのとおりの有様で、この村じゃ魔術師ってのは悪いことをするもんだと思いこんどります」
 言って主人はうつむいた。
「わしもね、やっぱり怖いです。あんたさんたちがうちの娘を救ってくれたのはようわかっとります。それでも、怖い」
「あの魔術師は、いつからここにいたのだろうか」
「へぇ、わしの親父さんのその爺さんのころからだと聞いとります」
 サイファはその答えに、魔術師を恐れるのも無理はない、と改めて納得した。明らかに何らかの魔物の支配を受けていた魔術師であった。寿命などなかったのだろう。村人には不死の怪物に見えもしただろう。長い間、ただ支配に耐えてきたのだ。魔術師の存在そのものを恐れても当然と言える。
「村のもんは、きっとあんたさんがたが次の魔術師になるんだと、その」
「そんなことはない」
「へぇ」
「もう、発つところですよ」
 ようやく事情が飲みこめてきたシリルが言葉を柔らかく変えて主人に言った。それに主人は目に見えて表情を明るくし、それからばつが悪そうにうつむく。
「わしゃ、怖い。でもそこの魔術師さんが悪い人だとは――」
 そして主人はサイファを見つめ、ぎょっと息を呑む。今の今まで魔術師を恐れているあまり、サイファの半エルフの特長にまで気が回らなかったのだろう。
「あ、あんたさんが、は、半エルフ、でも、ですだ」
 ウルフが不快そうに主人に何かを言いかけるのにサイファは後ろから彼の肩に手をかけ止めさせる。これ以上、主人につらい思いをさせるものではない、と。
「で、ですから、これ、持って行ってくだせぇ」
 震えながら主人が突き出した袋の中にはチーズの塊と大きなハム。
「ありがとう。なによりです」
 シリルが主人に笑みを向け、はじめてアレクも同意の笑顔を浮かべた。
「早いとこ、発ったほうがいいと思いますだ。いや、村のもんが……」
「ありがと。親父さん。そうするわ」
「すいませんな、お綺麗な娘さん」
 ようやく、あの最初に見せてくれた宿の主人の顔になった。そのことに一行は少しだけ、心慰められるのだった。
「では」
 シリルが背後にうなずき、一行は扉に向かう。主人の横を通り抜けるとき、サイファはかすかに微笑みそれからフードを被る。
「勇敢な人間に感謝する」
 驚く主人の脇をすり抜け、サイファは仲間の後に続く。廊下の向こうから、娘の声が追ってきた。
「ありがとう!」
 一行は振り返らず、背後に向かって手を振るのみ。だから娘が彼らの顔を見ることはなかった。けれどもし目にしたならばきっと一生嬉しく思い出すことになっただろう。それほど満ち足りた笑みを浮かべていた、皆が。

 夜道を歩き続けることにした。村人の敵意が消えたわけではなかったから、明るくなってから一行が発見された場合、何が起こるかわかったものではなかったからだ。
 鬱蒼とした木々が生い茂る道は歩きにくかったが、それでも道があるだけましだった。先頭を行く兄弟に続いてウルフとサイファが進む。アレクの持つ松明がぼんやりと足元を照らす。夜行性の生き物が時折、明りや足音に驚いて草むらに飛び込む音が一行の心を騒がせた。
「ちょっと怖いね」
 ウルフがサイファを見上げて言う。
「そうか」
「うん」
 聞こえているだろうに兄弟はなんの反応もしなかった。だからサイファはこれが人間の闇に対する自然な反応だと気づくのに少しばかり時間がかかったのだった。
「……人間だものな」
 ぽつり、言った。言って自分が言葉にした事に気づく。軽い非難の気配は隣から。
「人間が闇を恐れるということを私は忘れていた。それだけだ」
「サイファは怖くないの」
「それほど」
「どうして?」
「たぶん、人間よりよく見えるからだろう」
「見えるから?」
 ウルフがわからない、と首をひねる。シリルが緊張を解いて少し、笑った。
「サイファ」
「なんだ」
「あなたは、恐怖と言うものは未知である、と言いたいわけですね」
「そうだ」
「坊やにはもっと噛み砕いてやんないとわかんないわよー」
「俺、馬鹿じゃないもん!」
「じゃあ、わかってるの?」
「わかるよ」
「説明してごらん、んー?」
 アレクが振り返って笑う。松明の赤い炎に金の髪が照り映えていた。
「知らないものだから怖いってことでしょ。だから……」
 ウルフは言いさし、やめる。それに気づいてサイファは苦く笑った。
「あってるな。だからあの村の人間は私を、と言うより魔術師を恐れる。自分の知らない力を行使する者は恐ろしいだろう」
「……サイファは悪くないのにね」
「だが、それが人間の特性だ。恐怖から来る攻撃性。良くも悪くもそれがあるから人間は発展してきた。違うか?」
「そんな発展だったらなきゃいいんだ。他人を殺して自分を守る? そんな人間、死んじゃえばいい」
 吐き出すような口調。うつむき、唇を噛むウルフ。らしくなかった。握り締められた手が、彼の嫌悪を強く訴えていた。
「そう決め付けたものでもない」
「だって!」
「たとえば。お前のずっと先祖が自分の身を守らざるを得ない状況にあったとする。その人間が抵抗を放棄したらお前はいない」
「……でも」
「あらー、坊や? そうしたらアンタはサイファと会えなかったことになるわよ。それが寂しいってサイファは言ってんじゃないの」
「言っていない!」
 憤然と言うサイファにウルフはうっとりと微笑みかける。アレクを睨みつけるのに忙しいサイファは手の中にウルフの手が滑り込んできたのに気づかなかった。
「俺もサイファに会えてすごく嬉しい」
「だから私はそんなことは言っていない、と言っている」
「じゃ会えなかったほうがよかった?」
 言葉に詰まった。ここで迂闊なことを言えばまた数日に渡ってウルフは落ち込みかねない。この状況にあってそのようなことは貴重な戦力の低下を招く。だからサイファは笑った。口許を引きつらせ心持、顎を上げて。
「あぁ、そのほうが良かった」
 考えて末に出てきたのはそんな言葉。もしかしたら自分は落ち込むウルフを見るのが好きなのかもしれない、などと理性的とはいえない考えまで浮かんだ。
「サイファってば」
 くっと、ウルフの喉が鳴った。笑ったのだ、とわかるまで少しかかる。それほどウルフに似つかわしくなかった。
「嘘、下手だね」
 言ってにやり、今度は見上げて笑って見せた。闇夜の道だというのに警戒感をすっかりなくしたらしい兄弟が、声を立てて笑い始めるのをサイファは閉口する思いで見つめていた。




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