村に入ったときから薄々察してはいたことだったが、酒場は決して友好的とは言いがたい雰囲気だった。一行が着いたテーブルの周りに村人は寄り付こうともしない。 「親父さん、エールね」 華やかに言うアレクの笑顔もどうやらここでは通用しそうにない。無愛想と言うよりは一行を恐れているのだろう、むっつりとエールを運んできて、そのまま去ってしまう。あの少女でもいればまたずいぶんと気持ちも違ったことだろうが、彼女の姿は見えなかった。きっと余所者を警戒するあまり、部屋から出るなとでも言われているのだろう。サイファ譲りの溜息をつきたくなる一行だった。 「ちょっと困ったわねぇ」 「なんで?」 「坊や、頭を使いなさい、頭を。こんなに嫌われてちゃ、食料の補充だってちょっと厳しいでしょ」 「あ、そっか」 「まぁ、大丈夫じゃないかな?」 口数の少なかったシリルが微笑んで軽く胸に手を当てた。 「そっか、アンタ神官様だもんね」 「そういうこと」 神人が去った後、一時は衰えた信仰だが、魔族が横行するにいたって民衆の神を求める思いは強くなった。多神教のアルハイド大陸にあって信仰ゆえの抗争などと言うものはない。ひとつには戦いが起きるほど多数の信者がいる神殿がない、と言うのはあったがそもそもある神の信者が別の神の信者にとって悪かといえば、そうとは考えられていないせいだった。アルハイドの神々はある種の親族であって、そして人間を見守ってくれる存在、と考えられているのだ。そして神々がお遣わしになったのが神人。だからこそ幼き神、と呼ばれもしたのだ。 だからこの村がどんな神を祭っていようとも神官であるシリルに村人は最低限敵対はしない。どの神の神官であろうとも、その頼みを叶えるのは自らの信仰にかなう行為、と考えられているからだ。 「なんかよくわかんないけど、シリルが大丈夫って言うなら平気だよね」 言ってウルフはけろりと笑い、自分の皿からほぐした肉を取り分けて膝の上の猫の口許へと掌を差し出した。 「坊やってば、意外とマメね」 「意外ってどういうことさ」 「だってちゃんと……猫の面倒みるようには見えないもの」 「そうかなぁ、けっこう好きなんだけど」 テーブルの上、頬杖をついてアレクが見ている。精一杯褒めた所で上等ではない、としか言いようのない蝋燭の、乏しい明りの中で短い部分の金の髪が跳ね回っている。不意に猫のサイファは上を見上げてウルフのそれも確認した。彼の赤毛もやはり跳ね上がってとても、綺麗だった。そしてそう思った自分に憮然としては八つ当たりのよう、ウルフの手を噛むのだった。 「いて」 ウルフが非難の声を上げると共に兄弟がそろって笑い声を上げた。それを見てサイファは不愉快さは変わらないものの少しばかりはほっとする。いつまでもアレクが沈んでいるのを見るのは気持ちの良いものではなかったから。 「でさ、どう……」 食料をどうするのか、ウルフが尋ねかけて言葉を止めた。何も変わっていない。酒場はそれなりに村人たち同士活気はあり、外は静かだ。 が、一行は異変を感じた。冒険者の勘、と言うものだろうか。笑いあっていた兄弟も、視線を扉にあてて動かない。ウルフもまた無言だった。 「お客さん、どうかなすったんですかい」 主人が愛想よく尋ねてくる。これが一行の警戒心を確定的なものへと変えた。先程の様子とはあまりにも違う。 「ちょっと、ね」 アレクが薄く笑った。シリルは周囲を探るために集中するのだろう、胸に下げた聖印に触れている。ウルフの膝から飛び降りたサイファはそのシリルの足元に行き、一声鳴いた。 「え?」 集中を乱されて眉を顰めたシリルの視線が足元に下りる。そこにあるのは猫の青い目。つい、と扉を向いて凝視している。 「外ね」 アレクが言って立ち上がる。ウルフも続いた。 「ちょっと、お客さん。どこに行きなさるんで?」 主人の声に耳を貸さず二人が扉に向かう。そのあとをシリルとサイファが追った。 「アレク」 小さな、けれど断固とした声でアレクを背後に回し戦士たちは前に立つ。すでに戦闘態勢に入っていると言ってよかった。 「お客さん!」 切羽詰った声。後ろから客の村人も追ってくる。扉を抜けた。外。夕闇が濃く、煤けた松明の明かりがぼんやりと灯っているばかり。悲鳴。聞き間違いかと一行は一瞬、目を見合わせ、そしてそうではないのを知る。背後からも悲鳴が聞こえた。悲鳴は言っていた。 「出て行っちゃならねぇ!」 聞く耳は持たなかった。一行が感じた危険はあの時と同じだったからだ。あの、騙された町で感じた危険と。ぽっと炎が灯った。 「ウルフ!」 シリルが言って飛び出した。青い炎が見えていた。人の作り出せるものではない炎の色だった。シリルは走り、ウルフとアレクも従う。猫のサイファはその後ろを飛ぶように駆けていた。 「けけけっ」 火明りで充分周囲が見える場所にそれはいた。両手を掲げた男。厚い布地に隙間なく施した刺繍が重たげなローブを着ている。照らされた顔は正気を失ったように残忍だ。 が、声はそれではなかった。魔術師だろう男の周囲に小さな黒いものが飛んでいる。人間の子供並みの大きさ、背中には羽、そして細い尻尾。 「気をつけて、インプだ!」 下級の悪魔を男は召喚していた。男の指し示すままにインプは炎を広げていく。さも楽しくてたまらないといった笑い声を上げながら。 「ちっ、面倒ね」 アレクがこちらに気づいたインプに向かって吐き捨てた。飛び回るインプは、アレクのような戦闘を不得手とする者にはいささか相手が悪い。 「なんだぁ?」 ぐるり、男が顔を向ける。操られたような動きにシリルはふっと顔色を変えた。 「支配されてる」 呟きの大きさで、仲間たちにそれを知らせた。あのインプにだろう、男は主導権を握られている。魔術師が召喚する悪魔の中でも、人間に対しての行き過ぎた悪ふざけが大好きな彼らのこと、主人が手緩ければ自らが主人を乗っ取って支配することも多い、と聞く。 「偉大なる魔術師マブデン様の言いつけに逆らうとは、不届きな」 男の哄笑に媚びるよう、炎が高さを増した。男が魔法を編み、そして放つ。近くの納屋から青い炎が上がった。そして一行はようやく悲鳴の源を突き止めた。炎の傍らに少女がいた。 「あの娘」 「宿の主人の」 兄弟が囁きかわす。そう言えばあのかすかな笑みを見せてくれた娘は酒場にいなかった。宿の主の子であれば階下の酒場を手伝うのが普通だった。それを見かけなかったのはこういうことだったか、とはじめてわかった。 「気にはなってたのよね」 「ホント?」 「坊や、疑うの」 「全然」 軽口の応酬をしながら一行はまだ剣を構えているだけであった。が、精神的に戦闘状態に突入している。助けたかった。目の前で泣いている少女一人助けられなくて、何がシャルマークの大穴か。一行の中にあるのはただそれだけだった。 「忌々しい太陽が落ちたあと、この貧相な村は偉大なるマブデン様のもの。汚らわしい人間共が外に出ることはまかりならぬとの掟に逆らうか――サハーリィルゥ」 男が呪文を編み上げ、そして放つ。一行に向けて飛ぶ火の矢は三本。命中を確信した魔術師が笑った。それが凍ったのは、綺麗な破裂音のあとのこと。 「な……」 一行の周りに光の壁が出現していた。一度輝き、そして空気に溶けるよう消える。輝きが収まった後、人影がひとつ、増えていた。 「いつになったら戻るのかと思ってたわよ」 皮肉げなアレクの声に、サイファはわずかに笑って答えない。炎の巻き起こす風に長い黒髪をなぶらせて、サイファがそこに立っていた。 「貴様……」 憎しみのこもった視線を男が向ける。その視線でサイファを殺してしまいたいというように。ぎりぎりと噛んだ唇から血が滴っていた。 「ウルフ!」 魔術師との対決はサイファに任せることにシリルは決め、その間にインプを倒そうとウルフに声を飛ばす。魔術師同士ならば、サイファが後れを取ることはありえない。呪文を詠唱するために戦士が時間を稼ぎ出す必要もない。相手も時間を必要とするのだから。 「シリル、だめ!」 アレクの悲鳴めいた声に戦士たちは足を止め、そして知る。インプだけではなかったことを。そこに魔獣がいた。獅子と山羊にドラゴンの頭。背中に生えた翼もドラゴンの物だろう。さらに尾は蛇がしゅうしゅうと威嚇の音を出している。 「なるほど。キマイラの炎か……お前のような魔術師が作ったにしては出来のいい炎だと思った」 サイファの淡い嘲笑に反応したか、キマイラと呼ばれた魔獣がドラゴンの口から炎を吐いた。正にサイファの言うとおり、青い炎はそこに燃え盛るのと同じもの。 「なにを! 偉大なるマブデン様を愚弄するか」 サイファは黙って答えない。それがまた男を激高させると知っているのだろう。 「勇敢に戦え戦士たち。わが神の祝福を」 シリルが留まったまま神聖呪文を放つ。一行は体が何か薄いもので一枚、覆われたように感じた。サイファは祝福の呪文で自分までが守られたことにどことない喜びを感じる。 「仲間、か」 口許に笑みを刻み、狂った魔術師に対峙した。 |