眠りの中、異変を感じて目が覚めた。何かがおかしい、そう思って体を起こしかけたサイファはまだウルフの腕の中だったことに気づく。舌打ちしたくとも猫の体ではそうも行かない。伸び上がって辺りを見回そうとしたとき、異変はウルフであったことに気づいた。
「嫌だ……」
 目を閉じたまま、首を振っている。苦悶に歪んだ顔。
「行きたくない、できない」
 夢の中、うなされている。剣に魔力付与したおかげで魔法的に繋がってしまっているサイファには、ウルフの感情が痛いほど理解できてしまう。内容までわからないのは幸いだった。
「嫌……」
 うなされ方が酷くなってきている。このまま放っておいてもいずれ目覚めるだろうが、どことなく居心地が悪い。
 サイファはそっと猫の前足をウルフの頬にかけた。
「……っ」
 変化は急激だった。突如として目覚めたウルフが体を反転させ、猫の体を掴んでベッドの上に引き倒す。圧し掛かって動けないよう押さえ込み、その右手はゆるく、けれどいつでもへし折れるだけの強さで猫の首を掴んでいた。
 サイファは動かない。目覚めているように見えて、ウルフがまだ淡い眠りの中にいると知っていたからかもしれない。あるいは、その間近で見る目がいつものウルフと違い過ぎていたからかもしれない。ウルフは戦いの最中のような目をしていた。
「あ……」
 掌にある物が余りに細いことにようやく気づいたのだろう。ウルフが今度こそ覚醒する。
「ごめん!」
 慌てて右手を離し、それから猫の体の上に倒れこんだ。重たい、とサイファは文句も言えない。だが実際の所、さほど重たくはなかった。押し潰してしまわないよう気遣ってはいるのだろう。いずれにせよ、サイファにとってあまり望ましい体勢とはいえなかった。
「なんか、すごい嫌な夢見ちゃって」
 いつかの再現のようにウルフが体を起こし猫の頭の両側に腕をつく。力なく笑っていた。それで悟ってしまった。剣のせいだけではきっとない。ウルフはおそらく自身の過去とかかわりのある夢を見ていたのだろう。サイファは信じがたかった。この能天気な若造が、人間としてであってもまだ若すぎるウルフがいったい過去にどんな目にあってきたのかなど。
「サイファ、ごめんね」
 謝罪してもし足りないと言いたげにウルフは何度も謝っている。やっとそれが耳に入ったサイファは気にするなとも言えず、仰向けにベッドに押し付けられているという猫としてははなはだ不自然な体勢からようやくの事で抜け出して、それからウルフの頬を軽く前足で叩いた。
「ん、ありがと」
 ほっとしたウルフが少しだけ笑う。それを見て安堵してしまう自分をいぶかしく思いながらサイファは体の力を抜いた。それで知ったのだった。自分がずいぶん緊張していたことを。
 その事実にサイファが困っている間にウルフは体を休めるよう横になり、サイファ自身が気づかないうちに腕の中に抱きこむ。はっとサイファがぬくもりに気づいたときにはすでにしっかりと抱きしめられたあとだった。
「昔のさ、夢見ちゃった」
 詫びの代わりに話そうというのか。思ったらサイファは頭に血が上るのを覚える。そのような必要はない、言ってやりたかった。
「サイファさ、ちょっとだけ元に戻れない?」
 突然の要求に戸惑った。戻れないことはなかった。それほど面倒な魔法ではなかったし時間もかからない。問題は別にある。いまの体勢のままで魔法を解くなど言語道断だった。猫の体だからおとなしく抱かれてやっているのであって、そこまで思っておとなしくしている義理など別にないことにはじめて気づいた。
「やっぱ無理か」
 まだ頼りない口調にわずかに胸が痛んだ。だから抱かれてやっているのだ、そう思いなおす。ウルフの腕の中で丸くなり、胸に体を寄せてせめて少しでも彼の痛みが軽くなるようにと願う。それほどつらそうな声だったから。多少は優しくしてやらないこともない、そう自身に言い訳をして。
「俺ね、昔さ」
 まだ話し出そうとするウルフにサイファは体を起こし、前足を伸ばした。そっとウルフの唇に。柔らかい前足の感触に驚いたのか、ウルフが目を丸くし次いで笑った。
「サイファ、すごい可愛い!」
 抱きしめる腕の強さに猫の体は窒息しそうになっては身をよじる。それでも抜け出せないと見るやサイファは伸ばしたままの前足をウルフの頬に当て、爪を出す。
「いて」
 やっとのことで力を緩められて猫は大きく息をつく。
「あ。ごめん。苦しかった?」
 返事もできず、おかしいことは承知の上でうなずけばウルフの笑いが大きくなる。
「ごめんね」
 囁いて柔らかく抱きなおされる腕が心地良くて、やはり断固として抜け出すべきだったと思ってもどうしようもなかった。
「あーら、またお邪魔しちゃったかしら?」
 サイファは猫の体だと言うのを忘れて罵った。おかげで喉から漏れるのは低い唸り声。いつ開けたものか扉の外にはアレクが立っていた。
「え? なにが」
 きょとんとしたまま尋ね返すウルフになんでもない、と手を振り、まだ腕の中に捕らえられたままのサイファを見てはにやり、笑う。
 瞬時におかしい、と思った。アレクが精彩を欠いている。耳飾りをもどかしげにいじっていた。推測するまでもない、きっとシリルと何かがあったのだろう。いや、何もなかった、と言うべきか。サイファはだからといって何を言えるわけでもなく、力の緩んだ隙にウルフの腕から這い出して床の上に降り立った。
「サイファ?」
 ウルフの声にかまいもせず、サイファは床からアレクを見上げた。非常に不愉快な眺めだった。普段見下ろしている人間を見上げるなどと言うのは。軽く足に爪を立てる。それと察してアレクが猫の体を抱き上げた。
「あ、ずるいよ、アレク!」
「なにがよー。サイファが抱っこって言ってるんじゃない、ね?」
「でもずるい!」
 からかう気満々のアレクの腕に怪我をさせない程度、爪を立てて制止する。ちらり、見てはアレクが笑った。頬ずりするよう唇を寄せウルフに隠れて耳許に囁く。
「心配してくれるんだ?」
 笑っているのに冷たい声だった。まるで凍ってしまっているような。それほどつらいことがあったのだろう、サイファは思う。なぜ、人間はこんなつらさを抱えて生きて行かれるのか不思議でならない。ウルフにしろ、アレクにしろ。
 もしも自分だったら、きっと旅に出てしまう。すべての半エルフがそうしてきたように、あてのない帰ることのない旅に。
「ありがと。大丈夫」
 そっと囁いた声にはかすかに温度が戻っていた。仮初の物に過ぎないとしても。
 これ以上、自分にできることは何もない。サイファはアレクの腕から飛び降りて、不満顔のウルフの元へと戻った。それこそサイファには不満なのだが、このまま放っておいて後々まで文句を言われてはたまらない。ベッドに腰掛けたウルフの足元から見上げようとして、やめた。あからさまに視線をそらせば背後でアレクの含み笑いが聞こえる。目を向けた窓の外はもう暗い。
「サイファ」
 呼び声と共に腕が下りてくる。抱き上げられるのに抵抗しようかと思ったものの、そのまま素直に抱かれた。いまさら口論するのは面倒だ、とそう自分に言い聞かせて。
「まぁ、仲のいいこと」
 茶化すアレクの声に混じる苦さにきっとウルフは気づかないだろう。ちらりと見たウルフの茶色の目は案の定へらへらと笑っている。だからサイファも気づかなかったふりをした。それがアレクの望みならば見ないふりをするなどどれほどのことでもない。
「サイファ、そのままでいたら?」
「そうだよね、すごい可愛いよね!」
「ねぇ、ほんと」
 こちらが口を出せないのをいいことに好き放題を言う。苦々しげにアレクを見やればそれがよほどおかしかったのだろう、アレクが笑い転げた。
「ま、いいわ。アンタたち、食事にしましょ」
「やった、おなか減ってたんだ」
「アンタはいつも腹っぺらしでしょ」
「そんなことないもん!」
「えー、どこがー?」
 大げさに眉を顰めて見せ、それからアレクはウルフの肩を叩いて酒場へと誘った。その後にまだ言い足りなそうにしているウルフが従順に従ったのは、やはり空腹からだろう。
「なんかおいしいもん、あるといいね」
 抱き上げた猫の耳にウルフがそっと囁いた。ウルフの腰の剣からは、こうして触れ合っているのが嬉しくてたまらない、そんな感情が伝わってくる。これほど喜ばれているのならば少しの間はこのままでもいいか、そう思うサイファだった。先を歩くアレクの背に、しっかりと編んだ金の髪が揺れている。




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