部屋は宿屋同様粗末だった。汚れた窓がひとつ、その側に藁布団を敷いた狭いベッド。毛布はごわごわと硬い。
「ま、ベッドで寝られるだけいいか」
 ウルフは呟きベッドに腰掛ける。実際、地面に毛布を敷いて眠るよりはずっと体が楽なのだから文句は言えない。重たい鎧を解きたかったけれど、アレクの忠告を守ってウルフはそのまま体を横たえる。
「サイファ」
 部屋の中、猫はあらぬ方を見つめてウルフには答えない。
「お願いだから」
 その声が、妙に頼りなくてサイファはウルフを見つめた。自分で言うように確かに疲れているのかもしれない。ウルフらしくもなく精彩がなかった。仕方なくウルフの側に飛び乗る。
「ありがと」
 ウルフはそっと猫の体を抱きかかえ、満足したよう吐息を漏らす。サイファは落ち着かなかった。ウルフはいま猫を抱いているつもりだろうが、サイファはサイファなのだ。ウルフの腕に抱かれている、と思うだけで身の置き所がないくらい落ち着かない。かといって、腕を抜け出せばウルフはきっと寂しがるのだろうと思えばそれもできかねる。
「サイファ」
 名を呼びながらウルフが毛並みを撫でている。やはりサイファは逃げ出すべきだったと、頭を抱えたくなるが猫の体ではそうもいかない。髪を撫でられているときより、ずっと心地いい。それが問題なのだ。硬い戦士の腕を枕にして体を撫でられている。わめきだしたくなるのだが、いまは猫なのだ、ウルフは猫を撫でているのだ、と内心に呟いて現実から目をそらすことに努めた。
「大好きだ、サイファ」
 はっと体を硬くする。が、すぐに規則正しい吐息に戻り、それが寝言だったと気づく。いつの間にかウルフの腕は止まり重いそれが自分の体を抱いているのを感じるばかり。諦めてサイファもまた目を閉じる。ウルフの寝息にサイファもまた、眠りに引き込まれていったのだった。

 一方そのころ、兄弟は兄弟でくつろいでいた。ベッドの上に腰掛けてシリルがアレクの髪を梳かしている。アレクにとってそれは至福であったが、シリルにとっても楽しいことだった。
「ねぇ、アレク」
「なぁに」
「あのさ」
 言ってからシリルが口ごもる。梳き終えた髪を手に取り、編もうかどうか悩んでいる、そんな顔をしていたが明らかに取り繕っているだけだった。
「どうしたのよ」
 不思議そうにアレクが振り返る。午後の光が汚れた窓からでも強く差し込んでアレクの髪を光らせていた。
「アレクこそ、どうしたのかな、と思って」
 言うかどうしようか悩んだのだろう。シリルが少し目をそらす。
「別に」
 アレクはただ、そう言うだけ。言い返しも言い訳もしなかった。それがシリルの不審を煽ることになるとわかっていても出来なかった。
「ほら、やっぱりおかしい」
「そう? なんともないわよ」
「どこがさ」
 目の前でシリルが言い募る。言えるわけがなかった。胸が痛くてたまらないなど、シリルに言えるわけがなかった。
「アレク?」
 不意にシリルの両手がアレクの頬を挟む。驚いて目をみはるアレクにシリルが苦く笑った。
「なんかおかしいのくらい、僕にもわかるんだよ」
「あーら、それは知らなかったわ。アタシのどこがおかしいの?」
「……なんか、寂しそうだから」
 茶化して言ったのも通じなかった。アレクは目を閉じる。寂しくて、仕方ないのだ。シリルが愛しい。言えるわけもない。流されやすいだけの弟にいまさら本気で惚れているのだなど言って、何になろう。何にもならない。
「僕がアレクの心配するのは、おかしいとでも思ってる?」
「思ってないわよ、ありがと」
「本気にしてないね?」
「してるってば」
「嘘だね」
 珍しくシリルがこだわる。物事を追究するのを嫌う性格の彼にしてはあまりないことだった。だからこそ、いままで一緒いられたのだから。突き詰めて考える男だったら、いくらアレクが「好きな女ができるまでの代わり」など言っても流されてはくれなかっただろう。
「ずいぶん絡むわね」
 だから、そんな言いかたしか出来なかった。口許がきっと皮肉に歪んでいる、とわかっていてもどうしようもない。
「だって」
 シリルが唇を噛んだ。何をどうしたものかわからない、それが悔しいのだろうか。そんな彼を見ていると愛しさがこみ上げてくる。それだけでいいではないか、アレクの心が囁いた。
「ま、思うところがあってね」
 裏の意味など何もない、言葉の端にそれを滲ませてアレクは笑う。シリルが信じてくれることを願って。
「何を?」
 嘘だったら許さない、とシリルの目が言っている。こんなに嬉しいことがあるだろうか、アレクは内心で喜びの声を上げた。愛しいものが気遣ってくれる、それだけで充分だ、と。
「やあねぇ、そんな深刻な顔しないでよ」
「アレクが言うまで離さないからね」
 逃れようとしたアレクにシリルが言う。無論、逃げるつもりなどまったくなかった。シリルにそう、言ってほしかっただけなのだから。微笑みの裏でアレクは泣きそうだった。
「ちょっとね……」
 悔しくて、シリルをからかってやろう、そう決めた。泣き出すふりでもしてやろうとしたのに思いの外、本当に泣けてきて、困る。シリルが慌てるのを見て楽しんでやろうとしただけなのに。
「アレク、アレク……」
 シリルがアレクの頬から手を離し、不意にその胸に抱き寄せる。硬い胸に抱かれながら、もしかしたらこんな風にしてくれたのは初めてかもしれない、と思う。アレクはシリルに見えないのを知って小さく笑った。
 シリルの手がなだめようとそっと髪を撫でている。それがシリル好みの長い金髪だと思えば腹立たしいけれど、いまここにいるシリルは自分の髪を撫でているのだ。他の誰のものでもない自分の髪を。
 自分のすべてはシリルのものだ、アレクはそう思っている。シリルに告げるつもりなど毛頭なかった。シリルのためならばどんなことも厭わない。死さえも。シリルが愛しいから、自分は黙って死んで行くだろうとも思う。
 シリルもまた、自分のために命を惜しみはしないとアレクは知っていた。が、それはアレクのように愛ゆえにではなく、武闘神官としての使命ゆえにだとも。瞼の裏が熱い。何度か目を瞬いて涙を払った。本当に泣いてしまっては洒落にもならない、そう苦笑して。
 あの二人がうらやましかった。アレクが見るところ、ウルフは自分の感情を持て余しているのかたどたどしいやり方ではあったけれど、それでも素直すぎるほど純にサイファを恋している。サイファにしても苛々しながらもそれを受け入れてはいるのだ。そんな風に初々しい時間を過ごしている二人がうらやましい。そしてそう思わざるを得ない自分が嫌になる。
 弟に、兄が道ならぬ恋をして気づかれないよう誑かしている。そう思えばたまらなかった。事実だけにどうしようもない。情けなくて苦しくて、アレクにできるのは笑うことだけ。
「あのね」
 だからすべてを洒落のめしてしまおう、と決めた。自分はこれで幸せだから多くを望みはしない。たとえ束の間であってもシリルはここにいる。いずれ来る別れの日に、シリルが引け目を感じることのないよう笑って遊びにしてしまおう、と。
「ちょっとね」
「どうしたの? 言ってよ、僕にだけさ」
 優しい声に唇を噛みたくなる。だから顔を上げた。笑って見せた。シリルの肩を押して不意をつく。寝台に押し倒す。
「なんかあの二人にあてられちゃって欲求不満なのよねぇ」
 咄嗟に防御もできなったシリルの唇を、何を言わせる前に塞いだ。温かい唇が、いまは苦かった。こらえた涙の味かもしれない。胸の痛みを知れとばかりに乱暴に舌を吸った。
 と、普段だったら一度は拒んで見せるシリルの腕が背中にまわる。ゆっくり抱き寄せられる。アレクはシリルの頭の両側、腕をついてシリルを見据えた。
「同情されるのは癇に障る」
 演技をすることのないシリルだけが知るアレクの本当の声。今はささくれ立ってシリルの耳に棘を残す。
「同情? 何が?」
「嫌がればいい、いつもみたいに」
「どうしてさ」
「どうしてって……」
「僕だって欲求不満だと思うことくらいあるんだけど」
 かすかに笑った。嘘だとわかるシリルの言葉。それでも良かった。同情だと思ったのは、自分の心がひねくれているせい。アレクは微笑んでくちづける。今度は優しく。
「ん……」
 原因など、シリルが知る必要はない。でもどこか弱っているのを感じてくれた。体を貪る以上の歓喜だった。男にしては柔らかい唇に何度も軽く触れ、シリルを煽る。髪を掴んだのだろう、痛みが走った。
「シリル」
 低い声で呼んで耳朶を甘く噛む。アレクの下で体を捩じらせるシリルが可愛くてならない。もっと楽しませたくなる。ちらり、ウルフに言った言葉が脳裏をよぎったけれど、いまはすべてを忘れることにしてシリルの重い鎖鎧を脱がせ、神官服の下、手を滑り込ませる。待っていたよう、肌が掌に吸い付く。胸の辺り、指を弾けばアレクの頭を抱えたシリルの腕の力が強くなる。
「……っ」
 シリルはこらえきれなかった声を漏らし、アレクの足に腰を擦り付けた。喉に舌を這わせながらアレクは微笑する。嘘でも本当でもかまわない。シリルがいま自分を求めているのだけが真実。たとえそれが肉欲だけだとしても。
「いい?」
 囁けばこくりとうなずく気配。
「気持ちいいって、言えよ」
 不意にいたぶりたくなって耳の中、猥語を注ぎ込んだ。シリルが体を弾ませる。止まることをしない指に、体は反応し続けている。




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