偵察に出ていたアレクが足音を消して戻ったのは昼過ぎだった。あの町長が言っていた魔術師嫌いの町とやらがすぐそこにあるはずだった。
 旅はそれほど苦労のあるものではなかった。山を迂回する分、道のりが長かったことは確かだが、さほど荒れた土地ではなかったし魔物の横行も少なかった。むしろ少なすぎた、と一行は思っている。それがいぶかしいのだが、いまのところ気にしても仕方ないこととして横に置いてあったのだった。
「どうだった?」
「あれのどこが町よ? せいぜい村って所ね」
「でも、あったんだね?」
「えぇ。警戒が特別厳重ってわけでもないわ、普通。ただ、なんだか見かけた人の顔が暗いのよね」
 まぁ、こんな所に住んでれば仕方ないけど。アレクはそう結ぶ。聞いたシリルは顎に指を当て、少しうつむく。それから目を上げてサイファを見た。
「どうしましょうか」
「糧食の補充はしたほうがいいだろう」
「それはそうですが」
「え、でもさ。サイファは危ないよね、そこ行ったらさ」
「でもサイファだけ残していくわけには行かない、そのほうが危ないから」
「そうは言っても、坊や残して行ったらちょっとこっちが危ないかもしれないわ」
「村の中で危険があるかも知れない?」
「わからない。あるとは言い切れないけどなんとなく嫌な感じなのよ」
「じゃあ……」
「私を置いて行く必要はないし、わざわざ村の敵意をかきたてるつもりもない」
「サイファ? どうするの」
 どう、とは言わずシリルにだけ目を向けて少し待て、と言う。これで魔術を使うと知れたことだろう。サイファは一行の目から隠れるよう木陰に消えた。
「どこ行っちゃったのかな」
 一番に声を上げたのはやはり、ウルフ。まださほど時間が経ったわけでもない、と言うのにきょろきょろと辺りを見回している。
「きっとすぐ戻るよ」
 安心させるようシリルは言うが、自身なにが起こっているのか理解してはいなかった。
「まぁ、大丈夫でしょ」
 アレクの何気ない言葉にウルフが強い視線を向ける。無責任、と響いたのだろう。シリルがなだめるよう、ウルフの腕に手を置いた。
 と、がさり。下草を掻き分けて進んでくる音がする。
「なんで、こんなところに」
「人家が近いからかもしれないわね」
 アレクは不思議そうに首をかしげるシリルを横目に手を差し伸べた。
「だめ、アレク」
「え?」
「触っちゃだめ」
 ウルフが飛び出して来て立ちはだかった。
「え? なんで?」
「これ、サイファ」
「は?」
 ウルフが後ろに庇ったのは、どこから見ても黒猫だった。つやつやして綺麗な毛並みだが、どう見ても猫だ。
「ウルフ?」
「説明なんか俺に求めないでよね」
「ま、それもそうよね」
「でもこれサイファだもん。俺にはわかるもん」
 そうだよね、問いかけるウルフの言葉に、溶けることのない氷のような青い目をした黒猫はそっぽを向いた。
「……サイファだわ」
「ちょっとアレク、それどういう意味?」
「えー、べつにぃ。サイファだなぁって思っただけ」
 意地の悪い笑いを漏らし、アレクは黒猫を改めて見る。やはりアレクには猫にしか見えなかった。
「んーとね。ほら、ここ」
 必死になってウルフが猫の耳を指差す。艶やかな黒い毛並みなのに、両耳の一部だけが銀色だった。
「これってあれかしらね?」
「だと思う、だからサイファなの」
 嬉しそうにウルフが言った。
「サイファ、ですか?」
 ようやく猫自身に尋ねる、と言う一見馬鹿馬鹿しくその実これほど確かなことはない方法をシリルがとった。
 黒猫は渋い顔をしてうなずいた。
「ちょっ……うなずく猫なんてどこにいるのよ!」
 途端にアレクが爆笑する。が、猫の体になったサイファに返事ができるはずもなく、他に方法がないのだから仕方ないだろう、と反論することもできない。
 猫はサイファの変化した姿だった。耳飾りの痕跡を残しておけば誰かしらが気づくだろう、と思ったのだがそれほど小細工をしなくてもウルフにはわかったらしい。妙な勘の鋭さは獣的だ、とサイファは思う。その単なる勘が、アレクには気に障るのだろう、視線がどことなく険しい。ウルフの理解が、何がしかの特別な絆だとでも思われては迷惑だ、と言葉にできないサイファは横を向く。
「サイファったら、犬かなんかに変わった方がなにかと便利だったのに」
「まぁ、そう言わず」
「でも、猫だと抱っこして連れて行かなくっちゃならないわよ? 猫がちまちま歩くのに付き合ってらんないもの」
 猫のサイファがうなだれた。サイファとて考えなかったわけではないのだ。だが変化のときウルフのことが一瞬よぎった。狼に属するものに変化するなど、言語道断、そう思ってしまったのだから仕方ない。
 サイファは不本意ながらシリルの側まで歩いていく。そしてじっと見上げた。
「あの、サイファ。大変に残念ですが僕は期待に目を輝かせているウルフを失望させることができません」
「あーら、アタシもいやよー?」
 兄弟がそろって笑う。振り向きたくなかった。きっと背後ではウルフが胸をときめかせて待っているはずなのだ。
「と言うわけで、サイファ。ウルフに抱っこされて行ってください」
 シリルの言葉を待っていたわけでもなかろうに、ウルフはそっと黒猫を抱き上げ、それから毛並みに頬を摺り寄せた。
「サイファだ、サイファ」
 思い切り嫌そうに体をそらした猫を見て、ウルフが大喜びしている。爪を出さない前足で、サイファはウルフの頬を叩いた。それを見ては兄弟がまた声を立てて笑った。
 小さな村だった。周囲を頑丈な木の柵で囲われ、門には若い男が立っている。村の若者をその任に当てているのだろう。
「なんの用だ」
 じろりと警戒もあらわな目で男が一行を見る。
「宿で一泊したいと思っています」
「……魔術師はいないようだな」
「えぇ、ご覧のとおり」
 シリルが両手を広げて見せる。男はそれでもまだ不審の表情を浮かべたまま、今度はウルフを見た。
「猫を連れた旅ってのは、珍しいな」
 どきり、とウルフの胸が弾む。それを見越したアレクが男に向けて笑みを浮かべる。
「あら、そうなの? 最近の流行なのよ。危険を察知してくれるから助かるの」
「ほう? そういうもんなのか」
「アタシたちも他の冒険者に聞いてそれに倣うことにしたってわけ」
「それならそれでいい。宿は村の通りの真ん中あたりだ。行けばわかる」
 男は肩をすくめて通してくれた。一行は何食わぬ顔をして通り過ぎ、門番が見えなくなったあたりでほっと息をつく。
「アレクってすごいねぇ」
「そうかしら?」
「うん、すごい」
 ウルフが絶賛するのをシリルは苦笑しながら見ていた。宿屋はすぐに見つかった。宿屋、と言うのが申し訳なくなるくらいの粗末な建物だ。案の定、宿の主人は一行を見て情けなさそうな顔を浮かべている。主人の背中に見え隠れしているのは、おずおずと覗き込む、娘だろう少女の姿だった。
「あらま、こりゃ困ったこってして。うちは宿屋と申しましても、まぁ村のもんが酔いつぶれて寝ていくだけのとこでして、旅の方に泊まっていただけるようなとことは違いますんで」
「でも部屋はあるんでしょ?」
「へぇ、お綺麗な娘さん。そりゃありますがね」
「部屋があればいいの、寝られれば上等よ」
「はぁ、でもそうは仰いましてもなにせ村のもんが寝てくとこですんで一人部屋しかないんですわ」
「いいわ、それで」
「その……まっこと申し訳ないとは……」
「ないの?」
「いやいや、ありますがね、その、二部屋しかないんですわ」
 薄くなった頭に浮かぶ汗を必死に拭っている。泊めたくないのではなく「綺麗な娘さん」と話すのに慣れていないせいだろう。くすり、少女が笑う。
「かまわないわよ、アタシとこの男は同じ部屋でいいもの。ね?」
 少女の笑みに答えてからそう言って、シリルに笑みを向ける。その顔の裏で否やを言わせないものを感じたシリルはうなずき咄嗟に口を挟む。
「毛布を余分に一枚貸してくださればそれでかまいません」
「ははぁ、丈夫そうですからな。じゃ、そちらに一部屋、娘さんがたに一部屋、と言うことで?」
「えぇ、そうしてちょうだい」
「失礼ですが、お客さん。その猫は粗相はしないでしょうな」
 黙ってやり取りを見ていたウルフに向かって主人が言う。吹き出すのをこらえてウルフは猫のサイファを抱きしめた。
「絶対に大丈夫です、いい子だから。ね?」
 言ってサイファに頬を摺り寄せる。サイファは不審の念を抱かせないよう、無下に嫌がることもできない。猫らしい顔をしなければ、と殊勝にウルフのするままにさせていた。
「そ、そうなの、とってもいい子なのよ」
 笑いをこらえてアレクが言うその声が震えていた。主人はいぶかしげな顔をしたものの、部屋を汚されなければそれでいいとばかりに一行を中へと案内する。一行に向けた少女の顔が控えめな歓迎にほころんだ。それでずいぶん気持ちが和む。
「じゃ、こちらがお客さんがたのお部屋です。どうぞごゆっくりなすって」
 言って主人は踵を返した。
「まだ晩御飯まで時間あるよね?」
「そうねぇ、少し早いわね」
「じゃあ、俺ちょっと寝るよ」
「疲れたの?」
「少しね」
 ウルフは兄弟に手を振って自分の部屋に入ろうとする。その耳許にアレクが小さく囁いた。
「武装、解かないほうがいいわ」
 なにがしかのおかしな気配を感じたのだろう、振り返ったウルフの目の前に真剣なアレクの顔がある。黙ってうなずき、ウルフは扉を開けた。




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