今にも擦り寄ってきそうなウルフを視線で牽制しているうちにシリルの考え込む表情に気づく。
「どうした?」
 声をかけられ、はっとしたシリルは照れたような視線を向け、どう説明しようかと迷うのだろうまた少し考え込んだ。
「さっき、即席だ、と言いましたよね?」
「言った」
「例えばですが、その耳飾り……」
 言った所でそれがウルフが渡したものだと思い出し、次いでサイファの渋面に出会いシリルは笑って誤魔化してしまう。
「あ、いえ。耳飾りじゃなくて、首飾りです、首飾り。それとウルフの剣と何か違うのですか?」
「即席か永続かの差だが」
 とりあえずシリルの失言は許すことにしてサイファは続ける。
「例えばこの首飾りは時間をかけてエンチャントしてある。現時点では私自身はなんら魔法の発動に関与していない。ウルフの剣は即席だからな、私が継続して魔力を流している、と言ったらわかりやすいか?」
「疲れない?」
 口を出したのはシリルよりウルフが先だった。鞘の上から剣に手を触れ、今にも返す、と言い出しそうだ。
「それほど」
「でも」
「訂正する。ほぼ完全に気づかない程度の力しか使っていない」
 事実、疲れるほどのものではない。むしろ剣とサイファが繋がっていることによって、その持ち手であるウルフの感情がある程度サイファに筒抜けになってしまうことのほうが問題だろうとサイファは思っている。無論のこと言うつもりはなかった。
 自分でも不思議なことに、心配したり少しのことで機嫌を損ねたりするウルフを見ているのが楽しい。きっとすぐに変わってしまう、人間だから。いつかそう遠くない未来、ウルフが自分を忘れて人間の誰かの所に行くのだろう、と思えば意外なほどに苛立つ。だからこそ、それまでの短い時間を味わってみるのも良いかもしれない。そんな風に思う。ウルフの恋心にあてられたのだ、きっと。それだけだ、と目を閉じたサイファは誰かの手が毛布をかけてくれたことも気づかなかった。
 目が覚めるたび、そこにウルフがいたような気がする。はっきりと覚えてはいなかった。窓から明りが射しこんでいたり薄暗かったりしたから、時間は経っていたのだろう。いつもベッドの傍らで心配そうに覗き込んでいるウルフがいた。
 夢うつつに手を伸ばした。赤毛に光があたって綺麗だ、と思ったのかもしれない。寝癖のように跳ねまわる髪は思いの外に柔らかかった。
 何度か声をかけられた。何を言っていたかは覚えていないが、不安そうな声だったことだけは覚えている。確かにここしばらくないほど、最低の体調だった。体は鉛のようだし、頭は重い。寒気がして疲労感が取れない。まるで修行時代に戻ったようだった。
 サイファの長い年月の中でも、これほど急速に付与魔術をかけたことはなかった。そもそも時間がある時の暇つぶしのようなもので、即席に発動させるものではないのだ。が、いまはどうしても必要だった。ウルフの剣が腕に伴わないものである以上、そうするのが一番確実にウルフを生き延びさせる手段になる。
 眠りの中、サイファは思う。ウルフを死なせるのが嫌だったから、こうしたのだな、と。あの若造に死なれるくらいだったら、多少の吐き気くらい何ほどのものではない。自分にできることがあったのにウルフを死なせた、と後悔するなど耐えられない。
「サイファ?」
 薄く目を開ければ生きたウルフが覗いている。うなされでもしていたのだろう、気にしなくていいと首を振る。
「眠れ」
 疲れに掠れた声が自分のものだとわかるまで少しかかった。ウルフが手を握って子供のように首を振っている。その手を振りほどく。眠りにかすんだ目にもはっきり見えるほど、傷ついた顔をした。知らず口許が笑っていた。
 振りほどいた手でウルフの頭を抱え込む。そのまま引き寄せて胸の上に乗せた。まだウルフが何かを言っている。サイファはもう聞いていなかった。
 完全に気がついたのは、どうやら朝だった。窓から漏れる光が冷たいから、きっとそうなのだろう、サイファは思う。
 目覚めたのは不快だったからだった。体の上に重たいものがある。呼吸が苦しくて目が覚めた。体を起こそうにもうまく動かない。そうしてようやく気づいた。
「……なぜお前がここにいる」
 胸の上ですっかり熟睡しているウルフだった。手荒に起こすのも可哀想だと思ったが、とにかく息苦しいのだ。体をゆすってウルフを起こす。
「あ、サイファ」
 目を擦りながらも嬉しげにウルフは言う。
「良かった。もう元気そうだ」
「なぜここで寝てる」
「なんでって、サイファが引っ張ったんじゃんか」
「私が? 馬鹿な」
「嘘じゃないもん」
 言ってウルフはまた胸の上に頭を乗せた。どこか幸せそうな顔で、無下に追い払うこともしかねる。言われてみれば記憶の彼方にそのようなことをしたと言う覚えがなわけではない。認めたくはなかったが。
「サイファってさ」
 体を起こし、ウルフがまだ横になったままのサイファの頭の両側に手を突く。どういう体勢なのか、理解はしていないのだろうとサイファは内心で盛大な溜息をつき、身をよじって逃れようとも思うのだが、余計な刺激はしないことに決めて黙って下から睨みつける。
「けっこう寝顔が可愛い」
 咄嗟に殴りつけてやろうと伸ばした手があっさり掴まれた。
「寝起きの魔術師に殴られるほど、とろくないもん」
 笑ってウルフは掴んだ手を離す。目と鼻の先で見るウルフはいつもと同じように見え、そのくせどこかが違う。大人びたと言えば最も近いかもしれない。
「良かった。ホント心配したんだ」
 不意に笑みを消してウルフが体を伏せる。体の上、ウルフの重みを感じてサイファは動けない。耳許で聞こえる声やぬくもりや、そんなものに束縛されて小指一本動かせない。
「少し、疲れただけだ」
 ようやくのことにそれだけを搾り出す。うなずいたのだろう、ウルフの髪が頬の辺りで揺れた。
「あんまり無茶しないで」
 体を起こしたウルフが唇を引き締めたまま言う。まだすぐそこにある目を睨みつけることもできない。怪我や病気ですぐに死ぬ人間を心配しているのはこちらだ、と言い返すことが出来なかった。
「あら、お取り込み中?」
 思い切り笑いながら聞こえてきたのはアレクの声。扉が開くのさえ気づかなかったとは不覚の極み。
「アレク。頼みがある」
 地底に轟くサイファの声。答えるアレクは鈴を振るような女の声。
「これを押さえてくれ」
「これって坊や?」
「他に何がある」
「いいけど、どうするの?」
「殴る。思い切り殴る」
 まだウルフがそこにいるのもかまわずサイファは握った拳を震わせる。あまり見られた格好ではなかった。案の定アレクは声をあげて笑い出す。
「ちょっと、坊やったら……アンタ、サイファに何したの?」
 腹を抱えて笑いながらもベッドの側の小さなテーブルにトレイを置く。朝食を持って来てくれたのだろう。それからウルフをサイファから引き離し、ウルフより大きな手でぽんぽんと頭を叩いた。
「何って……サイファに俺のために無茶しないでって言っただけ」
 そこにアレクがいたのがウルフの不幸だった。ただの事実の確認であって、取り立てておかしなことを言ってはいないつもりだっだろう。だが、それがアレクにどう聞こえるか、サイファは知っている。ウルフが最後まで言わないうちに頬が鳴った。
「いってぇ」
 唇を尖らして非難するウルフにサイファは拳で殴らなかっただけましだと言い放つ。サイファの行動にだろうか、それともウルフの言葉にだろうか、アレクはもう限界を超えてしまったのだろう、息も絶え絶えに笑い転げていた。
「笑うな」
「だって……!」
「もういい、さっさと出て行け」
 不愉快でたまらない、といった顔をしたサイファが手を振る。アレクはそれを良いことに腹を抱えたまま扉を抜けた。きっと部屋の外では何事か、とシリルが待っているのだろう。
「サイファ、食べられる?」
 殴られたことなど気にしていない、とウルフは笑みを見せアレクが持ってきたトレイを掲げている。サイファは黙ってうなずいてベッドを降りる。
 焼き立てほかほかのパン、ゆで卵にハム。新鮮なミルクがついていた。しっかり休息をとった体が食物を欲している。ここしばらく覚えがないほど空腹だった。
「はい、サイファ」
 ウルフがちぎったパンにバターをつけて寄越す。返事もせずに受け取ったのは内心で溜息をつくのに忙しかったせいだ。
「さっさと食え」
「うん」
 言いながらもウルフはサイファのために卵の殻をむいたりしている。不器用で見ていられなかった。
「寄越せ」
 手を伸ばして卵を取り上げる。
「上手だね」
「お前が下手なんだ」
「そっか」
 サイファの指がゆで卵の殻を綺麗にむいていくのをウルフが嬉しそうに見ている。何がそんなに楽しいのだろう、といぶかしく思いながらむき終わった卵をウルフに突き出す。
「え?」
 咄嗟に受け取ってしまったものの、どうしたらいいのか困っているウルフにはかまいもせず、もうひとつの卵をむき出す。それを見てようやくウルフは卵にかじりついた。
「何をへらへらしている」
 言ってからしまった、と後悔するが遅い。どうせウルフは何事か無意識にサイファを困らせることを言うに違いない。
「別に」
 が、予想に反してウルフは少しばかり頬を緩めただけで何も言わない。サイファは自分の卵に歯を立てながらぎょっとした。もしかしたら何かを言われたかったのかもしれない、と思って。
「次、どんなとこか楽しみだね」
 黙々と食事を続けてしまったサイファの耳にウルフの声が飛び込んでくる。はっと気づいたのはウルフの指が髪を梳いていたから。
「食事中に止せ」
「じゃ、食べてなきゃいい?」
「いいわけがない」
 軽口の応酬が、兄弟のようだと思って密かに笑った。そしてやはり、こういう風に言われたかったのだな、と思ってはなぜか暗澹とするのだった。




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