窓枠に腰掛けたままだったのが災いしていた。ウルフの、サイファより小柄な胸の中に抱きこまれてしまっていた。いつのまに動かされたのだろう、半身をウルフに向けさせられ傷ついたウルフの手が髪を撫でている。 「アレクが剣を持ったら、前に出れると思った。少しでもサイファが、安全になると、思った」 途切れ途切れの言葉。意味を理解するまで少し、かかった。それから笑いたくなる。あの呪いのなんと正確なことか。 確かに呪いは発動していた。ウルフのサイファを守りたいと言う気持ちに反応して。アレクがいればサイファは安全だ、そうウルフが思ったからこそ呪いはアレクを殺そうとした。 わかってみれば馬鹿馬鹿しい。唇を歪め、硬くなっていた肩から力を抜いた。気づけば胸のつかえがすっかりなくなっている。それもまた馬鹿馬鹿しいと共に腹立たしい。 「未熟者」 先ほどと同じ言葉。同じように言ったつもりなのに今度はそれほど冷たく響かなかった。 「でも……」 「自分の手だけで守るくらい、言ってみるがいい」 「無理」 かすかに笑った気配がした。頭を預けた革鎧が堅い。温かい腕に反して体温を伝えない鎧が物足りなかった。 「どけ」 そう思った瞬間、サイファはウルフをはねのけている。自分がなにを思ったのか知って驚いてしまっただけだったが、ウルフはまだ怒っているとでも思ったのだろう。さらに謝罪を口にしてサイファを閉口させるのだった。 サイファは自分を見失ったことを呪った。背後から笑い声が、抑えてはいたが紛れもない笑い声が聞こえてしまった。 「サイファ……」 ウルフが手を伸ばしてまた抱きしめようとするのを邪険にならないよう気をつけて払う。この上くどくどと謝られたのではたまらない。 「ごめん」 それでもまだ謝るウルフに目を向け、もういいと視線で言う。途端にウルフの目に歓喜が浮かぶ。気持ちの変わりやすい人間、と言うサイファの種族観は決して間違ってはいなかった。たとえウルフがいささか極端な例であるにしても。 「あーら、仲直りは済んだみたいねー?」 明らかに波乱を望んでいるアレクの声に、つかつかとサイファは歩み寄り柔らかい革鎧の胸からのぞく襟元を掴んで引き寄せた。 「サイファ、兄には僕が」 慌てて介入しようとするシリルを目で抑えアレクに視線を向けなおす。サイファは笑っていた、獰猛に。アレクもまたこの上なく楽しいことが待ってでもいるような目でサイファを見返す。 「相互不可侵と行こうじゃないか」 どこか楽しげではあったが低い、アレク以外には聞き取れないほど低い声だった。長い年月に経験したこともない状況にあって、サイファの目許は痙攣している。 「やっと認めるわけ?」 アレクの菫色の目が興奮に煌く。 「なんのことだか」 言い返したサイファ自身、実際の所なにがなんだか理解できていない。認めるも何もそもそも何をどう認めろと言うのだろうか。だがここでそれを問うのは弱みになるとばかりに唇の端を歪めて笑いを作る。 「ごちゃごちゃと口出しされたくないだけのこと」 「ふーん、で?」 「お前が口出ししないなら」 言葉を切って頬にも笑いを刻む。思わずアレクでさえ見惚れたくなるほど精悍な表情だった。 「こっちにも口出さないってことね。いいわ、それで」 「ご理解いただけてなによりだ」 「ねぇ、シリルは?」 「シリルはそもそも無作法に笑ったりしない」 「あら、お言葉ですこと」 ふんとアレクは冷たい笑いを作って見せ、それからうつむいて今度は本心から笑い出した。 「もっともだ。シリルはいい子だからな」 くつくつと笑う声は女の演技を忘れて低い。 「よせ」 「なにがだよ」 「……気色悪い」 現にアレクから手を離したサイファは己の口に手を当てて目をそらしていた。だがその目が笑っているのをアレクは見逃していない。 「酷いわね、ホント」 女の声に戻してアレクは笑い続け、それからサイファの長い髪を指に絡めてくちづけた。 「なにを……」 気味悪げにサイファが下がったのと、シリルがアレクを引き離すの、そしていつのまに回復したのやらウルフがサイファを抱き寄せるのが同時だった。 「いい加減にしろ!」 最初に正気に返ったサイファが珍しく大声を上げ、混乱した事態を収めようと努力する。 「離せ」 「やだ」 「いいから離せ」 「じゃあこっち向いて」 「なにがじゃあだ、なにが」 「だってアレク、ずるい」 「……なにがどうずるいのかは聞かない」 「だってさ」 「聞きたくない。黙れ、頼むから」 ついに頭を抱えたサイファが事態の収拾を諦める。時間が経つのを待つ以上にできることは何もなかった。 当然のことだったが三人のうちで正気に返ったのはシリルが一番速かった。それでもさんざんにアレクと口喧嘩をした後のことではあったが。 「あ、まずい」 「なにがよ」 「日が暮れる」 「あ……」 開いたままの窓から見れば早、外は暮色が濃い。もっとも今夜は暗黙のうちにここで夜を過ごすつもりだったから野営の心配だけはしなくて済む。 「ちょっと部屋の外を見てきます」 薪か何かがあるはずですから、シリルは言いアレクを促した。 「その間に手当てをしておいてください」 部屋から出際にサイファを振り返り、シリルは傷薬を投げて寄越す。サイファは黙ったまま片手でそれを受け止めうなずいた。 「座れ」 なにとなく顔を合わせづらいとサイファは思っているのだが、ウルフは体の痛みどころか機嫌までもすっかり直っているようで嬉々としてサイファの横に腰を下ろした。 部屋の一方に暖炉がある。盗賊たちが使っていたのだろう、まだ新しい煤がついている。その前に二人は座っていた。 「サイファ」 「なんだ」 傷薬の蓋を開けかけ、サイファは目を戻す。ウルフが何かを言いかけてやめたような気がした。視線で言葉を促せばようやく口を開く。 「ごめんね、さっき」 なにを謝っているのかと思う。もっと他のことを言いかけたのかと思った自分に腹が立つ。そしてそらした顔には呆然とした表情が浮かんでいた。いったいなにを言って欲しかったというのだろうか。苛々と薬の蓋をいじるのだが一向に開かなかった。 「俺さ、あの兄弟も大好きだけどサイファが一番好き」 うっかり咳き込んだ。それをウルフが心配そうに見ている。わかっている。特別な意図があって言っているのでないことくらい、わかっている。が、どことなく胸が温かい。 「早く一人で守ってあげられるように、頑張るからさ」 少し、照れた声。サイファは答えを持たなかった。黙々と蓋をいじっていた手にウルフの手が重なる。振り解くのは憚られて、自分の手のほうを引き抜いた。 「傷を見せろ」 薬を諦めてサイファは言う。微笑んでいるウルフに苛立ちを感じながら、それが自分自身への苛立ちだ、と知った。 鎧を解くまでもなく、腕や頬以外に傷がないのはわかっていた。サイファの魔法は痛みを与えこそすれ、傷つけはしていない。捲り上げた袖からのぞく案外に逞しい腕についた切り傷も頬の切り傷も、いずれも盗賊にやられたものだった。 それにサイファは指を当てる。痛むか、と目で問いかけウルフが首を振るのを見て指をさらに押し当てた。口の中で呟いた呪文が指を通して解放される。 ウルフはふっと痛みが消えるのを感じたのだろう、驚いた顔をしていた。サイファははじめてではないはずなのに、と不思議に思う。別の個所にも指を当て、治療を続ける。シリルと違い、サイファの治癒呪文は接触しないと使えない。神官であるシリルはおそらく一行の傷を瞬時かつ同時に治すことができるだろう。サイファにはひとつずつ根気よく治していくよりない。 「サイファ、いいの?」 指を離した所を見計らってウルフが言った。 「なにがだ」 「魔法。薬あるのにさ」 「……こっちの方が早い」 「そっか」 それで納得したかどうかは知らない。そもそもサイファ自身が納得していない。魔術師である自分が呪文を唱えるより、確かにこの程度の傷だったら薬で充分、と言う気もする。 「目を閉じろ」 顎先を捉えてウルフの頬に反対の手で触れる。じっと見つめてくる目があってはやりにくいこと甚だしい。 「えー。なんか照れる」 茶化して言うのはアレクの悪い影響としか思えない。つきたくなる溜息を必死で押さえ顎を取った指に力を入れた。 「顔の形が変わるほど殴られてもいいなら、開けていればいい」 脅しつける低い声。それなのにウルフは声を立てて笑った。そして素直にうなずいて目を閉じる。途端にサイファは失敗を悟った。このほうが余計、恥ずかしい。無防備に閉じた目は、単なる信頼の表れだろうけれど、反ってそれがサイファの心に波を立てる。 無意識に指に力が入ったのだろう、ウルフがかすかに眉間に皺を寄せる。慌てて力を抜き、悟られないよう深呼吸をして治癒呪文を唱えたのだった。温かいものが指先からウルフへ流れ込むのを感じる。ウルフもきっと感じているだろう。 シリルのとは違う呪文。神の恩寵ではない純粋な魔法の産物であるサイファの呪文がウルフの傷を癒していく。サイファの体の内に、生命を活性させる力を作り出しそれを流し込む。そうしてウルフの体に移るのはサイファ自身の命と言ってもいい。 遥か昔、魔術の師に習った呪文が役に立つ日が来るとは。半エルフであるサイファは、自身の傷を治すのに治癒呪文を必要とはしなかった。 |