ウルフの様子がおかしくなったのは全員が理解していた。目の色が違う。普段の良く言えば温和、悪く言えば間の抜けた色合いをしていない。口の傍から唾液が垂れていた。 「ウルフ……?」 不安そうなシリルの声に反応したわけではなかった。ウルフは一直線に走り寄り切りかかる。アレクに。 「坊や! しっかりなさいッ」 短剣で受け流しはしたが、もう一度同じことができるとは思えない。アレクは背中にいやな汗が流れるのを感じた。 「シリル」 緊張したサイファの声に促され、ウルフに傷をつけないようアレクを援護する。その間にサイファが呪文を編む。 「どけ」 サイファの声にシリルはアレクの肘を掴んで飛びのいた。同時に魔法が発動する。ウルフの体が光の網に拘束されていた。 「ぐ、あ……」 正気を失った口から苦鳴が漏れる。仰け反った喉が苦しげに喘ぎ、束縛から逃れようとよじる体はさらにきつく締め上げられていた。 「シリル、剣を叩き落せ」 返事をする間も惜しんでシリルがウルフの小剣を剣で払う。一度では落とさなかった。しっかりと握りこんだそれを二度三度と打つ。サイファは光の網をさらにきつくしてシリルを援護した。 「ちょっと……坊やが……!」 呆然となす術もないアレクが焦った声を出す。締め付けられたウルフは口から泡を吹き始めている。 「体力はある」 冷たいとも聞こえるサイファの声に、何を思う暇もなくアレクの平手がはじけた。頬を張られたサイファだったがわずかに視線を動かすこともせず呪文を維持する。 「アンタ……!」 「よせ、アレク。サイファの集中を乱しちゃだめだ」 「だって……」 言って唇を噛み、ようやくサイファの指が小刻みに震えているのに気づいた。サイファはサイファなりに細心の注意を払っているのだ。少しでも疎かになれば本当にウルフが切り刻まれてしまう。だが、緩い網ではあの剣をウルフは離そうとするまい。 「やった」 やっと小剣を叩き落したシリルが歓声を上げる。それと時を同じくしてウルフが膝をつく。が、まだ小剣に手を伸ばそうとしていた。 「どけ」 床に落ちた小剣に触れるものはいない。サイファは無造作に歩み寄り剣を取り上げた。 「サイファ!」 シリルが声を上げたが、サイファには異変は起こらない。彼の手指は魔法で包まれていた。まだ呻き声を上げるウルフが床の上を這っている。剣を取り上げる前に緩めた網から抜け出そう、剣を取り返そうと足掻いているらしい。 それを一瞥し、網に綻びがないのを確かめる。まだ剣の支配下にあるウルフに襲いかかられてはたまらなかった。 「ほう……」 しばしの後に上がったサイファの声は地を這うようだった。わずかに目許に笑みがあるのが余計に恐ろしい。 「サイファ?」 恐る恐る声をかけたのはシリルだった。アレクはとっくに目をそらして関わらないことに決めている。 「ナイフはあるか。尖った物ならなんでもいい」 兄弟の振る舞いなどどこ吹く風、とサイファはシリルに欲しいものを言いまた剣に目を落とす。渡されたナイフで剣の柄に近い部分にあった印を削りかけ、思いとどまってシリルに見せた。 「古代文字は読めるか」 「多少ならば、えぇ」 返事にサイファは剣を差し出す。シリルはそれを手に取ることなく覗き込み、そして顔色を変えた。 「これは……不思議なこともあるものです」 シリルが目にしたのは一連の古代文字だった。神人たちが使った魔法言語で、すでに廃れて久しい。いま彼らが使っている言語に比べて非常な厳密さを求められる言葉だった。一文字入れ替えるだけで意味が逆転してしまうことさえある。 そしてサイファが手にした小剣には明らかに一字を削り取られ新しい文字を刻まれた跡があったのだった。 「不思議、ね」 鼻で笑ってサイファは借りたナイフで改められた文字を削り、元の文字に書き直す。ふっとウルフの呼吸が楽になるのを全員が感知した。 「坊や、大丈夫?」 アレクが駆け寄り、苦痛に涙を流しているウルフの手を取ろうとするのだが光の網にまだ阻まれて果たせない。 「放してやってよ、もういいんでしょ?」 「まだだ」 そっけなく言ってサイファはまだ小剣を改めている。 「ちょっと。それどういうことなのよ」 立ち上がり詰め寄るアレクに目を向けサイファは最前シリルに問うたことと同じことを問う。答えは一言だった。読めない、と。それに落胆するでもなく、むしろ嬉々としてサイファが説明する。 「ここに刻まれているのは守護の呪文だ」 「持ってるものを守るってやつかしら」 「いや……」 言葉を切ったサイファが薄く笑ったのを見てシリルが一歩下がる。 「愛しい者を守れるように、と。字を変えられたせいで愛しい者を害する呪いになっていたがな」 サイファの唇が笑いを刻むのとアレクが金切り声を上げるのが同時だった。無論、それを少しでも避けるためにシリルは下がったのだが、何の功も奏さない。 「どういうことよ、えぇ!」 「知らん」 「あの、サイファ……」 「なんだ」 「ウルフがアレクをと言うのはかなり、その」 「が、呪いは発動した」 「ははぁん」 アレクがふとうなずき、にたりと笑ってウルフに視線を向ける。まだ痛みに喘いでいた。その視線に促されるよう、サイファはウルフに近づき光の網を解除する。 「未熟者」 一言いって腹を蹴り上げた。ウルフの喉が振り絞られ、腹を抱えてのたうつ。革鎧に包まれた腹を蹴った足のほうが、痛かった。 「迂闊に拾ったりするからこういうことになる」 涙目で、声もなく見上げてくる目からサイファは顔をそむけかけ、そして睨みつける。 「お前の行動で全員が迷惑をする」 謝ろうとしているのだろう、ウルフの唇は動いてはいるのだが、強張った喉からはまだまとまりのある言葉は流れてこなかった。 「未熟者」 さらに言い、蹴りつける。その言葉が自分が意図したよりずっと冷たく響いたことに胸が痛んだ。唇を噛む。忌々しい。なぜこんなに腹が立つのか理解できない。 ウルフの返答を待つでもなく、さっさと背を向けたサイファは先ほど襲ってきた盗賊たちが出てきた部屋へと向かった。残党がいるとは思えなかったし、現時点では一番安全のはずだった。 荒れた部屋だったが想像以上というわけでもない。盗賊でも住居に快適さは求めるのだろう、扉の向かいにある窓からは新鮮な空気が存分に入ってきていた。窓枠に腰掛け、サイファは溜息をつく。 不愉快だった。自分を守るとつい今しがた言った人間がああいう行動をとるとは。髪をかきあげ埃とともに不快を払いたいとでも言うように手櫛で整える。 少しも気分は良くならなかった。 「サイファ、ありえないわよ」 背中から声がかかる。聞こえないふりをした。今は誰とも話したくない。 人間は不可解ですぐに気分を変える。今まで見てきたたくさんの人間がそうであるように。ウルフもそうであるに過ぎない。 だが。サイファの心うちの別の声が言う。ウルフは違うと思っていた、と。それをサイファは首を振って否定する。そう思いたかっただけだ、と。 ウルフが気づきもしない恋情にさらされすぎた。久しぶりに疲れた、と思う。 「坊や、這いずってるわ」 まだ答える気はなかった。 「アンタに向かって。こっち来てるわよ。アタシたちが手を貸そうとすると嫌がるの」 一人でアンタの所に来たがってる。アレクは言いそれから黙った。 すぐに床を這う音が聞こえた。魔法で痛めつけられ、蹴りを食らった体ではさぞつらいだろうと思う。魔法をかけた時点では、仮に魔法で傷を負っていても呪いを解いたあとすぐに治してやるつもりだった。シリルの手を借りるまでもない。いや、自分の手で治療したいと思っていた。 いまはとてもそんな気になれない。それがいっそう不愉快だ。あんな人間の若造が誰を好きになろうが知ったことではない。心の内で叫んでも不愉快さは少しも静まらない。 なにより、なぜこれほど嫌な気持ちなのかがわからない。たかが人間の目が自分から他人に移っただけ。それがこうも気持ちを波立たせるとは。 「サイファ」 弱々しい声が下から聞こえる。息を詰めて兄弟が背後から見守っているのも感じる。だから余計サイファは答えない。 「サイファ」 痛むのだろう、立ち上がりかけては倒れると言うことを何度も繰り返している。手は、貸さなかった。 どれほど時間が経ったかはわからない。ずいぶんだった気もするし案外早かったのかもしれない。窓枠に手をかけて這い上がったウルフがサイファの手に触れる。無論、払い落とした。 それを繰り返すうち、面倒になった。好きにさせればいい。胸の中で誰かが言う。それが聞こえたわけもないだろうにサイファがもう払わないと知ったウルフはやっと立ち上がりそして。 「ごめん、サイファ」 後ろから腕がまわってきていた。つらいのだろう、体重がサイファにかかってしまっている。重たかった。 「離せ」 ウルフの体の重みを感じて、強張っていた喉がようやく声を出す。 「ごめん、サイファ」 聞こえなかったように、先程のサイファのようにウルフはそればかりを繰り返した。少しずつ、体に、腕に力が蘇ってきているのを感じる。忌々しいほど回復力がある。舌打ちをしようとして、すっかり押さえられているせいで顔が動かせないことに気づいた。 |