崩れ果てた街道をさらに二日ほど進んだころ、一行の左手、西のほうに何かが見えた。木々の隙間から見えるそれは人工物である以上にはわからない。 「どうする?」 シリルがアレクに問うている。ここから見えていてもおそらく到着するにはまだ半日程度はかかるだろう。 「行きましょ」 後ろの二人に相談するでもなくアレクは決める。そもそもウルフに決定権はなかったし、サイファにしてみればこの未熟な若造がもう少しばかりであっても経験を積んでくれないことには一行を守るどころか自分の命さえ危ない。 「じゃ、そうしようか」 シリルもまた、二人に相談はしなかった。あの野営の日以来、極端に機嫌の悪いサイファである。シリルと話している間は多少、機嫌も戻ったように見えていたのだが、野営地に帰ってウルフの顔を見た途端、呆気なく機嫌は最悪になっていた。 ウルフはウルフでそんなサイファの顔をしょんぼりと見ているだけ。内心でシリルは溜息をつく。サイファは不器用な兄弟、と言った。だが不器用なのはいったいどちらなのか、と。 なにはともあれ、口を出しても仕方のないことなので兄弟はそのまま二人を放ってあるのだった。 そこについたのはやはり、午後を幾分まわったころだった。 「思ったより早く着いたね」 「これだけ大きいとはちょっと思わなかったわ」 「まったく」 兄弟の嘆声の通り、実に巨大な建物だった。否、建物の残骸であった。往時にはそれは美しい館であっただろうに今は左右の翼棟も崩れ、瓦礫と化している。だがそれでもまだ充分に大きな建物だった。ありがたいことに屋根もある。 「今日は夜露に濡れないで済みそうね」 嬉しげなアレクの声だった。それから無造作にアレクは足を進め、そして館の一歩前で止まる。 「どうしたの?」 ぼんやりしたウルフがそれでも不審に思ったのだろう、問いかけている。 「ちょっと黙って」 珍しく真面目な声だった。手であとの一行を止め一人で足を踏み出す。ゆっくりと扉の前にかがみ、それから手鏡で鍵穴を横手からのぞいた。 「やっぱりね」 満足そうに一息つき、それから針金で鍵穴を探った。ピン、と何かがはじける音がして、鍵穴から尖った細いものが飛び出した。 「シリル!」 ちょうど後方左手に立っていたシリルに向かって飛んで行くそれにアレクは慌てた声を上げたが、そのときにはシリルが短剣で払い落としたあとだった。 「ごめん、ちょっと失敗」 「平気」 「いまの、何?」 深い落ち込みも、生来の好奇心にはかなわないのだろう、ウルフが興味深げに落ちた物を拾おうとしている。 「坊や! 触らないの」 「え、なんで?」 そうは言ったもののウルフの動きも止まっている。さすがにアレクの声の切迫した様子には気づいたのだろう。 「毒が塗ってあったらシリルの手間が増えるでしょ」 そう言って落ちた細い物を足先で蹴りつけた。鍵穴に仕込んであったのは長い針だった。うかつな者が扉を開けると飛び出してくる仕掛けらしい。 「中々面白そうじゃない」 「どこがさ」 「だってこんな仕掛けするってことは中になんかあるから入らないでくださいって言ってるようなもんよ?」 「それはそうだけど」 「扉は開いたし、行きましょ」 「アレク、頼むから用心してよ」 「わかってるってば」 嬉々として扉を開けたアレクにシリルが続く。そのあとからサイファとウルフがお互いに目をあわさないよう見つめあう、と言う器用なことをしてのける。 「サイファ」 一言、彼の名だけを呼んでウルフは手でサイファを促す。後方は守る、と言ってるのが伝わったか、サイファは無言で足を進めた。 外から見るより内部は荒れ果てていた。扉をくぐってすぐの部屋はかつての大広間のようだ。つまりその前の部屋や廊下は崩れてすでになくなっているらしい。左右に優雅な彫刻をほどこした柱が立並んで天井を支えている。とは言え、一部はやはり崩れていた。 「すごいわね」 感嘆しきり、と言った声でアレクが囁く。目を落とせば床は美しい青だった。これだけ荒廃してもなお残る青。往時にはどれほど素晴らしいものであっただろうか。 「シャルマークの貴族の別荘かなにかかしらね」 辺りを見回してアレクが言っている。その視線がサイファに止まった。 「アンタ、わかるんじゃない?」 「あぁ」 「どうなのよ」 「神人の、館だろう」 「……それは想像以上だわね」 目を見開いてアレクが驚く。無論シリルも絶句していた。 「なんでわかるの」 ようやく、ウルフがサイファに声をかける。ここ数日まともに口をきいてもらえていない。何が原因なのかもさっぱりわからないウルフはただおろおろとするばかりだった。そんなウルフをサイファはじろりと眺め、それから大袈裟に溜息をついて見せてからおもむろに口を開いた。 「床が青い」 「えっと、その。それだけ?」 「それだけだ」 「サイファ。それはあの伝承ですか」 冷たいサイファの口調にまたも肩を落としたウルフを哀れに思ったかシリルが口を出す。 「伝承って?」 「君は知らないかな……神人の故郷である天上の国は、青い宝石が大地に敷き詰められているんだって、聞いたことない?」 「んー、ない」 「だから神人は青い床を好む」 ぼそり、サイファが付け足した。 「アンタ、見たことあるんでしょ?」 「あぁ、ある」 「実際そうだったんだ、昔話かと思ってたわ」 「事実だ」 さりげない言葉だったが、シリルが息を呑む。事実と言うことはサイファは神人を知っているということになる。あるいは三叉宮の中にさえ入ったことがあるのやも知れない。 「神人がこの地にいたころはまだ若かった。さすがにそれはない」 シリルの無言の問いを感じたか、かすかにサイファは微笑んで言った。 「それって?」 言葉にしない問いなどわかるはずもないウルフが不思議そうに尋ねる。それをわずらわしげにサイファは無視し、あらぬ方を見やった。 「さ、行くわよ」 見なかったふりをしてアレクは先を見つめる。そらした目許は見ている自分のほうがつらい、とでも言いたげだった。 「サイファ」 小声で呼ぶのにもサイファは答えない。そっと滑り込んでいた手が指に絡まるのを邪険に払った。 「守るから」 痛そうにウルフが手をさする。それほど強く払ったわけではない。だからきっと、痛かったのは手ではなくウルフの心なのだ、そうサイファはわかっている。ウルフがわかっていないこと、それ自体が苛立たしいのだとはサイファにもわからなかったけれど。 前方でアレクがまた扉の前、かがんでいた。右手手前の扉を調べているのだが、どうやら罠はないらしい。アレクがうなずくと同時にシリルが前に出てノブをひねって蹴り開ける。そしてすぐ半身をひねって扉の前から退いた。 「はずれみたいね」 シリルが安全を確かめた後、溜息混じりにアレクが言う声が聞こえる。部屋の中は半ば以上瓦礫に覆われていた。隣も、その隣も同じような状態で、その度にアレクの眉間の皺が深まっていく。 「次、反対」 右側はついに何もなかった。険しい声で広間の最初の扉付近まで戻る。左手の部屋を調べるつもりだった。一番手前の部屋の前で体をかがめたアレクの目が光る。 「シリル」 聞こえないほどの小さな声、呼ぶ。静かに確かめて扉の罠がないのは確認済みだ。側にかがんだシリルの耳許、アレクは物音が聞こえると囁いていた。 立ち上がったシリルが後方に目配せをする。それにウルフもサイファも黙ってうなずき返す。そしてシリルが扉を蹴った。 「ウルフ!」 アレクの声が飛ぶ。後方は大丈夫だから前に出ろ、と。部屋の中にいたのはゴブリンだった。確認できるのは二匹。 出会い頭に切りかかってくるゴブリンをシリルが一刀の元に切り捨てる。どうやらすでにゴブリンは一行の気配を感じ取り戦いの準備を整えていたらしい。だが、シリルとウルフの敵ではなかった。シリルの切ったゴブリンが床に倒れるころ、ウルフもまたゴブリンを切っていたのだから。 「こんなもんかしら」 当てが外れたのを嘆くよう、アレクが言ったとき背後から殺気が飛んだ。 「サイファ!」 魔法を使うまでもない、と後方に控えていたサイファの背後、ゴブリンがいた。分断を恐れて全員が部屋に入ってしまったのが災いする。ウルフが咄嗟に飛びかかろうとするも、ゴブリンのほうが速い。サイファに一撃が、だれもがそう思ったときサイファの指がひらめいた。 「サローム」 冷たい声だった。が、出現したのは炎。ゴブリンは一瞬にして炎に包まれ、火で焼いただけとは思えないほど素早くぼろぼろの灰になった。 「サイファ、怪我は」 飛んできたウルフが気遣わしげにサイファの目を覗き込む。 「ない」 素っ気無く言ったものの、どこか怒りが解けていく思いがするのを否定できなかった。 「あぁ、もう。はずれね!」 そんな二人にかまうことなく、アレクの落胆の声が響き渡る。シリルが苦笑して二人を見たが、どうやら自分たちのことは意識に上ってもいないらしい、と口許の笑いが深くなったのだった。 |