ウルフの身動ぎを感じたのが先か、剣の鍔鳴りを聞いたのが先か。サイファがウルフの膝から体を起こしたときには、血臭がしていた。目を開けば獣の死体。
「なにが……」
 目覚めたばかりの霞がかかったような頭でサイファは問う。
「山犬、飛び出してきたから切るよりなくって」
 振り返ったウルフが少し、悲しそうにそう言った。一撃で死んだのだろう。喉の辺りから一筋、血が流れている。
 がさり、音がしてウルフが剣を構えた。
「あら、なんかあったみたいね」
 現れたのは兄弟だった。ほっとウルフが息をつくのが聞こえる。
「ちょうど良かったよ。ちょっとここ危ないかも」
「そうね、血の臭いがするとまずいわよね」
「移動した方がいいよね?」
「当然でしょ」
 言ってアレクがサイファを見つめる。それから目顔で体調を尋ねた。
「だいぶいい」
 一言、サイファは返す。短い眠りであったにもかかわらず、すこぶる気分は良かった。深い眠りだったせいかもしれない。
「シリルは休まなくって平気?」
 ウルフが気遣うように尋ねていた。
「え……なにが!?」
「ほら、疲れてないのかなって」
「全然! 僕は大丈夫だから!」
 おろおろとシリルが顔に出さずにうろたえている。おかげで何があったのかサイファには一目瞭然だった。思わず声に出さずに笑ってしまった。
 ウルフは単純に、シリルも魔法を使ったのだから疲れていないか、と聞いただけなのだが、隠し事のある身にはそうは取れなかっただろう。
「ちょっとアンタ、なんか言いたいことあるわけ?」
「別に?」
 喉の奥で笑いながらサイファが答えた。それには答えずアレクはサイファを睨み、背を向ける。シリルはまだ耳の辺りを血の色に染めていた。
「サイファ、俺なんかおかしなこと言った?」
 こっそりとウルフが耳打ちをする。背伸びをしなければならないから兄弟から隠れて、といかないところが情けない。
「気にするな」
「でも」
「大丈夫だ。お前は悪くない……たぶん」
 振り返ったアレクがまたもや睨んでいたのでサイファもまた、笑ってしまう。
「たぶんってなぁ」
 何がなにやらわけのわからないウルフがぼやくのに、ようやく正気を取り戻したシリルが出発を促した。
「ほんとアンタなんかが一緒で頭痛いわよ」
 忍び笑いを続けていたサイファにアレクが歩きながら毒づく。そしてその思いは全員が抱く思いでもあっただろう。ウルフ以外の全員が。
 移動するとは言ってもすでに午後も遅い時間だった。そう遠くまで進むことはできない。一行は野営場所を探しつつ歩を進め、途中でシリルが食用にできる芋を見つけたほかは何かに出会うこともなく、小川の側に野営場所を見つけた。
「これなら食べられるわね」
 シリルが用意したスープを食べながらアレクは機嫌よく言う。中身は例の干し肉と芋だけだったが、
「あの干し肉食べるのは絶対いや!」
 アレクがそう言い続けていたので、シリルが時間を費やしてまで見つけた芋でスープにしたのだった。
「ほんとシリルは料理上手だよねー」
 同じくスープをすすりながらウルフが感心する。
「アンタ、これで上手とかって言ってるなんてどんなもん食べてたのよ?」
「えー、それは……」
「言えないぐらいとんでもないものだったってことかな?」
 サイファが視線を送るより先にシリルがアレクの質問をはぐらかす。
「まぁ、そんなとこかも」
「想像するのが怖いね」
 言ってシリルが笑い、それはそこまでになった。シリルの料理以上に上手な介入に上げていた視線をサイファは落とし、食事の続きを片付けた。程なくシリルが欠伸をしはじめた。あれからずっと休んでいないのだから無理もなかった。
「サイファ」
 兄弟が休んだのを見てウルフがそっとサイファを呼ぶ。木の根元に毛布が敷いてあった。
「座って」
 いぶかしげにサイファは座る。昼間ぐっすりと眠ってしまったせいでさほど眠気はなかった。
「ちょっと冷えるかな」
 山犬に襲われたことを考えて一行は焚き火をそのままにしてある。あるいはもっと悪いものを引き寄せてしまうかもしれなかったが、まずは目先の襲撃を避けるためだった。
 その焚き火の、小さくした明りにウルフの顔がわずかに照り映えている。黙っていればどことなく気品のある顔立ちなのに、そうサイファは隠れてこっそり笑う。だが本心では、生き生きと話しているほうが好ましい、とも思っていた。自分でその本心を認めることはなかったが。
「これ」
 物思いに耽っていたサイファの肩が暖かくなる。
「なんだ?」
 問いながら見れば、ウルフのマントが肩に。重たい旅のマントはまだウルフの体温を残している。
「寒いでしょ」
「……別に」
「俺は平気だから」
「私も平気だが」
「ちゃんと前、留めて」
 甚だ噛合わない会話をしながらウルフがサイファに手を伸ばす。襟元をきちんと留められてサイファの体に彼のぬくもりがこもった。
「サイファ」
 襟元を直していた手が、肩を抱き寄せる。体を引く前に頭を抱えられてしまった。
「疲れてるでしょ? 寝ちゃってもいいよ」
 半ば強引にウルフの肩に頭を預けさせられてしまった。隣に座ったウルフと接している半身が、妙に温かい。
「別に」
 疲れてなどいない。続けるはずの言葉は声にならない。自分より小柄な若造の肩に寄せられた体が不自由なせいだ、サイファはそう思い込む。
「でも魔術師って、あんまり頑丈じゃないでしょ」
「人間の魔術師はな」
「サイファは違うの」
 耳許でウルフの声がする。眠る兄弟に聞こえないよう話す、囁きのような声が癇に障って仕方ない。
「違う」
 小声でありながら叩き付けるように言ってしまった自分の声を、ウルフはなんと聞いただろうか。暗がりの中、そっと唇を噛んだ。
「そっか」
 なぜか、ほっとした声。それさえも不愉快だった。
「サイファが丈夫なら、ちょっと安心」
 指が、髪を梳く。理由もなくしている行為だろう。それが異常にサイファの心をかき乱す。こうして身を案じるのも、触れたがるのもウルフは理解していなかったけれど、サイファにはその訳がよくわかっていたから。
「触るな。鬱陶しい」
 自分で思ったより冷たい声だった。一瞬ウルフが体の動きを止め、それから懲りずに髪を撫でた。
「ごめん。でも気持ちいいからもうちょっとだけ」
 かすかに笑っている気がした。もうなにを言う気にもなれない。馬鹿馬鹿しくてサイファは黙る。それをいいことにウルフはずっとサイファの髪を撫でていた。
 気がついたときには光があった。不覚にもそのまま朝まで眠ってしまったらしい。眠くなどない、と思っていたはずなのに、とサイファは愕然とする。
 なによりウルフがまだ隣にいた。さすがに髪に触れてはいなかったが、軽く肩を抱いた手もそのままに。呆然として声も出ないサイファに向かって、勝ち誇ったようアレクが微笑みかけていた。
「あら、おはよう」
 今ほど人間に慣れていない自分を呪ったことはなかった。咄嗟に言い返す言葉が少しも出てこない。口を開き、閉じ、また開いては閉じる。それから頭を抱えてうつむいた。
「サイファ?」
 諸悪の根源としか思えないウルフの声がする。性懲りもなく肩を抱いたままの腕を振り払って物も言わずに立ち上がる。
「サイファ!」
 慌てる声を後ろにサイファは小川に向かった。冷たい水で顔を洗えば少しは目が覚めるだろう。そうすれば逆襲の機会がうかがえる、と言うもの。
 が、川の水に手を浸そうと身をかがめれば目に入るのはウルフのマント。一晩中ずっと、自分が身につけたままだったらしい。
「あの馬鹿が……」
 戦士とは言え半エルフの自分からすれば、か弱い人間の身。病気もするだろうし、怪我も自分よりずっと治りにくい。それなのに一晩中。かすかに胸が痛んだ。
「お疲れだったみたいですね」
 またもや不覚を取った。目を上げた先にシリルがいる。どうやら先にここにいたらしい。
「アレクが何か言いました?」
 サイファの顔色を読んでシリルが問う。微笑んではいるものの少し不安げだった。
「言わなかったが、言った」
「……なるほど」
 不機嫌なサイファの口調にも怯むことなくシリルはうなずく。それから許してやってください、と頭を下げた。
「昨日はあなたにからかわれた、と感じていたみたいです。あの性格ですから……」
「何か言わなければ気がすまないだろうな」
「そういうことになります」
 それからもう一度、申し訳ありません、そう言った。
「なぜお前が謝る」
「なんと言いますか、その。監督不行き届きと言うか」
「武闘神官はそこまで定めし者の面倒をみるものか?」
「むしろ兄の面倒ですね」
 シリルが言っては笑う。サイファは呆れて絶句した。もっともおかげで乱されたままだった精神がいささかなりとも戻ったことは違いないが。
「一般的には兄が弟の面倒を見るものだろうが」
 言うだけ無駄と知りつつサイファは言う。
「あの兄のどこが一般的だと?」
 シリルはやはり笑ってそういなすだけだった。
「サイファ。忠告をひとつ」
「うかがおう」
 口許に笑みを浮かべてサイファが答える。言われることは見当がついていた。そしてそうやって自分のささくれた気持ちをなだめようとシリルがしていることにも気づいている。今は素直に受け入れる気分だった。
「僕たちのことをアレクに向かってからかわない方がいいですよ。あなたの身に、倍になって返ってきますからね」
 サイファの気分に応じてか、シリルが明るく言って笑った。言われたサイファが明るい気分になれるわけではなかったが。
「不器用な兄弟を、微笑ましく眺めているつもりだが」
「微笑ましく? あなたが?」
 ついにシリルが大笑いを始め、サイファはまたもや頭を抱えることになるのだった。




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