シリルは歩いていた。前をアレクが歩いている。ゆっくりと歩いているくせに、明らかに怒っているのがわかる。
 不意に立ち止まってアレクが振り返った。やはり紫の目は燃えていた。
「シリル」
 冗談ではないことを悟ったシリルは下がらなかった。黙ってアレクの目を見つめ返す。それにむっとしたように唇を噛み、アレクが草地に腰を下ろした。
「座れば?」
 刺々しい声。シリルは逆らわず、横に腰掛ける。
「アレク……」
 声をかけてもしばらくの間アレクは答えなかった。まるで、内心の葛藤に耐えてでもいるようだ。午後の光が木立を抜けて射しこんではアレクの耳飾りを輝かせている。平和な森のように見えた。
「なんであんなことした?」
 小鳥の鳴き声でも聞こえたら、しばしなれど故郷に帰ったような気になれるかもしれないと思っていたシリルの耳に飛び込んでくる声。
 アレクの真面目な声だった。普段の、女のふりをしているときの声ではない。またシリルやウルフをからかうときの男の声でもない。シリルだけが知る、ごく普通のアレクの声だった。
「あんなって?」
「わかってるくせに」
「……見当はつくけど」
 目をそらしたシリルを見、アレクはやはり、と唇を噛む。わかっているくせにああいうことをする。そうして自分が怒るとわかっていてもシリルはやる。だから余計、怒るのだと、わかっていても。
「馬鹿か、お前は」
「そうは言うけど」
「お前に守ってもらわなくっても、あの程度だったら充分自分の身は守れる」
 叩きつけるよう、アレクは言った。ぎらりと光った目が、アレクの怒りの大きさを物語っている。
 廃墟の町のことだった。最初の一撃をシリルが防いだ。それをアレクは怒っている。あの二人の前で口論をしたくなかったから耐えてきたものが、耐えた時間の長さに伴って深くなってしまってた。
「わかってるくせに」
 シリルはそんなアレクに少しだけ微笑んで見せた。見ないと知っていてなお。
「自分の身は守れる」
「わかってるよ、それも」
「じゃあ、なんで」
 ようやく見たシリルの顔に浮かぶ笑みにぶつかって、アレクはたじろぐ。
「アレク、忘れてるんじゃないの? それとも忘れたふりしてる?」
「なにが」
「アレクは僕の『定めし者』だよ」
「……だから?」
 無駄と知りつつもアレクは言い返す。それから編んだ髪を乱暴に解き手櫛で梳く。絡まって痛かった。
「大体、そんなこと望んでなかった」
 ぷちぷちと、切れた髪が指に絡まる。顔を顰めたのは切れた痛みか、それとも胸の痛みか。振り払った手から落ちた髪が木漏れ日に光った。
「でもね」
「でもも何もない」
 静かな声。それだけに深い怒りをシリルは言葉から感じ取るだろう。アレクは目を閉じて思い出す。もうずいぶん昔のことのようだ。シリルが武闘神官になった日。それから自分が彼の「定めし者」になった日。すべての幸福と絶望が共に訪れた日だった。
「アレク」
 シリルが呼んでいた。アレクは答えない。二人分の呼吸の音だけが森の中に響いている。そう遠くはないはずなのに、ウルフたちの気配すら、うかがえなかった。
「アレク」
 しつこいほどの呼び声にアレクが目を上げる。目顔で問いかければ、シリルが伏せていた目をやはり同じように上げ、アレクを見つめていた。
「アレクが、僕のことをどう思っているのかは知らないよ」
 ゆったりと、シリルは言う。アレクは激高しかけた。が、思い直す。そう、知るはずはないのだから。シリル好みの女の格好をしてからかっている冗談の過ぎる兄。それでいい。再び軽く目を閉じ、アレクは静かに呼吸する。
「でもね、僕は僕なりにアレクが大事なんだ」
 意味などない。シリルの「大事」は問うまでもなく、兄として。兄弟の情として。アレクは考えることをやめ、ただシリルの言葉を聞いていた。
「アレクに危害を加える何者も僕は許さない」
 甘く、つらい言葉。それがどんな意味なのか、シリルは知って言っているのだろうか。否。アレクの求めるような意味で言ってはいない。それをアレクは理解していた。
「だからって、いつもいつも守ってもらわなくってもいい」
「でもそうしないと、アレクは無茶苦茶するから」
 密やかな笑い声だった。もう少し元気だったらアレクは憤慨したことだろう、これではどちらが兄だかわからない、と。それほどの気力もなかった。
「だから、僕が守るんだよ」
「冗談じゃない」
「そう、本気だよ」
「馬鹿か」
「そうかもね」
「シリル。良く聞け。お前に怪我させて守られて、嬉しいと思うか?」
 口調に苦さが混じる。男として、守れるのが苛立たしいと言う思いもある。剣の持ち方も知らない姫君でもあるまいし、自分の身は自分で守れる。そうアレクは思っている。ある程度事実でもあった。
「だから、僕が前に立つんだって」
 何の気負いもない声だった。
「アレクは僕に怪我させたくないと思ってくれるでしょ」
「当たり前だろうが!」
「だから前に立つ。アレクを守る」
「……どうも同じ言語で会話している気がしなくなってきた」
 理解不能なことを言い出すシリルに、アレクは眉を顰めて目をそらす。
「だからね、僕に怪我させたくない、と思えばアレクだって無茶しないでしょ?」
「それは……そうだけど……」
「だからなんだよ」
 解いた髪を、シリルが手に取り、ゆっくりと梳いていく。シリルらしい、時間のかかるやり方で指が髪を梳く。
「僕を死なせたくないから、アレクは無茶しない。だから、僕はアレクを守れる」
 梳いた髪を丁寧にシリルが編む。少しも痛くなかった。見えないけれど、自分がするよりきっと綺麗に編めているのだろう、アレクは思う。
「アレクは嫌がってるみたいだけど、僕がアレクを『定めし者』にって言ったのは、そういうことなんだよ」
 そんなことは知らなかった。アレクは答えず、黙ってされるままにしていた。
 自分より確実に先に死ぬ。「定めし者」とされた自分は、シリルが死んだあとも生き残る。シリルがいないこの世を生きる。シリルはそれでいいのかもしれない。自分は、耐えられない。
「アレクが無茶しなきゃ、僕だって長生きできる」
 言ってシリルが笑った。けれど、言葉とは裏腹に、いくらでも無茶していい、決して守り損ねたりはしないから、そう言っているように聞こえてしまう。
「籠の中の鳥にでもなれって?」
 皮肉な笑いがアレクの唇から漏れた。そしてまた唇を噛んでしまう。そんな言い方をするつもりなど、なかったのに。
「アレク、わかってないなぁ」
「なにが」
「僕は武闘神官だよ? そうそう簡単にくたばらないってば」
 シリルの明るく笑う声を聞いているととても先に死ぬ運命を甘受するようには思えない。戦って戦い抜いて、死ぬのだろう。自分のせいで。
 だからと言って、安全な穴倉に引きこもって怪我の一つもしないように暮すなど、アレクにはできない。
「アンタに死なれるのが嫌なのよ」
 不意に女の声に戻ってアレクは言った。とても、真面目に話してなどいられない。本心を透かし見られるなど耐えられない。
「死なないよ」
「アタシが無茶しても?」
「いくらでもすれば? そのために武闘神官になったんだから」
 自分のために戦うとシリルは言うのか。胸の内を満たしていく甘い思い。同じほどに広がる索漠たる思い。
「そういうことはねアタシにじゃなくって、惚れた女に言いなさいよ」
 アレクは笑った。華やかで、誰もが惹きつけられずにいられない笑顔。けれどこの笑顔の下にアレクは心を隠し続けてきた。
「まぁ、それはそれとして」
 そうやっていつも誤魔化すシリルに向かって、ずっと隠してきた。
「今後なにが起ころうが僕の『定めし者』はアレクだから」
 意味などない言葉。言葉の持つもの以上の意味など、何もない。それでもアレクは心騒がせずにはいられない。守られたくなどない、先に死なれたくなどない。そう思うのと同時に、それがまた嬉しくもあった。
 自分のために戦ってくれる者がいる。無謀の極みとも言えるシャルマーク行きについてきてくれたシリル。しばしの間でも、あるいは死ぬ前のわずかな時間であっても、シリルと二人で過ごしてみたかった。なんのしがらみもない場所で、二人で。
 アレクは内心に見つけてしまった。もしかしたら死ぬつもりだったのかもしれない、と。何もかもを放り出して、死にたかったからシャルマークに向かったのかもしれない。シリルが追ってきてくれたならばそれもよし、一人きりでもまたよし、と。
 アレクは笑った。暗い所など少しもない笑いだった。今は死ぬ気などさらさらなかったから。それはある意味ではウルフのおかげ、とも言える。
「坊やに感謝、かな」
 呟くアレクに不思議そうにシリルが目を向ける。
「あの坊やを見てると、何かに思い悩むのが馬鹿馬鹿しくなる」
「アレク、それちょっと、酷くない?」
「全然。褒めてるから」
「どこが?」
「全体的に」
「……サイファが聞いてもそう思ってくれるかなぁ」
「どーしてサイファなのよ?」
「……別に?」
 ふっと、シリルが笑った。冴えない栗色の髪も、沈んだ茶色の目もアレクが心から大切に思うものだった。アレクには、何よりも誰よりも魅力的に映る。
「言いなさいよ!」
 笑ってアレクがシリルを押し倒す。不意をつかれてシリルが倒れたところに乗りかかり、そっと頬に触れた。
「ちょ……アレク!」
 聞こえないふりをしてアレクはシリルの唇を塞ぎにかかっていた。




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