苦悩もあらわに天を仰ぐサイファの髪をウルフが嬉しげに手に取る。 「いい、サイファが一緒に来てくれるなら殴られてもいい」 そんなことを言うから、そんなことをするから殴りたくなるのだと、ウルフはちっともわかっていなかった。まして肩口に額を預けられてしまっては、一度殴ったくらいで気が済みそうにない。 「離れろ」 例の魔物もかくやと言うような地を這う声だった。ただ片手にシチュウの器を持っていてはどうにも様にならない。兄弟がそれを見てはまだ笑っていた。 「ごめん、でもほんとに嬉しいんだ」 「わかったからへばりつくな」 「うん」 やっとのことで離れたウルフは、微笑んでいた。急に大人びた顔に見えた。何故か、サイファはそれに慌てた。 「まぁ、あれね。大穴塞いだらアタシたちは大英雄よね」 「塞げたらね」 「ちょっとシリル、自信ないわけー?」 「ないない」 「せめて僕がアレクのために塞いであげるとか言えないの?」 「無理。絶対無理」 「……可愛くないの」 「アレク、可愛いシリルがいいの?」 ウルフの無邪気な言葉にサイファがかすかに体を強張らせる。知らないと言うのは恐ろしいものだ、と。 「僕は美人の兄さんでいい、それでいいってば!」 それ以上をアレクに言わせないよう、シリルがおろおろと言い募る。慌てふためく様に、今度はアレクとウルフが笑い出す。 「……それはそれで問題だと思うが」 そんなサイファの言葉は三人には届かなかった。 「ま、未来の大英雄ってとこね、今は」 「せいぜい英雄候補だね」 「んー、英雄予備軍くらいじゃないの?」 「ちょっとアンタたち、自信を持ちなさいよ自信を!」 サイファの頭痛は三人の笑い声に深まるかと思いきや、騒ぎに巻き込まれていつの間にか消えてしまった。それがサイファには新鮮な驚きだった。慣れると言うのは中々に恐ろしいが面白い、と。 「ちょっと、アンタなに笑ってんのよ」 そんなサイファを見咎めてアレクが言った。知らず笑っていたらしい。 「笑っていたか?」 「自分のことでしょ!」 「気づかなかった」 「アンタ、絶対変よ」 「どこがだ」 「そこがよ」 即答され、サイファには返す言葉がない。サイファとしてはアレクにだけは変だと言われたくないのだが、アレクにはアレクで言い分があるのかもしれない。 「変か……?」 つい、一番聞いてはならないところに尋ねてしまった。 「全然。アレクが変なんだよ」 ウルフは当然、そう答えた。 「ちょっと!」 さらに一騒動持ち上がりそうなところにようやく笑いを収めたシリルが口を挟む。今にも掴みかかりそうにしていたアレクの片手を取り、ウルフとの間に入り込む。 「シリルってすごいねぇ」 「どこが?」 「俺、アレクのこと捕まえられたためしがないもん」 「慣れだと思うよ」 シリルはあっさりそう言ったが、サイファは心の中で嫌な慣れもあったものだと溜息をつく。 「サイファ、少し休んだ方がよくありませんか」 そんなサイファの心の内など知る由もなく、シリルは彼を気遣う。種類は違えども同じ魔法の使い手。サイファの今の疲労を心から理解できるのはシリルしかいなかった。 「そうだ疲れてるでしょ」 ようやく思い出したようウルフが言う。自分の不機嫌に巻き込んでしまったばつの悪さだろう、少しばかり頬が赤かった。 「そうさせてもらえるとありがたい」 そんなウルフを見たせいでもなかったが、今は素直に好意を受けておくことにする。なにしろこの三人はシャルマークの大穴を塞いで見せるなどと考えているのだ。自分がしっかりしていなければ三人が三人とも死にかねない。それは人間嫌いサイファにもいささか心痛むことだった。 「じゃ、坊やが側にいて」 「アレクは?」 「アタシはちょーっとシリルにお話があるの」 華やかにアレクが笑みを作った。シリルが一歩下がって逃げようとする。無論、逃げる場所があるはずもなく、当然逃げ切る前にアレクに捕まった。 「あら、シリル。どこに行くの?」 「え、と。ちょっと周りを見てこようかなぁ、と」 「じゃ、一緒に行きましょうね」 「僕だけでいいよ、大丈夫――」 最後まで言わせずにアレクはシリルを引きずって木立の向こうに歩き出す。笑いをこらえるサイファの方に向かって後ろ手にひらひらと手を振っていた。 「可哀想に」 こらえながら呟いた言葉はくぐもってた。不思議そうにウルフがサイファをうかがっている。 「何が?」 「別に」 「言ってよ」 「説教されるんだろうな、と思っただけだ」 「……可哀想だね、シリル」 わざとらしい溜息をウルフはついて見せ、次いで爆笑した。何が起こるか正確に理解はしていないだろう。ただ説教されるのが可哀想だと思っているだけだ。つきたくなる溜息をこらえるのは何度目だろう、と数え切れないそれを数える無駄をサイファはしなかった。 「サイファ」 ウルフが手早く自分の旅のマントを草地の上に広げている。横長に広げたそれの一方に自分が腰掛け、サイファを手招いていた。 「あぁ」 しっとりとした草に横たわるのは嫌いではない。むしろ心地いい。疲れてさえいなければ。草につく露に体が冷やされて、今は疲労が取れなくなってしまうだろう。 ウルフはそれをわかって用意しているわけではない。が、改めて見るサイファの青白いほどの顔色を見て、草に寝かせたくはない、そう思っただけだった。 何故となく、少しばかり間をあけてサイファもマントの上に腰掛ける。本人が自覚していないとはいえ、あのようなことを聞かされた後だ。無心に横に座るのは気恥ずかしい。そしてなぜ自分が恥ずかしがらねばならないのかと思っては腹立たしい。足元の草を一握り、引きちぎって風に流した。 「サイファ、横になったほうがいいって」 何を考えているのか、明るくウルフは言う。おそらく何も考えていないのだろう、サイファは思い、こらえようと思った溜息をこっそりつく羽目になる。 「サイファってば」 聞いているの、とサイファの顔を下から覗き込む。真正面から見つめられて、思わず目をそらしてしまった。まったく腹立たしい。サイファはまた一握り、草をちぎった。 聞く気がないとウルフは見たのだろう、不意に右手が引かれた。 「な……」 突然のことに体勢を崩したサイファの視界が揺れた。大地が横に、天も横に。 「少し寝たら?」 サイファの動揺など知りもせず、無頓着なウルフの声。サイファは投げ出していたウルフの足を枕にしていた。 「……っ」 声もなく身悶えするサイファのことを、重い戦士の腕が押さえつける。ゆったりと体の上に置かれただけの腕なのに、サイファは動けなかった。急に、疲れた気がする。硬い膝枕でさえ妙に眠りを誘うのはそのせいに違いなかった。 「ちょっと焦げ臭いだろうけどさ」 気にしているのだろう、ウルフが革鎧の臭いのことを口にする。 「いい」 まるで自分のものではないかのようにサイファは言葉を発していた。無意識にだろう、ウルフがサイファの髪を撫でていた。 若造の無骨な手。荒れた指に時々髪が引きつれる。痛かった。が、サイファは何も言わなかった。ただ黙って目を閉じている。 「サイファが怪我しなくて、良かった」 ぽつり、ウルフが言った。眠っていると思ったのかもしれない。 「馬鹿か、お前は」 「なんだ、聞いてたの」 照れくさげなウルフの声が降ってくる。 「あの程度で死にはしない」 火傷からかばってもらったことを言ってた。未熟者にかばわれるなど、サイファには初めての経験でうまく物が言えなかった。 「そういう問題じゃないよ」 「なんだと言うんだ」 「サイファが怪我するのを見たくないってこと」 「仮に火傷したとする。お前と同じ程度だとしても、半日もあれば治る」 「だから、そうじゃないんだってば」 どうしてわかってくれないかなぁ、そう続けてウルフはぼやいた。 サイファにはわかってた。そしてこの話をうっかり続けてしまった自分を悔いていた。 「サイファはね、俺が守るから……できるだけ」 言ってウルフは笑った。しまらないこと甚だしい。どうせならば命がけでくらい言えばいい、そうすれば怒ってやるのに。サイファは思い、そして愕然とする。 こんなに思い乱れるのが許せない。人間の若造ごときに乱されている。きっと、この手のせいだ。あんまりたどたどしい手で髪を撫でたりするからだ。ひそかに唇を噛みうつむけば、余計自分からウルフの腿に頬を押し付ける結果となって、なにかの間違いのように動揺した。 「守られてるのはお前だろう。未熟者め」 ぼそりと言い、それからサイファは口をつぐんだ。頭上でウルフが笑っていた。 「本当にそうだよね」 一束、髪を指に巻きつけていた。それから離せば、跳ねるようにサイファの髪は元に戻る。 「でも、ちょっとだけでも役に立ってると思うのが、嬉しいんだ」 サイファは答えなかった。また、髪を撫で下ろす手。それが肩の辺りで止まって、ウルフのぬくもりがじわり、サイファの体に伝わってくる。 「サイファには、怪我なんかさせないから」 やはり答えず。眠ったふりをしていた。それでも満足そうな吐息が上から降ってきた。ふりだけのはずが、いつの間にか本当にサイファは眠りに落ちていたのだった。 |