一行は戻るより進んだ方がいい、と一度街道のほうに向かって戻り、それから北に進路を取る。オルトの町に近づけば、例の男の仲間が万が一いた場合、かち合ってしまう可能性があったからだった。
 おかげで休み場所は中々見つからなかった。昼近くになるまで、じめついた森の中を歩いた。古い街道が途中で消え、そこが森になってしまっていたのだった。
「時間って言うのは恐ろしいもんよね」
 アレクが高い木々を見上げて呟く。
「どうして?」
「考えてもみなさいよ。ここ、街道だったはずよ。坊やが生まれるよりずっと前まではね」
「アレクだって生まれてないでしょ」
「それはそうだけど。でもこんな立派な樹が生えちゃうのよ」
「うーん」
 振り返りながらアレクが言うのをウルフは理解しがたげに聞いている。神官であるシリルは大陸の歴史を学んでいる。そのシリルからアレクは話を聞いているせいで、一般よりずっと歴史に詳しい。消え去った街道を見ても、かつてこの森が街道であったとは、誰も信じないだろう。アレクは先のほう、街道の名残を漠然と指差した。
「シャルマークの王都に繋がる、大街道だったはずよ、ここは」
「王都か……」
 はじめてそれを知ったようにウルフは言い、そして黙ってしまった。
「意外と普通の森のようですね」
 それを振り払うようにシリルが言う。
「シャルマークの領内は、植物さえも異形に成り果てている、と聞きましたが」
「王都に近づくにつれてその度合いはひどくなるが、この辺りではまだたいしたことはない」
「ねぇ、アンタってもしかしてシャルマークの大穴まで行ったことあるんじゃないの」
「ない」
「あっそ。冒険者だったのかと思ったわ」
「冒険に出たことなどないが」
「……実戦経験がないわけじゃないでしょ」
「それはある」
「どんな?」
 不意に顔を上げてウルフが問う。目が輝いていた。何かに思い悩んでいたのが嘘のようだった。
「以前……まだ我が師が存命であったころのことだ」
「それって昔話級の古い話じゃないの」
「人間の暦で計ればそうなるな」
 アレクのいぶかしげな声に思わずサイファも笑ってしまった。確かに人の身からすれば魔術師リィの話など、炉辺の昔話のようなものだった。
「師の塔の周りがいささかうるさくなってな。師と二人、討伐しているうちにあちこちさ迷い歩く羽目になった」
 多少、事実をぼかした。人間である彼らが聞いて楽しい話ではないはずだった。またサイファ自身、彼らに話したいとも思わない。
「……なんか信じられない」
「なにがだ」
 少しばかり昔を懐かしんでしまったサイファにウルフの不思議そうな目が向けられている。
「サイファが若かったころって、想像できない」
「それはどういう意味だ」
「だってさ、お師匠様についてたってことは、まだ若くてさ、勉強してたんでしょ? お師匠様に叱られるサイファとか、想像できな――」
 呆れるより先に手が出てしまった。気がつけばウルフの頭を張り倒していたサイファを見て、前の兄弟が一斉に吹き出す。
「魔術師リィの最高の弟子をつかまえて、それはないよウルフ」
 笑いでつまりがちな声をあげてシリルがたしなめる。が、あまりたしなめているようには聞こえない。
「いいなぁ、アタシも見たかった。お説教されるサイファ! 見たかったわぁ」
「アレク、よしてってば!」
 兄弟が言い合って笑うのをウルフは呆然と、サイファは頭を抱えて見ている。
「お説教、された?」
 恐る恐るウルフが聞くのについサイファが言い返してしまう。
「我が師は優しい方だった。が、厳しい方でもあった。まぁ……説教されたことがないとは、言わん」
 律儀な答えのおかげで、兄弟の笑いはさらに深くなり、ついには立ち止まって腹を抱えるに至った。さすがにむっとはしたものの、久しぶりに思い出す師の面影にサイファは心奪われる。人の優しさを知ったのも、穏やかな日常があると知ったのも、師の元だった。
「サイファ」
「なんだ」
「別に」
 不思議と機嫌が悪そうにウルフは足を速める。まだ笑っている兄弟を追い抜き、進んでいった。
「ウルフ、待って!」
 シリルが笑いを収めようと努力しながらウルフを追う。アレクもそれに従い、一瞬置いてサイファも進んだ。一体何が起こったのか理解できない、と首をひねりながら。
 足早に進んでいくウルフを見てアレクが振り返る。
「サイファ、追って」
 そう言う彼の顔に笑みはなかった。サイファは言われるままにうなずいて追う。後ろから進んでくるはずの兄弟の歩みが遅くなるのを背後に感じた。
「ウルフ」
 だいぶ離れてしまってから呼びかける。ウルフは止まらなかった。無言で進み続ける。時折、剣を振るって木々になる果実を切り落として集めている。
「ウルフ」
 追いついて手を取った。いやに冷たいウルフの左手。握り締められたままのそれを掴んで引き止めた。
「いったい……」
 どうしたと言うのだ、聞こうと思った。が、ウルフの言葉に遮られる。
「お師匠様のこと好きだった?」
 まだ掴まれたままの手をウルフは払い、サイファを振り返る。じっと見つめる目に炎があった。
「なにが言いたいのかわからん。尊敬はしていたが」
「好き嫌いで言ったら、好きだったんだよね」
「……そういうことになる」
 何が言いたいのか、さっぱりわからなかった。激しい怒りに駆られていることだけは理解できるものの、なにがウルフをそうさせているのかがサイファにはわからない。
「人間なのに」
 だいぶ経ってからぽつり、ウルフが言う。
「サイファのお師匠様、人間だったんだよね。それなのに好きだったんでしょ」
 一息に言い、そして唇を噛む。そらした目は何も見てはいなかった。
「あぁ……」
 そういうことか、ようやく理解する。どうやら人間は嫌いだと言ったくせに、師だけは好きだったと――サイファにとっては敬愛だが――それが気に入らないようだ。
「人間嫌いなのに、今でもお師匠様のこと好きでしょ」
「懐かしく思い出すことがないとは言わないが……」
「ずるい」
「なにがだ」
「お師匠様、ずるい。人間なのにサイファに好かれてる。ずるい」
 なにを馬鹿な、言いかけてサイファはやめた。今にも泣き出しそうなウルフを見てしまったら、とても言えなくなった。
「どうしたらサイファにちょっとでも好きになってもらえるのか、わかんないよ……」
 顔をそむけたまま乱暴に目許をこする。サイファのほうこそ、どうしたらいいものかわからない。ただ黙って立ち尽くすよりなかった。
「人間は嫌いだ」
 サイファの言葉にウルフが体を震わせる。
「だが、あの兄弟は見ていて面白いと思うし、それなりに気に入っている」
「俺は」
「気にかかってはいる」
「未熟者だしね」
 ウルフらしくない投げやりな口調だった。かすかに笑った顔も、普段の晴れやかなそれとは似ても似つかない。
「それもひとつあるが……」
「なに。言って」
「お前がどう思っているか知らないが、私はなんとも思っていない者を心配するような性格ではない」
 怪我をすれば心配だし、危険かもしれないと思えばアーティファクトで守りもしたい。それをなんだと思っているのだろうか。
「かなり、気に入っている部類だと、思うのだが」
 言いながら、サイファは自分で戸惑った。何かおかしい。なぜ、こんな話を自分たちはしているのだろうか、解せない。ウルフは自分で言っていて気づいていないようだが、一通りの好意とは思えなかった。
 ウルフの言っている「好き」は特別なそれだとしか、サイファには思えなかった。知らず頬に血が上りそうになって顔をそむけた。
「ほんとに?」
 それを誤解したのだろう、ウルフの不安げな声がする。
「あぁ」
「ちょっとくらい、好き?」
「少しは、な」
 まったく自分で言っていて自分の言っていることが信じられない。確実に話が噛合っていない。サイファの言うそれとウルフの言うそれは言葉こそ同じ物でも意味がまったく違う。そのはずだ。
 だがしかし。それならばなぜ、嬉しいのだろうか。こんな人間の若造に。心の内にそう呟いても、もう忌々しいとは思えなくなっている自分に気づくだけだった。
「サイファ……」
 先程、振り払われた手が温かくなる。ウルフの手の中、包み込まれていた。サイファはじっと動けない。あらぬ方を見たまま、黙って立つばかり。肩口にぬくもり。押し付けられたウルフの額。赤毛が視界の端で揺れていた。
「いつか好きって言ってほしいな。……高望み過ぎか」
 喉の奥でウルフが笑っている。怒って泣いたと思ったらもう笑っている。この感情の波の激しさが好ましいのかもしれない。一人きりでいると泣くことはおろか怒ることさえないのだから。
「サイファ、大好きだよ」
 温かい体がここにある。手を握られていたはずが、気づけば柔らかく抱きしめられている。驚くほどそれが嫌ではなかった。なにをどうしたらいいのか、わからない。長い年月生きてきて、これほど戸惑ったことはなかった。
「まずは未熟者って言われないように頑張るかな」
 額を離したウルフが、ほんの目の前で笑った。澄んだ茶色の目にサイファの戸惑いが深くなる。どう考えてもウルフの好意は好意以上のものだった。本人がそれに気づいているとは思えなかったが。
 ウルフは確実に自分がなにを意図して言っているのか、理解していない。それがサイファにはわかる。が、ウルフの言葉にある真意にサイファは気づいてしまった。
「努力するんだな」
 ようやくそれだけを、そっけなく言うのが今のサイファにできる精一杯だった。混乱して、まともに物を考えられない。半エルフの自分が人間に好意をもたれるなど師を失くした今、もう二度とありえないと、ずっと思っていた。ましてそれ以上など。それなのにウルフはまっすぐ自分を見ている。
 ――決して嫌ではなかった。それが余計に混乱を増させる原因ともなっていることにわずかながら気づいてはいる。が、だからと言ってどうしようもなかった。
 呆然とするサイファを、ウルフはただ嬉しげに見つめていた。




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