銀の耳飾りはまだウルフの手の中にある。何度かそれを見つめ、口を開きかけては黙るということを繰り返しているうちにしびれを切らしたのは当然、アレクだった。
「ちょっと、どうするのよ!」
「あ、ごめん」
「いいから。で?」
「うん……これさ、動きがちょっと速くなるんだよね」
「そうみたいよ」
「じゃあさ」
 言葉を切ったウルフが目を上げる。目のあったサイファは知らずうろたえた。
「サイファがつけてよ」
 嫌な予感は当たったようだった。
「必要ない」
「でもさ」
「いらない」
「サイファがちょっとでも安全だと思えば、俺すごい安心するから」
「嫌だ」
「お願い、サイファ」
「絶対――」
「そんなに嫌がらなくってもいいじゃない。ウルフより似合うわよ」
 埒の明かない会話にアレクが介入する。おかげでサイファの形勢は一気に悪くなった。シリルは黙って笑みを浮かべながらやり取りを見ている。
 それを見て取ったウルフが嬉しそうな顔をして立ち上がり、そっとサイファの髪をかきあげた。
「なにを……」
 止める間もなく銀の葡萄はサイファの耳にあった。
「ほら、やっぱり似合うし」
 晴れやかな顔をして笑うのも憎たらしい。こっそり兄弟が顔を見合わせて笑っていた。
 思い切り殴ってやろうかと思った。焦げた革鎧の臭いがする。振り上げたはずの手は、首飾りの一つをもぎ取るように引きずり出し、ウルフに向かって投げつけていた。
「つけていろ」
 それだけ言ってサイファは背を向ける。どこへとあてもなく足早に歩き去っていた。
「シリル、どうしよう……」
 すっかり怒らせてしまったと思い込んだウルフが情けない顔をしてシリルを見た。
「ちょっと見せて」
 ウルフの手の中にある首飾りをシリルは覗き込む。もっともらしい顔を作りながらもこらえきれない笑いが唇に浮かんでいた。
 これほど耳飾りをつけるのを嫌がったとは思えないほど、美しい首飾りだった。これほどの物を身につけながら耳飾りを嫌がるなど、不思議なこだわりだとしか思えない。耳飾りと同じく銀でかたどられた、こちらは鳥。羽ばたいた翼の片方ずつから鎖が伸びている。鳥の目には淡い空色の石がはめ込まれていた。
「サイファの目とそっくりの色してる」
 嬉々としてウルフが言う。それに目だけを向けてシリルは微笑みさらに首飾りを観察した。
「僕は魔法のアーティファクトの鑑定は苦手だから……はっきりしたことは言えないけど」
 そう首をひねる。ウルフの許しを得て手に取り、軽く目を閉じた。
「あら、アタシは鑑定なんかできないけどわかるわよ」
 胸をそらしてアレクが言う。すっかり勝ち誇っている顔だった。
「それ、あの耳飾りと同じ魔法がかかってるんじゃないの」
「うん、僕もそう思う」
「え……じゃあ。俺、余計なことしちゃったのかな」
「いいんじゃないの。結局受け取ったわけだし」
 そうあっさりと言うアレクだったが、ウルフの顔つきは晴れない。シリルから返してもらった首飾りを掌に乗せ、困ったようにじっと見つめていた。
「ちゃんとつけてなさいよ」
「でも」
「いまさらそれ返しに行ったりしたらサイファ、もっと怒るわよ」
 にやにやしながら言うアレクの言葉にシリルがもっとも、とうなずく。それを見てはそうするつもりだったとはとても言えない。諦めてウルフはそれを首にかける。
「なんか、変わったって気もしないけど」
「気にしなくて大丈夫。そういうものだから」
「ほら、しまっときなさい」
 アレクが手を出し、鎧の上に垂れていた鎖を襟元から中に入れる。鎖が肌に当たって冷たかった。
「サイファ、これも持ってれば良かったのに」
 まだぐずぐずと言うウルフに兄弟は声を上げて笑い、唇を尖らせたウルフにシリルが軽く謝罪して言った。
「魔法と言うのは二重にかけられるものもあるけど、それは違うみたいだね」
「どういうこと?」
「サイファが持ってても、二つ分素早くなるわけじゃないんだよ」
「あ……」
「サイファは君の耳飾を受け取る気になったから、それをくれたってこと」
「大事にしなさいよね、坊や」
 くしゃり、ウルフの赤毛をかき混ぜてアレクが茶化す。慌てて払った手は、けれど空を切ってアレクの手を捉えることは出来なかった。
「全然速くなんないよ」
「アタシが速いのよ」
 再度手を出し、アレクは笑う。やはり捉えることは出来なかった。
「サイファ、探してきて。そろそろ出発した方がいい」
「そうね、あの男に仲間がいたりしたらちょっと面倒だわ」
「わかった」
 ウルフは駆け出して、サイファのあとを追う。どこにいるかはわからなかったけれど、きっとすぐに見つかる気がしていた。
 案の定、サイファは一本道を隔てたすぐそばにいた。崩れた石壁に腰を下ろしてぼんやりしている。呼びかけるのを途中でやめ、ウルフは足音を殺して後ろから近づいた。
「サイファ」
 そっと背後から抱きしめられて名を呼ばれ、はじめてそこにウルフがいるのにサイファは気づく。
「離せ」
 邪険に振り払おうとしたものの、回復力の勝る戦士の体は容易に離れなかった。
「まだお礼、言ってなかったから」
「いい」
「ありがと、サイファ」
 照れくさそうな声が耳許でする。首筋に温かい息がかかっているのが心地良いような、逃げ出したいような。
「礼には及ばん。お前が怪我するたびにシリルが治していたのでは効率が悪すぎる。それだけだ。別に他意はない」
 言って多すぎる自分の言葉にサイファは唇を噛んだ。背中でウルフが笑った気配がする。
「それでも、ありがとう」
 まわされている腕が、一度きつく体を抱いてくる。さっさと離せと言いたいが、言葉が口から出なかった。子供のくせに、と思いはするものの妙に戦士らしい強い腕が快い。自分で思った以上に疲れているらしい、サイファは溜息をついた。
「大丈夫?」
 ウルフの、不意に見せる鋭さがたまらなく嫌だった。何も言わずにサイファは首を振り、腕を引き剥がそうとした。
「やっぱすごい疲れてるよね。さっきもちょっとふらふらしてたし」
 強引に体をひねられ、ウルフの胸に抱き取られる。うっかり座っていたのが間違いだった、サイファは怒る気力もなくまた溜息をつく。
「お前が余計に疲れさせてるんだ」
「未熟だしね」
 笑ってウルフは見当違いのことを言い、サイファの髪を指で梳いて額に手を当てた。
「熱はないよね」
 ほっと安堵した声。誰かに心配されることが気持ちいいなどよほど自分は疲れているらしいと、サイファは先程とは違う種類の眩暈を感じていた。
「焦げ臭い、離せ」
 これ以上こうしていたら、立つ気力までなくなりそうだった。それほどまでに疲労が溜まるほど無気力な生活をしていたわけではないはずだとサイファはいぶかしんでいた。実戦から離れて長いせいだと思いたいが、そうでもない気もしていて戸惑う。もっとも、ではなぜかと問われたならば答えることなどできなかったが。
「あ。ごめん」
 ようやく腕が離れ、急に寒くなる。思わず身震いをしたのを見たウルフの顔が曇った。
「戻る」
「休まなくて平気なの」
「あの男に仲間がいたら面倒だ。さっさと発ったほうがいい」
「シリルたちもそう言ってたけど……」
「行くぞ」
 まだ懸念する声を後ろにサイファは歩き出す。足許が乱れるか、と思ったがそのようなことはなくしっかりとした足取りで歩き出せた。やはり想像以上に疲れているわけではない、そう確認する。
「サイファ」
 走り寄ってきたウルフに右手が絡め取られた。
「邪魔だ」
「心配だから」
「離せ」
 言ったがサイファは自分から振りほどこうとはしなかった。右腕だけが妙に温かくて、困る。並んで歩く、自分より小さなまだ若造としか思えない人間を頼っているなど、断固としてサイファは認めなかった。
 道を筋一本、戻る。そこで一度サイファの手に指を絡めてウルフは手を離した。覗き込むようにサイファを見ては微笑む。
「大丈夫だよね?」
「そう言っている」
「少し行ったら休憩できると思うよ」
「どうだかな」
 なによりサイファは安堵していた。あのまま腕を取られて兄弟の元に戻るなど、とてもできることではない。そのようなことをされたならば、ウルフの腹に電撃の魔法のひとつくらいは叩き込んでしまいかねない。程なく二人の姿が見え始めた。
「お帰り、ウルフ」
 穏やかな顔をして見つめるシリルの横でアレクがにやつきながら手を振っている。その顔を見て、しみじみサイファは手を離してくれたことを喜ぶのだった。
「少し進んでから朝食にしましょう。何かあるといけませんし」
「わかった」
 シリルの言葉にサイファがうなずく。その間、ウルフは一言も口を挟まなかった。サイファは少しばかり意外に思う。おそらく自分が疲れているのと言い立てて面倒なことになるのではないかと案じていたのだから。
「じゃ、行きましょ」
「さっさと行って朝ごはん! 俺、おなかすいたもん」
「やっぱり坊やはガキだわねぇ」
 アレクが笑って、先に歩き出したウルフを追う。シリルがサイファを見て、少しだけ笑った。




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