腕の中、ぜいぜいとウルフが喉を鳴らしている。激しい頭痛に必死で耐えているのがサイファにもわかる。 魔法を使うサイファやシリルには耐性があった。リッチの最期の叫びは一種の魔法攻撃と言えなくもなかったからだった。だが、アレクやウルフにはその耐性はない。頭痛と言う形で現れはしたが、生命力そのものに打撃が与えられていることは明白。耐え切れなければ命を失う可能性さえある。 ウルフの体を抱きながら、サイファは願う。どうか耐え抜くように、と。柔らかい赤毛の感触も温かい体も失うにはあまりに惜しい。 と、思ったところで体を硬くした。そのようなことを考えた自分が解せなかった。他人の体の温もりを知ることなど、もう二度とありえないと思っていた自分が不意に抱いた体。それがこのようなわけのわからない思いを抱かせるのだ、そう思いはしたが動揺は去らない。 「サイファ」 震えた弱い声。いつの間にか背中に回された腕が、痛むほどしがみついている。 「なんだ」 努めて普段どおりの声を出した。あらぬことを考えた身には、今この抱き合っていると言う事実が妙に強く意識されてつらい。それを悟られるなど恥辱以外の何物でもなかった。 「さっきの、なに」 「あの声か?」 話す気力が戻ってきたならば、一安心といった所か。少しばかりサイファは安堵する。 ウルフはサイファの言葉に首を振り、あの存在そのものが何か、と身振りで尋ねた。 「そうだな……リッチという魔物なんだが」 「名前じゃ、なかったんだ」 「オルトの町の男はそれを知らなかったようだな」 わずかにサイファの声に微笑が混じった。おかげでこちらの有利になったのだから、かえって例の男には感謝したいくらいだった。 リッチ。それはかつての偉大な魔術師。その慣れの果て、と言ってもいい。魔法を極めた人間が永遠の命を望み、そして自らの肉体を不死化させた存在。 「一種の魔法生命体、生ける死者と言ってもいい。生前の性格はある程度残るから、手口から考えてどうやら死霊魔術をよくする者だったようだな」 そうサイファは低い声で説明した。ウルフにどこまで理解できるかは、わからなかったが。 「そっか、だからシリルが……」 「そうだ。神官の使う神聖魔法はあの手の魔物を払う力がある」 意外と理解しているようだ、とサイファは微笑む。それを知ればウルフはさぞ残念がることだろう。腕の中の彼にはその笑みを見ることは出来なかった。 「傷はどうだ」 「ちょっと痛い」 「見せろ」 ようやくいまだにウルフの髪を撫でていたことに気づき、サイファは忌々しげに手を離す。名残惜しい、と思う自分が許し難い。 「もうちょっと……」 そっとウルフがサイファの肩に頬を寄せた。 「なにがだ」 いぶかしげな声を出してしまう。まるで自分がこの温もりを離したくないと思っているのを察せられたようで気分が悪い。 「サイファ、気持ちいい」 背中を抱く腕が、離れたくないとばかりに力をこめてくる。先ほどのような痛みを伴うものではなく、どこかくすぐったく、甘い。 「甘ったれるな」 一言のもとに引き剥がし、顎を捉えて睨みつける。ウルフは笑っていた。腹が立つのにほっとする。少なくとも、あの悲鳴の影響からは脱したようだった。 風に乗ってシリルの、死者への祈りが流れてくる。アレクも無事だったらしい。 「薬つけとけば大丈夫だと思うよ」 焦げた革鎧の臭いを漂わせてウルフが言う。あちらこちら切り傷だらけ火傷だらけだった。サイファが見る限り、とても大丈夫とは言い難い。 そっと頬に指を当てて口の中で呪文を唱える。解放した途端、眩暈がした。ウルフの頬の傷は消えかかってはいたが、この調子で治療をしていてはサイファのほうがもたない。考えてみればずいぶん立て続けに大きな呪文を使っていた。そもそも魔術師は傷を癒す呪文に長けているとは言えない。 「サイファ! 大丈夫だってば」 わずかに揺れた体をウルフに抱きとめられる。戦士の体は頑丈なものだと思う反面、長い間ろくろく大きな呪文を使ってこなかった自分の体がいささか鍛錬不足であることも感じていた。 「こい」 それだけを言って、ウルフの腕を引く。抗議するウルフにかまうことなくシリルの元まで引きずった。 「余裕があったら、治してくれ。私の手には余る」 頼みたいのに、うまく頼むことができないのがもどかしい。 「もちろん。ウルフ、座って」 すがすがしい笑顔で了解してくれたシリルにほっとするのも束の間、その彼の後ろでアレクの唇がにやりとしたのを見ては、顔をそむけたくなった。 「ずいぶん派手にやられたね」 「掠り傷ばっかだよ」 「それでも」 座らされたウルフが文句を言うのを聞き流しながらシリルはウルフの体に手を当てて、呪文を唱える。サイファのそれと違ってシリルの呪文はウルフにも意味のわかる、祈りの言葉のようだった 「サイファのとずいぶん違うんだね」 「魔法が?」 「うん」 一度で治りきれないものに、再度手を当ててシリルが傷を癒していく。 「サイファのは真言葉の呪文だからね。僕の魔法は、そうだな……神様にお願いしますって頼む言葉だから」 「あぁ、そっか。だからわかるのか」 「君にわかりやすく言えば、そういうこと」 言ってシリルが笑い、子供扱いされたウルフが頬を膨らませる。 「サイファ」 それを黙って見ていた彼にアレクが声をかけた。 「じっと見てなくたってちゃんとシリルが治すわ」 「することがないだけだ」 からかい口調にむっとサイファが言葉を返す。それを軽くいなし、アレクが向こうに行こう、と指をさす。リッチのローブが散り去ったあとを指していた。 「今までなかったようなもんが見つかるかもしれないもの」 あの悲鳴で血の気を失うほどの苦しみを味わった人間と同じとはとても思えない。良くも悪くも逞しいのが、人間と言う種族だった。呆れ半分、尊敬半分でサイファはうなずき、アレクと共に歩き出す。 昇り始めた日の光に、それはすでに塵の影としか見えなかった。そこで魔物が死んだと知らなければ塵だとも思わなかっただろう。 膝をつき、アレクがゆっくりと目を凝らしている。 「それとって」 目を離さず指さした方向には、あの操られた死者が持っていた麺棒が。そんなものをどうするのか、と不審に思いながらもサイファは黙って取って渡す。長い間生きてはいるが、魔物を倒して金品を得るなどという経験はなかったので、物珍しいのだ。 アレクは麺棒でそっと地面をかき、慎重にそこを掘っていく。塵は風に消え、土の塊が掘り出されているようにしか見えなかった。 「あった!」 満面に喜色を浮かべ、アレクはサイファを振り仰ぐ。その手に光るものをもっていた。 「なにがあったんだ?」 金貨以外のものを見つけるのは一行にとって初めてで、サイファにしてもそれはどことなく嬉しい。 「わからないわよ」 けれどあっさりアレクは言い放つ。立ち上がって膝を払い、ようやくしげしげと手の中のものを見つめた。 「アンタの得意分野みたいね」 首をかしげてアレクが差し出した手の中には一対の銀の耳飾りがあった。繊細な細工を施した銀の台に青い小さな宝石がはまっている。葡萄の房と蔦を模した物らしかった。 「あぁ……」 受け取ったサイファの手の中で耳飾りがわずかに脈動する。魔法を帯びていた。ごく弱い。だが魔法のアーティファクトに違いはない。 「動きを素早くする魔法がかかっているようだな」 知らず閉じていた目を開け、サイファは告げる。 「ありがと。やっぱ魔術師がいると便利だわ」 耳飾りを受け取りながらアレクが笑う。言葉面だけを取ると癇に障るものの、真意は別にあるということを学んでいるのでサイファもそれほど腹は立てない。 「シリルもわかるだろう?」 「あの子はあんまり得意じゃないみたい」 「得手不得手と言うものがあるからな」 「アンタに不得手ってあるの?」 茶化した口調でアレクが問うた。朝の光の中、跳ね回る金の髪が光っている。自然に美しいとサイファは思っていた。アレクの美しさは、その生命力の激しさにあるのかもしれない。顔形が美しいというよりは、その炎のような気性が好ましい、と思うのだから。 「特にない」 唇に笑いをにじませてサイファが言うのは珍しいことだった。事実ではあったが、そのような言い方をすることが珍しい。 「ほんと、アンタっていやな奴よね!」 言葉とは裏腹な明るい笑いがほとばしる。まるで何事もなかった、穏やかな朝のようだった。 「アレク?」 治療が終わったのだろう、シリルが不思議そうに声をかけてくる。 「なんでもない。それよりいいもんあったわよ」 「何か見つかったんだ」 「うん。動きが素早くなる呪文がかかってるって、サイファが」 まだ座っている二人の側にアレクも膝をつき、手の中の耳飾りを見せている。魔法の品にふさわしく、地中から出てきたというのに汚れ一つついていなかった。 「アタシね」 「僕もそう思うよ」 「まだ何も言ってないじゃない!」 シリルの肩を叩くふりをして振り上げた手で軽く頭をはたく。シリルの抗議と笑い声が響く。 「アレクはウルフにって思ったんじゃないの?」 「そうだけど。先に言われるのって嫌」 「はいはい。ごめんね」 「誠意がこもってない」 じとり、ねめつける視線にただならぬものを感じたシリルが目をそらして乾いた笑い声を上げている。思わず笑いかけてサイファの喉が鳴った。 「アンタまで笑わないでちょうだい!」 「すまない」 振り返ったアレクのとばっちりを受けてサイファまでが怒鳴られるのを、ぽかんとウルフが見ている。 「まぁ、いいわ。アンタがつけたらいい。戦闘が楽になるから」 渡された耳飾りをじっと見つめウルフが困ったような顔をする。 「似合わないわけじゃないと思うわよ」 意地悪く言い添えたアレクの言葉にはじめてそれを知ったよう、さらに困惑の度合いが酷くなった。 |